ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いている。4月にはウクライナの首都キーウ(キエフ)近郊での民間人虐殺が明るみになった。元外交官で作家の佐藤優さんは「ロシアはブチャ事件を情報戦として捉えて全否定している」「戦時中の発表はすべて、そのまま鵜呑みにするのは危険な性質を帯びている」という。
写真=SPUTNIK/時事通信フォト
2022年4月12日、極東のボストーチヌイ宇宙基地内のソユーズ2宇宙ロケット技術棟で、ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領と対談中のウラジーミル・プーチン大統領 - 写真=SPUTNIK/時事通信フォト

ウクライナで多数の民間人が犠牲になったのは疑いようがない

ウクライナの首都キーウ(キエフ)近郊のブチャやチェルニーヒウからロシア軍が撤退したあと、たくさんの民間人の遺体が、路上などに放置されているのが見つかりました。多くの国が、「これは戦争犯罪であり、ジェノサイド(集団虐殺)だ」とロシアを厳しく非難しました。

それに対してロシア外務省は、「遺体の写真や映像は、アメリカの指示によってウクライナが作ったフェイクだ」とか「ウクライナの過激派が殺害した」などと関与を否定。ロシア国防省も、「ロシア軍の管理下で、住民は一人も暴力の被害を受けていない」と主張しています。

ロシアが一方的に始めた軍事侵攻で、ウクライナのたくさんの民間人が犠牲になっている事実は疑いようがありません。この点についてロシアが全否定するような対応を取っていることにもそれなりの理由があります。ロシアはブチャ事件を情報戦として捉えています。全否定という態度をとったほうが情報戦において有利な立場を得らえるとロシアは考えているのでしょう。

■繰り広げられる情報戦

侵攻が始まった翌日の2月25日、ウクライナのゼレンスキー大統領は、黒海のズメイヌィー島の国境警備隊が投降を拒んで英雄的に全滅したと、涙ながらに語る動画を投稿しました。

降伏を促すロシア軍とやり取りしたとされる音声が残っています。ロシア軍の巡洋艦の将校が「流血と不要な犠牲を回避するため、武器を置くことを提案する。さもなくば、爆撃を受けることになる」と呼びかけたのに対し、警備隊員の1人が「ロシア軍艦、消え失せろ」と答えたとされます(2月25日・CNN日本語版)。

ゼレンスキー大統領は彼らの死を悼み、英雄勲章を授与すると発表しました。ところが翌26日、ロシア第一テレビニュース番組でノーヴォスチ通信は、ズメイヌィー島警備隊の82人全員が武器を捨てて降伏し、無事であると伝えました。ロシア軍から食料とミネラルウォーターを受け取ってバスに乗り込む隊員たちの姿を写し、「ゼレンスキーはこの生きている人々を死んだことにして、英雄勲章を与えた」と報じたのです。

さらにその翌日には、2人の隊員が氏名を明らかにしたうえでインタビューに応じて「私は生きている。勝手に殺さないで」と訴えました。CNNの3月1日の報道では、ウクライナ海軍の話として、連絡が途絶えていた彼らが弾薬不足によって投降し、生存している事実を伝えました。

■「俳優を雇って演じさせている」と互いに非難

また西側の一部の報道では、ドネツク州でロシア軍から人道支援物資を配られて喜んでいる住民は、みんなロシアが雇った偽ウクライナ人で、インタビューに答えているのは俳優だと言います。

そしてロシアも西側の報道に対して、同様の指摘をしています。

ウクライナ侵攻後、ロシアの政府系テレビ第1チャンネルで「アンチフェイク」というテレビ番組を毎日放送しています。自分たちが行っているフェイクについては一切言及せず、ウクライナや欧米のフェイクを一つひとつ検証して潰していくという内容です。

西側の番組で取り上げられた、泣いて悲しむウクライナ人の写真は実は合成写真なんだとか、同じ人間がさまざまなシーンに何度も登場しているからこれは西側が雇った俳優もしくは情報機関員に違いない、などと指摘しています。

写真=iStock.com/Juanmonino
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Juanmonino

戦争が遂行されている最中において、情報が錯綜するのは仕方がありません。また当然のことですが、どちらの側も自分たちに有利な情報だけ流そうとします(その中には偽情報も含まれています)。これは、旧日本軍の大本営発表に限った話ではありません。戦時中の発表はすべて、そのまま鵜呑みにするのは危険な性質を帯びているのです。インターネットが発達し、さまざまな画像の合成や作成が簡単になった現代では、実際にフェイクも加わります。

■キーウに潜入した報道カメラマンが見たもの

ウクライナで取材を続けている報道カメラマンの宮嶋茂樹さんが、『週刊文春』に写真とレポートを掲載しています。少し古くなりましたが、3月31日号に気になる情報がありました。ロシア軍が、まだキーウを包囲していた時期です。

〈今やキエフは要塞都市と化した。通りという通りにバリケードや対戦車柵、所々トーチカまで築かれ、広場という広場に地雷が埋設されようとして、家という家に武器が配られとる。ウソやないで。不肖・宮嶋が今草鞋を脱いでいる宿も最新式の武器でこてこてに身を固めたにいちゃんだらけや。〉

ロシアは「ウクライナは、住宅地区に銃火器を配置し、住民に武装させている、これは人間の盾戦略だ」と主張し、ウクライナは「そういったことは一切していない。戦闘員と民間人は分けている」と反論していました。

宮嶋さんのレポートを読むと、この点に限ってはロシアの言い分が正しかったことがわかります。その上で、あれだけの人たちを殺していることに、ロシアなりの理屈を立てているのです。つまり、民間人の犠牲は極力出さないようにしているが、ウクライナ側が人口密集地に兵器やスナイパーを隠しているから仕方がないのだ、と。もっとも、ウクライナ軍がそうしているからといっても、ロシア軍が無辜の民を殺してもかまわない理由にはなりません。

ロシアの空爆を受けた産院で、出産直前だった女性は

一方でウクライナが行っている情報戦も、ここから読み取れるわけです。もちろん、理不尽な侵略を受けている国が、他国に惨状を訴えて支援を求めるのは当然です。プレスツアーを組んで、ロシア軍に蹂躙されたブチャやチェルニーヒウへ記者たちを案内しているのも、その一環です。

各国の国会に向けた演説で、相手国の歴史を盛り込んで聴き手の心をつかみ、要求する内容も国ごとに変えているゼレンスキー大統領が、欧米諸国(日本を含む)に対する情報戦略に長けていることは明らかです。

興味深いのは、ウクライナの情報戦が西側の同情と支援を引き出すためにあるのに対して、ロシアの情報戦は西側をまったく意識していないことです。4月13日公開の記事でも触れたように、ロシアは「どうせ西側諸国はこちらの言い分を聞くはずがない」と諦めているため、ロシア国内やロシア語圏における信用を確保できればいいという戦術なのです。

結果として、大多数のロシア国民はロシア政府系の報道を信じています。4月3日放映の第1チャンネルの総合ニュース番組「ブレーミャ」では、ロシア軍の空爆を受けたマリウポリの産院で出産直前の女性として全世界に写真が配信されたという女性が登場しました。「あの写真はAP通信(アメリカの通信社)が勝手に撮影した。飛行機の音も聞こえなかったし、空爆もなかった」と証言しています。

AP通信は3月14日、救出された妊婦は搬送先の別の病院で死亡したと報じていますが、番組では乳児を抱いて幸せそうにしていました。彼女は現在「ドネツク人民共和国」にいるとのことなので、当局が仕掛けていることなのかもしれませんが、幸せそうな彼女の様子を見て大多数のロシア人は第1チャンネルの報道を信じるのです。

■「ブチャの民間人虐殺は、西側が仕掛けた謀略だ」という理解

キーウ近郊のブチャやチェルニーヒウで多数の民間人の遺体が発見された事件でも、ロシア国民の多くは、「遺体の写真や映像は西側が作ったフェイクだ」という政府の説明を信じて、西側が仕掛けてくる心理戦、謀略戦に対する警戒感を強めるようになりました。

このように、ロシア語世界と西側世界の間で、大きな認識のギャップが起きており、事態は極めて深刻です。私はここに、恐ろしさを感じています。日本の報道を見ても、ウクライナ国内に住んでいるロシア人が故郷の両親に電話をかけると、現状認識について話が合わないという事例があります。

戦争の当事者でない日本まで届く情報は、実際に起こっていることの一部にすぎません。どちらか一方の情報がすべて正確で、どちらか一方の情報はすべて誤りだという単純な見方をしていると、物事を見誤ります。自己抑制的に両方の情報を見比べて、自分の頭で真偽を見極める必要があるのです。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優 構成=石井謙一郎)