レイソル一筋でプロ20年のキャリアを終えた大谷。タイトル獲得も、降格も経験。クラブの歴史に、その名を深く刻み込んだ。写真:滝川敏之

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 セレモニーを終え、引退会見に臨んだ表情は終始晴れやかだった。

 20年の間には、やり残したことや、到達できなかった目標はあったのかもしれない。ただ、プロとしてサッカーと真摯に向き合い、試合はもちろん日々の練習から常に全力でプレーをしてきた。

 その点においては、間違いなく“やりきった”のだと思う。会見でも「引退すると決めてからチームメイトと話をして、引退をサポーターに伝えて、僕の中で勝手にスッキリしていた」と心情を述べていた。

 Jリーグが開幕した1993年。社会現象にもなったあの熱狂を、大谷秀和は小学3年生で迎える。その2年前に、すでに地元の少年団でサッカーを始めていた彼も、サッカー少年の例に漏れることなく、三浦知良、ラモス瑠偉、井原正巳といった当時のスター選手への憧を抱いていた。

 同時に、近隣に柏レイソルというプロサッカークラブがあることを知ったのもその頃だった。試合観戦をはじめ、柏のファン感謝デーに足を運んだこともあった。当時のキャプテン・飯田正吾のサインカードを手に入れ、PKゲームで貰った黄色と黒のコインケースを大切に使っていた。
 
 小学5年生の時、全日本少年サッカー大会で柏U-12の優勝を目の当たりにし、「自分もレベルの高いチームでプレーがしたい」と強く意識するようになった。翌年のセレクションを通過し、1997年から柏アカデミーに加入した大谷は、以来26年間、一貫して黄色のユニホームを着続けていく。

 U-18まではトップ下を務め、主に攻撃的な役割を担っていた大谷のボランチ転向はプロ加入後である。彼自身、「ユースの時までは『守備って何?』という選手だった」とプロ入り前のプレーを振り返っているが、そんな大谷にとって良きお手本となったのが、アカデミーの大先輩でもある明神智和だった。

 プロ2年目以降に明神とダブルボランチを組む試合が増えていくと、大谷は守備面を含め、味方を助ける数々のプレーを学び、サッカー選手としての幅を広げていった。

 サッカーの醍醐味である得点や、派手なプレーで観衆を沸かせるわけではない。だが、優れた技術と卓越した戦術眼、状況判断の良さと的確な予測、そして俯瞰してサッカーを見る視野の広さという自らの特長を駆使し、中盤でチームのバランスを取り続けた。だからこそ歴代の全監督から重宝され、常に主力選手としてプレーしてきた。

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 現在はトップチームのコーチを務め、現役時代には大谷とダブルボランチを組んだ栗澤僚一は、大谷の特長と凄みを次のように語っている。

「危ないところにいたりとか、そこにいてくれないと困るという時にいてくれる。特別足が速いとか、身体もそこまで大きいわけではないけど、気が利くというんですかね。だからどの監督も彼を試合で使いたいと思うし、彼がいれば試合運びが上手くいく。彼の存在がいかに重要かというのは、一緒にプレーした選手が一番感じる部分です」

 そんな大谷のプレーを語るうえで印象深い試合がある。2011年J1リーグ32節の清水戦だ。リーグ終盤戦、首位に立つ柏は、名古屋、G大阪と壮絶な優勝争いを繰り広げていた。

 1−1で迎えた試合終盤、大谷はライバルチームとの勝点差を考え、仮に引き分けで終わったとしても自分たちの首位は変わらない。むしろ勝ち急ぐあまり前がかりになることで失点を許し、首位の座からの陥落は絶対に避けなければならないとして、周囲の選手にリスク管理を徹底させた。

 最終的に柏は85分のレアンドロ・ドミンゲスの得点によって逆転勝利を収めるのだが、大谷の見事なコントロールもあってチームは攻守のバランスを失わず、安定した試合運びを続けた末に手にした勝利でもあった。この1勝で、柏はJ1初優勝に王手をかけた。
 
 そして大谷は、誰もが認めるキャプテンだった。引退セレモニーで流れた映像でも、「偉大なキャプテンとしてプレーしていた姿を一生忘れない」(明神)、「僕にとっては永遠のキャプテン」(大津祐樹)、「僕の中でベストキャプテン」(山中亮輔)と、先輩・後輩からメッセージが届いた。

 2008年、当時の石粼信弘監督に促される形で、大谷は23歳の若さでキャプテンに就任した。チームを代表して腕章を巻くことの重みは、選手としてのみならず、人間としても彼の成長を大きく促進させた。

「当時いた自分より上の人たち、特に南(雄太)さん、キタジさん(北嶋秀朗)にはすごくお世話になって、いろいろな話を聞いてもらって、そういう人たちの支えがあったからキャプテンができていたと思います。ただ、イシさん(石粼監督)から責任のある立場を与えられたからこそ、周囲を気にかけたり、目を配る部分も出てきたので、キャプテンという立場を与えられて良かったと思います」(大谷)

 プロ入りから数年は、茶髪にパーマ、あるいはやや長めに髪を伸ばすといった年相応の若者らしい風貌だったが、キャプテン就任以降はチームの代表として公式の場に出ることが増えたため、短髪黒髪に変えた。
 
 さらにチームメイトとの対話を心掛けた。新加入選手、新外国籍選手に対しては、練習初日から自分から歩み寄り、積極的に声をかけた。試合でミスをした選手が、敗戦の責任を背負いすぎたと感じた時には、必ずその選手をフォローして次に向かうように気持ちを切り替えさせた。

 アカデミー選手や大学生が練習参加に来た時も自分から話しかけ、彼らの緊張を解した。そんな彼らから「練習参加に来た時に、タニくん(大谷)が声をかけてくれて安心した」という話を聞いたのは、一度や二度ではない。

 また、昨年は足首の怪我が原因で大谷が欠場する試合が増えた。代わりにキャプテンを任されたのは若い古賀太陽である。だがチームは残留争いの渦中にあり、キャプテンを務める古賀は成績が上がらない責任を感じ、悩んでいた。そんな重圧を取り除いたのは大谷の声かけだった。

「難しいよな、どう振る舞えばいいか分からないよな。でも考えすぎなくていいんだよ。自分のところで失点したとか関係なく、声をかけて大丈夫だ。自分が思っているほど、他の選手はお前に言われたくないなんて思ってない。そこはそんなに気にしなくていいよ」

 かつて23歳でキャプテンに就任した大谷だからこそ、同じぐらいの年齢でキャプテンを務める古賀の辛さや苦悩が、他の誰よりも理解できたのだろう。この言葉をかけられた古賀は「タニくんに救われた」と話していた。

 この2年間は足首の故障もあり、出場機会が限られていた。引退会見の場でも「足首はボロボロなんですけど」と語っていたが、取材を通じて日々、彼と接し、会話を重ねた言動の端々には「もっと上手くなりたい」という向上心が溢れ出ているのが常に感じられた。

 以前、大谷は「現役をやめる時は、向上心がなくなった時」と話してくれた。しかし終始、笑顔で、清々しい表情で言葉を紡いだ引退会見を見ていると、向上心は枯渇しておらず、今も変わらず持ち続け、次のキャリアに向けた新たなエネルギーになっているという気がする。
 
 今後はコーチングライセンス獲得に向けて「日々勉強していく」という。「将来、柏の監督というビジョンはありますか?」というメディアからの質問に対しては「自分が監督に向いているのか分からないので、そこまでは考えることはできない」と明言はしなかった。

 ただ、確実にはっきりしているのは、現役を退いても大谷はまた来年も柏にいるということである。

 12年前のインタビューで、大谷は「現役の間は生涯レイソルでいたい」と口にした。彼はそれを全うし、20年の現役生活に幕を閉じた。公式戦611試合出場はクラブ最多記録。Jリーグ3大タイトルの獲得と三度の降格と、柏というクラブの光と影の全てを見てきた男。

 まさに“ミスター・レイソル”と呼ぶに相応しいキャリアだった。

取材・文●鈴木 潤(フリーライター)