2026年の干支は丙午にあたる。いまから60年前、1966年の丙午のときには「丙午の女性は気性が荒く、夫の寿命を縮める」といった俗信がまだ世間に根強く、1966年の出生数は前年より25%も減少した。

【60歳に】変わらないかわいさも、表情のコミカルさも還暦とはとても思えない松本明子さん

 では、今年還暦を迎える「丙午の女」は、実際にどのような人生を送ってきたのだろうか。1966年4月8日生まれのタレント・松本明子さん(60)に、「丙午の女」としての波乱に満ちた半生を振り返っていただいた。


「60年前の丙午」に生まれた松本明子さん ©文藝春秋 撮影・橋本篤

――「丙午生まれ」というのは、意識されました?

松本 小さい頃は周囲の大人からよく言われましたねぇ。とくに女の子は。同級生も少なかったですもん。上の学年は5クラスあるのに私の学年は3クラスで、また1つ下は5クラスでした。「丙午の年には子供を作らないようにしよう」とか「とくに女の子は」みたいな風潮はあったんでしょうねぇ。でも逆に、高校受験のときは倍率が低かったからラッキーでしたよ。

――松本さんは香川県の出身ですが、東京の堀越高校に進学しました。

松本 とにかくアイドルになりたかったんですよ。小さい頃から地元のちびっ子のど自慢に出てました。父の通っていたスナックのママさんがステージママみたいな感じになって、「コンテスト荒らし」みたいなことをしていたんです。

 折しも1980年、歌番組全盛の頃ですよ。(松田)聖子ちゃんがデビューして、「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」のような歌番組が毎日のように放送されていて、アイドルが華々しく輝いていた時代です。「私もブラウン管の中に入って歌いたい」という夢が、もう……大きくなりましてね。その当時は「アイドルになるには堀越しかない」と思い込んでいたので、堀越高校の普通科を受験しました。

「歌手になりたいという夢を持って、これから瀬戸内海をフェリーで渡る女子中学生がいます」

――いわゆる芸能コース(現在のトレイトコース)ではなく普通科だったんですか?

松本 そうなんです。

――上京前に所属事務所が決まっていたわけではなく?

松本 何も決まっていませんでした。まだ瀬戸大橋がない時代ですから、宇高連絡船に乗って。

――上京する日の様子は「ズームイン!!朝!」で紹介されて映像が残っていますよね。

松本 あれは「ズームイン!!朝!」の番組内でローカルネタを扱うコーナーがあって、地元の西日本放送が「歌手になりたいという夢を持って、これから瀬戸内海をフェリーで渡る女子中学生がいます」と取り上げてくれたんですよ。中学卒業式の翌日、クラスメイトと担任の先生に「頑張ってこーい」と送られて、桟橋で演歌を歌って「これから東京に行って、いろんなオーディションを受けて合格するまで夢を諦めません」と。

アイドルを目指しての上京からすでに「アポなし」

――ご両親は反対しませんでしたか?

松本 父親は建設会社の支所長みたいな堅い仕事の人だったので、「地元で親の目の届く範囲で歌ってるのはいいけれども上京するのは反対だ」という感じでした。でも私としては夢を諦めきれず、やっぱり「どうしても行きたい」と。そうしたら、母親が応援してくれたんです。

 母は昭和5年生まれですが踊ったり歌ったりが好きだったみたいで、芸能の道に進みたかったんだけれども、女学生時代は戦時中でしたから。叶えられなかった自分の夢を娘に託したいという思いもあったみたいですね。それで「お父さん、応援してあげようよ」と応援してくれました。「やらないで後悔するより、やって失敗して後悔した方がいいよ」と、父親に言ってくれて、母は私の応援隊でしたね。

――何のツテもなく、“アポなし”でアイドルをめざして上京。

松本 そこからはオーディションを受けては落ちる日々ですよ。「ホリプロスカウトキャラバン」に落ち、「HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!! 全国縦断新人歌手オーディション」にも落ち、ようやく「スター誕生!」で合格して渡辺プロダクションに所属できたんです。そうして事務所が決まったから、堀越の普通科から芸能コースに編入でき、国立市にあった渡辺プロダクションの寮に入れました。

――デビューは17歳でした。

松本 デビュー曲は「♂×♀×Kiss」(オス・メス・キス)! 私もね、聖子ちゃんに憧れてましたから、たとえば「そよ風の乙女」みたいな、そういう感じのアイドルっぽい曲を歌いたかったんですよ。それが「♂×♀×Kiss」という、なんと斬新な……。

――座組は豪華ですよね。

松本 そうなんですよ。森雪之丞さんが作詞、後藤次利さんが作曲。ヒットメーカーですよ。でも、これが本当に売れなくて!

 私の1年先輩は「花の82年組」と言われてたんです。松本伊代ちゃん、堀ちえみちゃん、早見優ちゃん、中森明菜ちゃん、キョンキョン(小泉今日子)、シブがき隊。もうそれはそれは大豊作の1年先輩が「花の82年組」でした。その翌年の83年デビュー組は、本当に売れない。みんな鳴かず飛ばず。「不作の83年組」でした。

「お前らは売れないアイドルだから、3人でトリオ・ザ・ゴミと命名しよう」

――そうしたなか「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」に起用されます。

松本 当時は深夜1時から5時までの放送枠でした。小森みちこちゃん、柳沢純子ちゃん、私の3人が呼ばれて「お前らは売れないアイドルだから、3人でトリオ・ザ・ゴミと命名しよう」ということで、番組アシスタントになったんです。

 ちょうどその頃は女子大生ブームで、フジテレビの「オールナイトフジ」が大人気でした。それで「オールナイトフジ」と「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」の共同企画で、テレビとラジオの二元生放送をすることになったんです。その番組の生放送中に、鶴光師匠から「爪痕を残せば話題になって、少しはアイドルとして皆に知ってもらえるんじゃないか」ということで、「この四文字(女性器の俗称)を言ってみろ」ってそそのかされたんですよ。

「デビューから10カ月ぐらいで謹慎生活ですから。謹慎女子高生です」

――いわゆる「四文字事件」ですね。

松本 私も子どもながらに「言っちゃいけない言葉」ではないかと思ったんですけど、「話題になるんだったら」とか「爪痕を残したい」という一心で、大きな声で堂々とはっきりと3回も連呼したんですよ。そうしたら取り押さえられて、スタジオから連れ出され、国立の寮に帰されてしまった。翌日から謹慎生活です。

――ではデビューしてから1年未満で謹慎に?

松本 デビューから10カ月ぐらいで謹慎生活ですから、謹慎までが早い! 謹慎女子高生です。翌日には新聞に「新人アイドル歌手、生放送で不適切な言葉を発言」と出ちゃいました。しかも芸能欄じゃなくて社会面。決まっていたスケジュール、アイドル番組も翌日から全部真っ白になっちゃって「やっちまった」と……。

 のちに鶴光師匠とお会いしたときには「まさか本当に言うとは思わなかった」と謝ってくれましたし、今となっては笑って話せるエピソードになってますけど、当時はもう本当に大ショックでした。「挽回できるのだろうか」とか「私の将来はどうなっちゃうんだろう」と。

――幸いなことに、番組自体はネット局なしの関東ローカルでした。地元でご両親は観ていなかったのでは?

松本 ところがですね、系列局の西日本放送に行って、サブコン(副調整室)で特別に観させてもらっていたんですよ!

――ご両親が目撃していた?

松本 目撃していたんです。あまりのショックで椅子から転げ落ちたそうです。

――ご両親にはどのように報告を?

松本 「故郷に錦を飾るまでは帰らないぞ」という思いで田舎から出てきてますから、もう連絡するのが辛くて辛くて。事務所やマネージャーから怒られ叱られ、「もう荷物をまとめて田舎に帰るしかないんだ」と思いながら、事件の翌日に泣きながら電話しました。それでまず「余計なことを言ってしまって、新聞にまで載っちゃって、たいへんな騒ぎになっちゃった」と言いました。

――どんな反応だったんでしょう……?

松本 私はてっきり「お前の部屋はそのままにしてあるから、荷物をまとめて帰っておいで」と言ってくれるんだろうな、と期待してたんです。ところが母親は電話の向こうで大笑いして「でも話題になってよかったじゃない」と。「アイドル歌手なんて、そもそもあんたに似合っていないんだから、これからはいろいろな分野にチャレンジして視野を広げたほうがいいよ」と言ってくれて、その言葉に背中を押され、「よし、じゃあ頭を切り替えていろんなことにチャレンジしよう」と思えたんです。

「姉さん、歌手班にいても居心地悪いでしょ」とバラエティ班に誘ってくれたのは…

――事務所内ではどんな空気だったんですか?

松本 デビュー当時は給料制で月給3万円、源泉引かれて2万7000円でしたけど、仕事がないのに給料をもらうのは切なかったですねぇ。

 それから学校も、せっかく芸能コースに移ったのに毎日出席することになったのが恥ずかしかった。堀越高校の芸能コースは、3学年あわせても40〜50人くらいしかいなかったので、朝のホームルームは全学年一緒にやるんですよ。そこから学年別に授業があるんですけど、お仕事がある人は学校に来れなかったり早退したりするので、ある意味では「学校に来れない」ことがステータスなんです。でも私は1時間目から6時間目まで毎日授業を受けられる。それが恥ずかしかったですね。なにせ謹慎中ですから、毎日学校に行けちゃう。

――そこからバラエティ路線にはどうやって?

松本 当時、渡辺プロダクションの所属タレントはドラマ班、歌手班、バラエティ班、ロック歌手班に分かれていて、私は歌手班にいたんです。でも事件の後、同じ国立の寮で生活していた2歳下の中山秀征くんが「姉さん、歌手班にいても居心地悪いでしょ。レコードも出せるわけじゃなし、歌のステージをやれるわけでもなし。僕がいるバラエティ班に移ってきたらどうですか」って言ってくれたんです。

――再び編入ですね。

松本 人生2度目の編入ですよ。それでバラエティ班に移って、ABブラザーズさん、中山秀征さん、ホンジャマカさん、ネプチューンさんとか、そういう人たちと一緒にバラエティライブをやったりとか、レッスンを一緒にやったりして、仲間に入れていただきました。その後、「進め!電波少年」に出ることになるんです。

「パレスチナのトップに会いに行ってくれ」松本明子(60)が27歳で迎えた“最大の危機”の真相「カチャッていう銃の安全装置を解除する音が…」〉へ続く

(加山 竜司)