■「お国のために一生懸命お務めしてほしい」と送り出された

私は雅子皇后にインタビューしたとき、「天皇陛下とご結婚以来26年、皇族になって生きづらいと思ったことはありませんか?」と聞いてみた。

皇后は、少し困ったような顔をされ、「生きづらいと思ったことはありませんけれど……」といって、言葉を仕舞われた。

写真=時事通信フォト
皇后さまの誕生日行事のため、皇居に入られる天皇、皇后両陛下=2019年12月9日、皇居・半蔵門 - 写真=時事通信フォト

もちろんこれは、私が惰眠を貪(むさぼ)っているときに見た夢でのことだが、今の雅子皇后の胸中を、私が勝手に忖度すれば、そう感じているのではないだろうか。

1993年6月9日、小和田雅子さんの自宅前には、400人以上の報道陣が並んでいた。午前6時18分、皇太子の使いの山下和夫東宮侍従長と高木みどり東宮女官長が到着した。

母親の優美子さんは娘に、「お体に気をつけて、お国のために一生懸命お務めしてほしい」と言葉をかけたそうである。

雅子さんは、水色のシルクの生地に水玉模様の柄の入ったツーピース。襟元にはパールのネックレス、白い手袋に白いバックを持っていた。皇太子の身長に合わせて4cmの中ヒールを履いていた。

迎えの車に向かって歩き出した雅子さんに、薔薇(ばら)の花を一本手にしたお手伝いさんが、愛犬ショコラを抱いて駆け寄った。雅子さんは、ショコラの耳に顔を寄せて、「バイバイ」と囁いたという。

■パレード後、「最良の日でした」と涙が流れた

午前10時5分に「結婚の儀」が賢所で行われ、午後3時からは初めて天皇皇后両陛下に挨拶する「朝見の儀」が正殿松の間で行われた。

午後4時45分、宮内庁楽部が演奏する『新祝典行進曲』が流れる中、オープンカーに乗ってパレードに出発した。沿道は20万に近い人で埋め尽くされた。

全てを終わって、ようやく2人が会話をゆっくり交わしたのは午後11時30分を回っていたという。

雅子さんは、疲れた様子も見せず宮内庁関係者たちに、

「今でも沿道から声を掛けてくださった人たちの祝福の言葉が胸に響いています。最良の日でした」

と語ったという。それまで見せなかった涙が、雅子さんの目からそっと流れたそうだ。

ここまでの描写は、ジャーナリスト友納尚子の著書『皇后雅子さま物語』(文春文庫)から引用させてもらった。

雅子さんは29歳だった。この日、雅子さんの本籍地・新潟県村上市役所で、小和田家の戸籍から、雅子さんは除籍された。

1週間後の6月16日、皇族の戸籍にあたる「第百弐拾五代天皇に属する皇族譜」に登録され、徳仁親王妃雅子という欄に、両親の名、誕生日の年月日時、命名の日時などが記されたという(友納の『皇后雅子さま物語』より)。

こうして雅子妃は姓のない存在になったのである。

■「皇族には基本的人権は事実上ほぼない」

君塚直隆関東学院大学教授は、朝日新聞(2019年12月6日付)の「耕論」で、皇室になるということはこういうことだといっている。

「日本の皇族は身分や生活は保障されても、特権はほとんど持たない義務ばかりの存在になったと思います。

参政権を持たず、世襲制で職業選択の自由はなく、とはいえ自由に皇室を離脱できるわけでもない。国民は、憲法で基本的人権や職業選択、婚姻などの自由が保障されています。しかし皇族にはそのような基本権は事実上ほぼないと言ってよいでしょう。模範から外れた行動をとれば、『税金で暮らしているのに』とバッシングされます」

外交官の家で育ち、ハーバード大学を卒業後、東大に学士入学して40倍という難関の外交官試験を合格し、外務省に入った雅子さんには、皇太子妃となるということが基本的人権を奪われることだと頭では理解していても、実感はなかっただろう。たとえ想像していたとしても、現実はそれを超え、はるかに過酷だった。

宮内庁や天皇皇后からの、「世継ぎを早く生んでほしい」という強いプレッシャーや、その後の苦しい不妊治療を経て、ようやく愛子さんを授かったにもかかわらず、周囲からは祝福を受けなかったことなどが、雅子さんを精神的に追い詰め、「適応障害」になったことは、よく知られていることだから、ここでは繰り返さない。

■「多くの公務をこなせるのか」と悲観的な見方をしていた

思うように公務がこなせないことを、宮内庁関係者は週刊誌などにリークして世論を誘導し、「雅子妃は皇后になるべきではない」などのバッシングを続け、雅子さんに寄り添う皇太子にまで、「天皇になることを辞退せよ」という呆れ果てた言辞が雑誌に載ったこともあった。

秋篠宮家に親王(男の子)が生まれ、女系天皇はもちろん、女性天皇までも排除する安倍首相が“君臨”する間は、愛子天皇実現の可能性はほとんどなくなった。

作家の赤坂真理は同じ朝日新聞で、このように話している。

「5年前の著書『愛と暴力の戦後とその後』で、愛子さまについてこう書きました。

『(彼女は)生まれてこのかた、『お前ではダメだ』という視線を不特定多数から受け続けてきたのだ。それも彼女の資質や能力ではなく、女だからという理由で』

男系男子という原則での皇位継承にこだわる人々の議論を読んだとき、そこでは女性は存在価値がないかのように扱われていると感じました」

そんな雅子さんに一大転機が訪れるのである。平成の天皇が「生前退位」をすることで、皇太子と雅子さんが、新天皇皇后になる日がきたのだ。

だが、週刊誌をはじめ多くのメディアは、雅子さんが御代替わりの数々の儀式に耐えられるだろうか、皇后として多くの公務をこなせるのだろうかという悲観的な見方をしていた。

中には、公務を果たせない雅子皇后を見かねた天皇が、早々に退位するのではないかという、無責任なものまであった。

■儀式の最中に流した“2度の涙”の意味

だが、それらの雑音は、5月27日、トランプ大統領が国賓として来日した際の歓迎宮中晩さん会で見せた雅子皇后の見事な対応で、杞憂に終わった。

ニューヨーク・タイムズ紙が「トランプ訪問で、雅子皇后はスター」と題して、おおむねこのように報じた。

「トランプ氏と会話する雅子皇后のイメージは、彼女が外交能力を活かしてソフトパワーを促進するのを助け、ひょっとしたら、厳しい家父長制の皇室で、新しい女性のあり方を確立することになるかもしれない」

雅子皇后の行く先々で、数千、数万の人たちが祝福し、雅子皇后ブームとでもいうべき現象が起きた。写真集がつくられ、カレンダーまでが出された。女性週刊誌は挙(こぞ)って「雅子さんの時代が来た」と手放しで賞賛した。

御代替わりのハードスケジュールも難なくこなす雅子皇后の姿は、これまでの彼女ではないように思えた。

晴れやかな笑顔が国民を魅了し、熱狂したのも当然であった。

雅子皇后が儀式の最中に流した2度の涙も話題になった。

一度は、天皇陛下即位を祝い、嵐が奉祝曲を歌っているときの涙。今一度は、「祝賀御列の儀」のパレードで見せた涙であった。

私の想像でしかないが、嵐の「Journey to Harmony」には、青い空の下で夢を語り、愛を語ることが僕の願いというようなフレーズがある。

皇太子との新婚生活を「嵐」の歌詞のような日々にしたいと夢見ていた彼女を待っていたのは、過酷というしかない日々だった。そのことが走馬灯のように頭の中をかけ巡ったのではないか。

祝賀パレードでは、皇太子妃として結婚したときの、皇室という世界について何も知らなかった晴れやかなパレードのことを思い出していたのではないだろうか。

■過酷なスケジュールをこなす中、参拝中に“異変”が

朝日新聞デジタル(2019年12月9日20時00分)で斎藤智子記者はこう書いている。

「令和が始まって約8カ月。快復途上の体調を不安視する声もあったが、皇后さまは即位にまつわる一連の行事すべてに出席。式典や地方訪問など過酷なスケジュールをこなした。体力的には大変だっただろうが、かつてない幸せを感じた日々であったはずだ。

行く先々で大勢の人々の笑顔に迎えられ、励ましの声があがった。皇室入り後、雅子さまは歓迎されていないと感じる体験を重ね、一時は自信も健康も失ったとされる。それを何年もかけて克服してきただけに、率直な気持ちが抑えられなくなった結果が、あの涙だったのだろう」

だが、いくつかのメディアで報じられたように、神武天皇の陵墓を参拝した11月27日、雅子皇后に“異変”が起きたという。玉串を持ったまま左右にふらつき、幸い倒れることはなかったが、見守っていた関係者は息をのんだそうだ。

新天皇が誕生して以来、ブームといえるほど人気が沸騰していた雅子皇后だが、ここへきて、宮内庁の見方や週刊誌の論調が変わりつつある。

■誕生日の「ご感想」は長文で多岐にわたるものだった

きっかけは、12月9日、雅子皇后の誕生日に発表した「ご感想」にあるようだ。

6日に記者たちに配られるはずだったこの文書が、2日遅れたのである。週刊新潮(12月19日号)は、「『雅子皇后』お誕生日『ご感想』に隠された異変」という特集を組んだが、その中で、さる宮内庁関係者が、「お近くで拝見するとお疲れがたまっていらっしゃるのが窺えます」「御即位1年目のハードスケジュールがたたって一気にご体調が崩れはしまいかと、案じられるところです」と、皇后の身体を心配しているように見せながら、内心では、それ見たことかという思いが言外に滲み出ているようなコメントが出ているのである。

私は、雅子皇后ご自身で、これだけ長文の、しかも多岐にわたった「ご感想」を書いたのだから、相当な時間がかかったのは無理もないと思うのだが、宮内庁の人間や担当記者たちは、そうは思わないらしい。

そこには、国民から思いがけない祝福を受けたことへのお礼、19号の台風で被災された人たちへのメッセージ、地球温暖化の問題から大地震への防災対策、プラスチックゴミや日本の貧困、子ども虐待問題、アフガニスタンで殺された中村哲氏のこと、ラグビーW杯の成功、もちろん両上皇陛下への感謝と、広範囲に及んでいる。

これほどのボリュームの皇后の「ご感想」が出されたのは初めてではないだろうか。

天皇に対しては、「お忙しい中でもいつでも私の体調をお気遣い下さいますことに心より感謝申し上げます」とし、健康の一層の快復に努めながら、皇后としての務めを果たしていきたいとしている。

これを書きながら、胸に去来したのは、皇室という男尊女卑が色濃く残る旧態依然とした中で、何度も流した涙か、それとも、よくここまで来たという安堵だったのだろうか。

■温かく見守ることが求められているはずだ

さらに医師団から、「依然としてご快復の途上で、ご体調には波がおありになり、過剰な期待を持たれることは、かえって逆効果になりうる」といった見解が出たことで、新年行事、特にNHKで生中継される「歌会始」は、「慣れない御身にとっては重圧となりかねません」(宮内庁関係者)とプレッシャーをかけるのだ。

02年12月に、皇太子と2人でニュージーランド・オーストラリア訪問のとき以来、雅子皇后は会見に臨まれていないから、17年間も国民に肉声を届けていない。

2月の天皇の誕生日や、即位1年目といったタイミングで、雅子皇后が同席する会見があってしかるべきだともいっている。

女性セブン(1月1日号)は、雅子皇后の実家では、父親の小和田恆(ひさし)が87歳になり、母親・優美子も高齢のため「老老介護」ともいえる状態で、雅子皇后の悩みは尽きないと報じている。

思えば、結婚してすぐに、宮内庁は雅子さんに「世継ぎを生め」といい続け、週刊誌などを使って、さまざまな形で雅子さんにプレッシャーをかけ続けた。そうしたこともあって、雅子さんは精神的に追い詰められ、「適応障害」になってしまったことは間違いない。

再び、宮内庁関係者や週刊誌は、同じ間違いを犯そうというのだろうか。

どん底ともいえる状態から、自ら立ち上がり、国母としての務めを果たそうと決意しているに違いない雅子皇后を、気長に温かく見守ることが、宮内庁やメディア、もちろん国民に求められているはずである。

雅子皇后のあの素晴らしい笑顔を二度と消してはいけない。私はそう考える。(文中敬称略)

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。
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(ジャーナリスト 元木 昌彦)