盲目的な愛の果てか?歴史的冒涜か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題とは【前編】

写真拡大 (全9枚)

奈良時代後期の769年(神護景雲3年)、九州・大宰府から朝廷を震撼させる知らせが届いた。

「僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を天皇に立てれば、天下は泰平になる」。宇佐八幡宮の神託として伝えられた衝撃の内容であった。

道鏡とは孝謙(重祚して当時は称徳)天皇の寵愛を受け、朝廷の最高位である法王にまで上り詰めた僧侶である。

この神託を大いに喜んだ天皇は、真偽を確かめるべく宇佐八幡宮に使者を遣わした。だが、再度の託宣は「天皇の位は必ず皇統の血を引く者が継ぐべし」と告げ、道鏡の即位の目論見は阻止される。

孝謙天皇(Wikipedia)

初代・神武天皇以来、「万世一系」(ばんせいいっけい)――永久に一つの皇統が続くこと――を原則とする天皇家において、なぜ孝謙天皇は、皇族の血を引かぬ一介の僧を天皇に据えようとしたのか。

本稿では、日本史を揺るがすこの疑問について[前編][後編]の2回に分けて考察する。
[前編]では、孝謙天皇の人物像を紹介しよう。

※あわせて読みたい:

『べらぼう』と同時代に在位した日本の歴史上最後の女帝「後桜町天皇」の素顔と功績

129人の歴代天皇の内、8人しかいない女性天皇

日本の歴代天皇を振り返ると、初代・神武天皇から第126代・今上天皇まで、合わせて129人を数える。そのうち女性天皇は8人、在位の代数としては10代(重祚を含む)である。

推古天皇は“日本で最初の女性天皇“ではない!?日本最古の歴史書から読み解く知られざる女帝の系譜【前編】

これら歴代の女性天皇に共通する点として、すべてが“男系天皇”であることが注目される。すなわち、皇族と結婚して未亡人となったのちに即位したか、あるいは生涯独身を貫き、即位後に結婚・出産した女帝は一人も存在しない。

つまり、独身のまま天皇となった女性皇族は、その生涯において結婚することも子をもうけることもできないという境遇を受け入れざるを得なかったのである。

最初の女性天皇とされる推古天皇(Wikipedia)

歴代の女性天皇を挙げると、飛鳥時代の推古天皇[第33代]、皇極(のち斉明)天皇[第35代・37代]、持統天皇[第41代]、奈良時代の元明天皇[第43代]・元正天皇[第44代]・孝謙(のち称徳)天皇[第46代・48代]、さらに時代を下って江戸時代の明正天皇[第109代]・後桜町天皇[第117代]である。

それではここから、第46代および第48代として即位した孝謙(称徳)天皇が強く推し進めようとした、僧・道鏡への皇位継承問題に焦点を当てて考察していこう。

そこには、孝謙天皇が女性であったからこそ抱かざるを得なかった苦悩や葛藤が存在していたことも、見逃すことはできない。

聖武と光明子の間に生まれた史上唯一の女性皇太子

孝謙天皇と道鏡という本題に入る前に、まずは孝謙天皇について簡単に説明しておこう。

彼女は718年(養老2年)、聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間に長女として誕生、即位前の名は阿倍内親王(あべないしんのう)といった。

その9年後、夫妻の間には待望の男子・基王(もといおう)が生まれ皇太子となったが、わずか1歳で早世してしまった。

聖武天皇には皇后・光明子のほかに数人の夫人がいたが、その一人である県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に、基王に遅れること1年、728年(神亀5年)に安積親王(あさかしんのう)が誕生した。

聖武天皇(Wikipedia)

しかし親王は藤原氏の庇護下になかったため、皇位に就く可能性は低かった。この状況の中で注目されたのが、阿倍内親王である。

天皇と皇后は、阿倍内親王に将来の帝王学を修めさせるため、秀才の誉れ高い吉備真備を教育係に任じ、『漢書』『礼記』などを学ばせたという。真備は内親王の即位後も近臣として仕え、天皇をよく補佐した。

そして738年(天平10年)、阿倍内親王は立太子され、史上唯一の女性皇太子となったのである。

疫病・貴族間の抗争など国難の中で天皇に即位

阿倍内親王、すなわち後の孝謙天皇が皇太子となったのは20歳の時である。この時、父・聖武天皇と母・光明皇后はいずれも37歳という働き盛りにあった。

しかし、聖武朝のこの時期は大きな動乱に見舞われていた。

前年の737年(天平9年)、天然痘が大流行し、朝廷の中枢を担っていた光明皇后の異母兄・藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)をはじめ、多くの政府高官が相次いで病死するという惨事が起きた。

藤原武智麻呂(Wikipedia)

当時の日本の総人口は約700万人強とされるが、その4分の1が失われた可能性もあるといわれ、まさに国難と呼ぶべき事態であった。

さらに740年(天平12年)には、藤原宇合の子・藤原広嗣が九州で挙兵し(藤原広嗣の乱)、朝廷を大きく揺るがした。この騒乱のさなか、聖武天皇は突如として伊勢国・美濃国への行幸を開始し、平城京に戻らぬまま恭仁京への遷都を断行したのである。

恭仁京大極殿跡(Wikipedia)

相次ぐ災害・疫病・戦乱に直面した聖武天皇は、深く仏教に帰依し、741年(天平13年)には国分寺建立の詔を、743年(天平15年)には東大寺大仏造立の詔を発した。

しかし一方で、彷徨うように繰り返された遷都は、朝政に大きな混乱をもたらした。為政者として不適切とも受け取られかねない天皇の行動に対して官民の反発は強まり、結局は平城京への復帰を余儀なくされることとなった。

そのような状況下、749年(天平勝宝元年)、聖武天皇は突如出家して阿倍内親王に譲位し、自らは太上天皇となった。

ここに本稿の主人公である女帝・孝謙天皇が誕生したのである。

それでは[前編]はここまで。[後編]では、孝謙天皇が道鏡の皇位擁立に動いた真相について考察する。

後編の記事はこちら↓

これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】

関連記事:

女性天皇をたぶらかした悪僧・弓削道鏡。「日本三大悪人」のひとりとされた彼の悪評は捏造!?