退職金、これだけ?…家族のために「転勤」を断り続けた大手金融機関勤務の65歳定年夫が受け取る「あまりに少ない退職金額」
転勤を辞退してから、キャリアは静かに形を変えました。家族の笑顔を守り抜いた代償は、想定より少ない退職金――。大手金融機関を勤め上げたある男性のサラリーマン生活の残酷な通信簿をみていきます。
「パパ、行きたくない」あの日選んだ家族の形
55歳で役職定年を迎え、現在は出向先で働くタカノリさん(仮名)。給与はそれまでの年収から大幅に減少しました。彼はかつて、全国の支店を転々としながら、現場の最前線で成果を上げてきました。
娘のモエさん(仮名)が幼いころは転勤続きの生活。ところが、モエさんが小学校5年生に上がったころ、大きな転機が訪れます。「また転勤があるかも」と夕食の席で話すと、モエさんは泣きながら訴えました。
「パパ、転勤もうイヤだ。何度もお友達と離れるの、寂しい」
妻も言葉には出さずとも、知り合いが一人もいない土地で、社宅の人間関係に疲弊させていることをタカノリさんは知っていました。「このままある程度に地位に着くまで、全国を転々として追うべきキャリアなのか……」。タカノリさんは妻と相談します。「単身赴任」という選択肢もあったものの悩んだ末に選んだのは、「夫婦で一緒に暮らさずに、結婚している意味があるのか?」「家族はやっぱり一緒にいるべき」「娘の成長を見逃したくない」という思いから、東京本社に留まることでした。
それからは、何度転勤の話が持ち上がっても断り、本社での勤務に全力を尽くします。東京で戸建てを購入し、家族で腰を据えて暮らせる生活を守り続けました。モエさんにも親友ができ、「友達と離れることなく過ごせてうれしい」と笑顔をみせることが増え、ひと安心。タカノリさんは自身の選択に、確かな手応えを感じていたはずでした。
退職金格差
しかし、退職を迎えたとき、悔しい思いは拭えなかったといいます。年の近い親しくしていた先輩から退職金額を聞いたとき、「俺? 2,900万円くらいだったかな」と聞いたからです。タカノリさんの退職金額は2,000万円。1,000万円近くもの差がありました。
「わかってはいたものの、俺の退職金、これだけか……。がむしゃらに働いてきたのに、こんなに差が出るなんて」
「本社で結果を出せば昇給できるだろう」と思っていたタカノリさんでしたが、昇進に必要な地方支店長の経験が積めず、しだいに「地域限定職」のような扱いとなり、気づけば昇進レースから緩やかに外れていたのです。転勤を断った当時は「家族のため」と納得していたタカノリさんでしたが、いざ老後を目の前にすると、老後資金の心許なさに不安が押し寄せます。
妻は「家族仲がよくて幸せなことが一番だと私は思ってる」といいます。しかし、タカノリさんの胸中には複雑な思いが渦巻いています。
「後悔はしていない。でもやっぱり悔しい。サラリーマンを頑張ってきたことには変わりないから」
家族を選んだ先にあった壁
転勤の有無だけが退職金額に影響したわけではないでしょう。しかし、日本の大手企業(JTC:伝統的な日系大企業)、特に伝統的な金融機関が長年維持してきた「忠誠心の値付け」の構造が大きく影響しているのも事実です。
JTC企業では、昇格に応じて「役職ポイント」や「基本給スライド」が積み上がる仕組みがあります。「役職ポイント」とは、銀行の昇格制度で使われる評価ポイントのことで、支店長・次長・課長などの役職経験を積むことでポイントが加算され、最終役職や退職金の算出に影響する内部指標のことです。また、「基本給スライド」とは、銀行の給与テーブルで、昇格に応じて基本給が自動的に上がっていく仕組みのことをいいます。昇格が止まると、このスライドも止まり、給与の伸びが鈍化します。
タカノリさんは転勤を断ったことで、昇格に必要な経験を積めず、これらが途中で止まってしまったのです。
全国転勤をしながら昇格していく「広域キャリア」と、地域に留まる「地域限定キャリア」では退職金の算出倍率そのものが異なるため、先輩や同僚とのあいだに大きな差が生まれてしまいました。毎年の昇給額のわずかな違いが、30年以上の年月を経て「退職金」という大きな差となって表面化した形です。
厚生労働省「就労条件総合調査」によると、大学卒・管理職の定年退職者の平均退職金は2,280万円となっています。金融・保険業は賃金水準が高く、他業種より退職金が高い傾向にあります。一方で、コース間格差もまた激しいのが実態です。
現在、働き方は多様化し「転勤なし」を条件に働く若手が増えています。しかし、タカノリさんの世代は「会社への献身こそが正義」という価値観のなかでキャリアを築いてきました。「後悔はしていないが、悔しい」という彼の言葉は、古い評価軸で生きてきた自分と、家族との時間を選んだ自分とのあいだで揺れる、現代の会社員のリアルな叫びです。
幸せの「正解」は、会社から記された数字だけが決めるものではありません。しかし、その数字に心が揺れるのもまた、誠実に働いてきた証なのです。
