「母は強し」というが、昔の女性はどうだったのか。偉人研究家の真山知幸さんの著書『日本史の13人の怖いお母さん』(扶桑社)より、室町幕府8代将軍足利義政の妻で、「日本三大悪女」とされる日野富子のエピソードを紹介しよう――。
応仁の乱(1467〜1477年)(画像=歌川芳虎/https://www.japanese-finearts.com/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■日野富子が「日本三大悪女」といわれるワケ

京都の人が「先の戦争では……」「あの戦争では……」と言うときの「戦争」とは、何を指すか。なんでも昭和の太平洋戦争ではなく、室町時代の「応仁の乱」のことを言うとか。

伝統を誇る京都人にまつわるジョークとしても知られているが、「応仁の乱」は、そう語り継がれるほど、大規模な戦だった。室町幕府の8代将軍である足利義政の後継者争いをきっかけにして、全国の守護大名が二つに分かれて争うことになったのである。

激しい戦いは、1467年から1477年にかけて、実に11年も続いたというから、ただ事ではない。そんな途方もない戦を生んだきっかけとされているのが、日野富子である。

「応仁の乱」を引き起こしたとされる日野富子は、政治に干渉しすぎたことで、北条政子や淀殿と並んで「日本三大悪女」とされている。はたして、どれだけトンデモない人物だったのだろうか。

■名家から嫁いだ先で世継ぎ問題に悩まされる

日野富子は1455年、8代将軍である足利義政のもとへ嫁いでいる。富子は16歳で、義政が20歳のときだ。

日野家は平安時代以来の貴族の家で、鎌倉時代以降は、多くの女子を女房(女官)として朝廷に送っている。室町時代になると、3代将軍の足利義満以降は、日野家から将軍の正妻を出すのが伝統となっていた。

富子はそんな由緒ある名門で、何不自由なく育った。そして、これまでの日野家と将軍家との関係性に従って、富子も将軍・義政の正妻として迎え入れられたのである。

ただ、富子が輿入れしたとき、すでに義政には側室(正妻以外の奥さん)の女性が何人かいた。それだけではない。婚姻の前に2人の子どもが、婚姻のあとにも1人の子どもが側室との間に誕生している。富子としても複雑な胸中だったことだろう。

正室として、なんとかして世継ぎを生まなければ……。そんな思いを日々巡らせていた富子だったが、結婚してから4年後、ついに妊娠する。子どもが男の子か女の子だったかは両方の説があり、はっきりしない。確かなのは、不幸にも富子が宿した第1子は死産、あるいは、産後すぐに亡くなっているということだ。

喜びが大きかったぶん、悲しみも深い。悲嘆に暮れるなかで、富子はこんな恐ろしい噂を耳にすることになる。

■政治の実権を握る「邪魔な女」を島流しに

「富子様の宿した子どもは、あの人が呪い殺したらしい……」

あの人とは、今参局のことである。今参局とは、義政の乳母にあたり、将軍から信任が厚かったため、政治の実権を握っていた。そんな今参局と富子は普段から何かと対立していた。それだけに、そんな噂を聞きつけて、黙ってはいられるはずもない。

また、義政の母である日野重子も、今参局のことが気に食わなかった。富子にとって重子は「おじいちゃんの妹」、つまり、大叔母にあたる。

富子と重子の2人で、将軍に訴えたのだろう。今参局は義政によって、琵琶湖の沖島へと島流しにされてしまう。

将軍の義政にとって、乳母の今参局は、頼りになるかけがえない存在だった。だが、妻と母の両方から攻め立てられれば、かばうことも難しい。「呪い殺した」という噂も、無視できなかった。

■今参局は「日本史で初めて切腹した女性」だった

富子と重子のタッグで追い出された今参局。そもそもの噂自体を流したのがこの2人だったともいわれているが、話はそれだけでは終わらない。なんと今参局が流罪地へ護送される途中に、刺客が送られているのだ。

将軍の義政には、優柔不断なところがあった。そんな息子の性格をもっとも知るのが、母の重子だ。義政の気が変わって、今参局を許すのを恐れて、重子が刺客を送ったとも言われている。なんともはや、義政が母・重子を恐れるはずである。まさしく重子も「怖いお母さん」だった。

だが、今参局もまたぶっ飛んだ女性だった。刺客にやられるくらいならば、と切腹して自ら命を絶ったのだ。

写真=iStock.com/Memorystockphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Memorystockphoto

当時、女性が自害するときには刀で喉を突くことが多かったが、今参局は「武士の心」が宿っていたのかもしれない。今参局は「日本史で初めて切腹した女性」と言われている。

母の日野重子、妻の日野富子、そして自害した乳母の今参局とエネルギッシュな女性に囲まれたこともあってか、義政はどんどん政治から離れて、富子が幕政に影響力を持つようになる。

義政としては側室にでも癒しを求めたいところだが、富子は側室4人を追放したともいわれている。将軍に影響力を持ちうる女性はどんどん排除されることとなった。

そんな勢いがあるときは、物事がうまく回るものだ。1465年、富子はついに男の子を生んだ。義尚である。

■息子・義尚の誕生から将軍跡継ぎ問題に発展

この義尚こそが、将軍の後継者になるはずだが、ややこしい事情があった。「もう自分には男子ができない」と、その前年に義政は出家していた弟の義視に頼み込んで、還俗(僧侶をやめ俗世に戻ること)させてまで養子とし、将軍後継者としていたのである。

あまりにタイミングが悪すぎる。「一体、何をやってくれたの、あなたは……」と富子が苛立ったとしても、不思議ではない。富子はなんとか我が子の義尚を将軍にしようと、後見役の山名宗全や日野家の権威をバックにして、各方面に働きかけていく。

そこに幕府の実力者である細川勝元と山名宗全の対立などが起こった結果、応仁の乱が勃発することになる。これが「富子が息子を将軍にしたがったために、応仁の乱が起きた」と批判されるゆえんである。

だが、応仁の乱は、そもそも守護大名・畠山義就とその従兄弟・畠山政長の家督争いが、火種となっている。義就には山名宗全、政長には細川勝元らといった有力大名が味方したことで、争いは激化。1467年5月26日に、細川方が東軍、山名方が西軍として、全面衝突することになった。

つまり、将軍跡継ぎ問題は「応仁の乱」につながった1つの原因ではあるが、富子だけに責任を問うのは違うだろう。

■頼りにならない夫の代わりに利害関係を調節

そもそも正妻が我が子を将軍にしたいと考えるのは、当然のことである。むしろ責められるべきは、腰の定まらない将軍の義政ではないだろうか。義政が、富子との間に生まれた義尚を後継者に決定したのは、1469年とあまりにも遅かった。

頼りにならない夫にかわって動いたのは、富子である。ゴタゴタを終わらせるべく、仲違いしていた義政と義視の兄弟を和解させたうえで、西軍の好戦派である大内政弘と幕府との交渉を取り持った。

その結果、大内に守護職として4カ国の所有権を持つことを認めて、官位も昇進させ、そのかわりに京からは撤退させた。そうなると、もはや戦う意味もなくなったので、畠山義就も撤退することになる。

何かと表に出る女性は「悪女」とされがちだが、富子もまさにそのパターンだった。富子は利害関係の調節がうまく、「応仁の乱」でもその強みが発揮されたのだ。

■稼いだ70億円で天皇家と将軍家のメンツを保った

富子が悪女とされる理由がもう1つある。それは「金儲け」に走ったことである。

戦乱で国が疲弊するなか、富子は京都七口に関所を作って関銭を徴収。さらに、米の投機や高利貸しなどからワイロを受け取ることで蓄財に励んだ。

人々はそんな富子に反感を持つが、富子からすれば、応仁の乱で京が破滅的な状況のなか、厳しい財政を切り盛りするのに必死だったのだろう。夫の義政といえば、政治を放り出して隠居。子の義尚がたったの10歳で将軍になったのだから、富子がしっかりしないわけにはいかない。

富子のもとには、銅銭や刀剣などの贈り物が集まってきたが、それを私財として蓄財。現在のお金に換算すると、富子は実に70億円ほどの資産を有していた。

真山知幸『日本史の13人の怖いお母さん』(扶桑社)

確かに「金の亡者」と言われても仕方がない部分はあるが、大切なのは使い道である。富子は、戦乱で疲弊した朝廷のために、献金や献品を行ったほか、内裏の修復や新邸の築造を行っている。さらに、戦乱で焼かれた神社・仏閣などの修復も積極的に行うなど、私財を投じて、天皇家と将軍家のメンツを保ったのである。

一方の夫の義政はといえば、飢饉(ききん)によって人々が飢えているのもおかまいなしに、3代将軍の義満が造営した「花の御所」と呼ばれる大邸宅の再建に着手。 莫大(ばくだい)な費用をかけようしている。

後花園天皇から和歌でたしなめられて中止したものの、こんな使い方に比べれば、富子のほうがよほどリーダーにふさわしいと言えるだろう。

実は、富子は応仁の乱で、畠山義就に撤退を促す際に、1000貫文を貸しつけている。富子は稼いだお金で、応仁の乱を終結させたのだ。これ以上の国益があるだろうか。

■「強すぎる母」のハードモードの人生

ただ、強すぎる母を持つ苦しみが、息子の義尚にあったのかもしれない。権力志向の強い富子とはやがて対立。酒や女性におぼれて1489年に25歳で亡くなってしまう。その直後の1490年に夫の義政も没している。

夫と子を亡くしながらも、富子はたくましい。義視の子で義政の養子となった義植を将軍職に擁立。その義植からも反発を受けると、今度は堀越公方・足利政知の子、義澄を将軍につけて、自身の権力を手放さなかった。

名門のお嬢様に生まれて、将軍家の正妻という安定を手に入れたはずが、運命に翻弄(ほんろう)されて、ハードモードの人生を歩んだ富子。後世の評価を聞いても「悪女だろうが、生き抜くためには強くなきゃならないのよ」と気にもしないだろう。

富子の死後、将軍家の権威はますます失墜し、群雄が割拠する戦国時代へと突入していく。

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真山 知幸(まやま・ともゆき)
著述家/偉人研究家
1979年兵庫県生まれ。2002年同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆活動を行う。『ざんねんな偉人伝』シリーズ、『偉人名言迷言事典』など著作50冊以上。近刊に『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』(PHP研究所)、『日本史の13人の怖いお母さん』(扶桑社)。
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(著述家/偉人研究家 真山 知幸)