NHK「豊臣兄弟!」では、宇喜多直家が毛利を裏切り、織田につくシーンが描かれる。軍師・竹中半兵衛が調略したイメージが強いが、実際はどうだったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に宇喜多直家の実像をひも解く――。

■生野銀山の資金で直家を動かす「演出」

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第23話(6月14日放送)。宇喜多直家(緋田康人)が毛利を裏切って織田に寝返る場面は、竹中半兵衛の最後の大仕事として描かれることになる。死の床にある天才軍師が、生野銀山の資金を使って直家を動かした……という、演出だ。

慶寿ひ(金香瀬旧坑露頭群)(写真=ほっきー/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

もう一度いう、演出だ。

実のところ、直家に対する調略で半兵衛の見せ場はほとんどない。むしろ、いいとこなしという状況だ。『信長公記』をみると1578年5月24日に半兵衛(菅田将暉)は、現在の岡山市東区西大寺にあった西大寺八幡山城を調略。これに喜んだ信長(小栗旬)は秀吉(池松壮亮)に黄金100枚、半兵衛に銀子100両の褒美を与えている。

筆者撮影
西大寺 - 筆者撮影

しかし、この報告は極めていい加減なもの。というのも、実際には味方したいと申し出があっただけで、いまだ具体的な動きをみせているわけでもない。どう考えても、別所氏に三木城に立て籠もられるという失態をやらかした秀吉と半兵衛が「寝返るといってきています」と報告してきているだけである。

それに喜んで褒美を与えているのだから、信長も「直家をどうにかしないと、これ以上、毛利領に侵攻できない」と焦りがあったことがうかがえる。

■信長が激怒した“直家調略の吉報”

そして、半兵衛が死んだあとの1579年9月、三木城の包囲を続ける秀吉は、直家調略の吉報を信長に伝えるも激怒されている。『信長公記』の記述はこうだ。

九月四日、羽柴筑前守秀吉、播州より安土へ罷り越さる。備前の宇喜多御赦免の筋目申し合せ候間、御朱印なされ候様に、と言上のところに、御諚をも伺ひ申されず、示し合はすの段、曲事の旨、仰せ出だされ、則ち、播州へ追ひ還され候なり(『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)。


筆者訳:

9月4日、羽柴筑前守秀吉が播磨国(兵庫県)から安土城へとやって来た。「備前の宇喜多(直家)を赦免する手はずについて話がまとまりましたので、御朱印状を発給していただきたい」と(信長に)申し上げたところ、(信長は)「(自分の)命令も仰がず、勝手に(宇喜多側と)示し合わせたことは不届きである」と仰せになり、秀吉はただちに播磨国へと追い返されてしまった。

ようやく宇喜多が信長にくだるという吉報を持って来たのに、信長が激怒したのはどういうことか。まず、信長が問題にしたのは格下の秀吉が、大名クラスの赦免を勝手に決めてきたという点であろう。直家は備前を中心に備中、美作にも覇を唱える毛利方の超有力大名である。その処遇を勝手に決めているのだから、信長が怒るのは当たり前だ。

■直家が信長にくだったのは“打算”か

でも、これも仕方がない。この時の秀吉はめちゃくちゃ焦っている。なにせ、半兵衛は死んだ。官兵衛(倉悠貴)は……有岡城に捕らえられたまま……いや、多分。もしかすると信長がいうとおりで、荒木村重(トータス松本)に同心している可能性もなくはない。自分の周りの役立つ頭脳は小一郎だけである。

秀吉の脳内は完全なパニック……だから、挽回しようとばかりに、信長の許可も取らずに講和の話を進めてしまった。

撮影=プレジデントオンライン編集部
竹中半兵衛の墓 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

だから、秀吉も報告しながらもドヤ顔ではなかったはず。むしろ「三木城の件はすみません、宇喜多のほうはなんとかしましたから……」と、混乱しながら伝えてきたのだろう。なので、信長も怒るというよりは「手取川の戦いの時の無断撤退もそうだったけど、お前、連絡抜けることあるよな、しっかりしろよ」と叱咤したのではなかろうか。

いずれにしても、この時点になっても信長へくだる交渉が続いているあたり、半兵衛の調略は、有効に機能していなかったことがわかる。

そもそも、直家が毛利を裏切り信長につくことを決めたのは、打算以外の何物でもない。直家が毛利を見限ったのは、1579年1月に輝元が予定していた上洛を中止したのが契機とする説もある(光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房、2016年)。このことが、信長と境界を接する領主たちに動揺を与えたのは確かなようだ。

■調略されたのは半兵衛のほうではないか

しかし、直家の計算は、それより早く始まっていた。

前述の通り1578年5月に半兵衛は信長に「西大寺八幡山城が味方したいと申し出てきた」と報告している。これは、単なる家臣の裏切りではない。というのも、この城の城主は、宇喜多忠家……直家の異母弟である(上道郡教育会編『上道郡誌』上道郡教育会、1922年)。

つまり、直家の指示なしに動くはずがない。半兵衛は「西大寺八幡山城を調略した」と思い込んだ。しかし、実態は逆であった。直家は弟を使って織田側に接触させ「信長にくだってもいいかと思ってるんですよ〜」といわせていた。

ようは、状況によっては毛利から鞍替えできるようにするための下準備に過ぎない。それなのに「天才軍師」は、無事に直家の要衝の城がくだったと思い込んでしまったのである。

この時直家は何を思っていたか。おそらくなにも思っていない。「してやったり」とすら思っていない。それが直家という男だ。感傷も、罪悪感も、判断を曇らせる要素はすべて排除する。弟を駒に使い、天才軍師を踊らせ、織田への交渉ルートを静かに開く。ただそれだけのことを、息をするようにやっていただけだ。

半兵衛がやっていたのは調略だったが、直家のやっていることは日常だったのである。調略されていたのは半兵衛だったのだ。

■直家は、敵か味方かわからない不気味な存在

そもそも、直家という男は、毛利にとっても織田にとっても敵か味方かわからない不気味な存在だったといえる。

宇喜多直家像(写真=岡山市/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

例えば秀吉が、赤松(上月)政範が立て籠もる上月城を攻めた時のことである。『佐用軍記』では、直家が以下のように突然登場している。

毛利ハ益々猛威ヲ振イシ折、赤松義村ノ臣浦上備前(注:守)逆心シテ義村ヲ弑シテ、国乱ルルガ、当家ハ残ツテ浦上ヲ討ント策ヲ図ルウチ、マタ浦上ノ臣宇喜多直家が浦上ヲ弑セリ。カクテ当国ニ敵ガ来リ、父ト戦ウコト十二度、疲レテ郎従僅カトナリテ山中ニ身ヲ隠ストキ、宇喜多直家ノ使者尋ネ来リ、和ヲ請ウテ申ス。毛利輝元ヲ始メ吉川、小早川ハ近ク上方ニ討ツテ出ルニツキ、貴殿ヲ始メ小寺、別所ラ一族加勢シテ、先導ヲ頼ムニ外ナラズ、決シテ領地ヲ奪ウニアラズト、言ヲ尽シテ申ス程ニ、楯ヅイテ断絶スルヨリト考エテ、和睦スルニ一決シテ、ソレヨリ毛利ノ幕下トナリ、以来当国ハ元ノ如ク一族配分シテ安堵ナリ(竹本春一「佐用軍記」『上月城物語』佐用郡歴史研究会、1981年)。


筆者訳:

毛利氏がますます猛威を振るっていた頃、主君である赤松義村の家臣だった浦上備前守(村宗)が謀反を起こして義村を殺害し、国が乱れた。当家(上月家)は生き残り、浦上を討とうと策を練っていたところ、今度はその浦上の家臣であった宇喜多直家が、主君の浦上を殺害した。

こうして我が国(播磨・備前国境付近)に敵が攻め込んできて、私の父は12回も戦った。しかし戦いに疲れ果て、従う家臣もわずかとなって山の中に身を隠していた時のことだ。あの宇喜多直家の使者が(我々を)探し当ててやって来て、和平を乞うてこう言った。

「毛利輝元様をはじめ、吉川(元春)殿、小早川(隆景)殿は、近いうちに上方(京都方面)へ討って出る予定である。つきましては、貴殿をはじめ、小寺殿、別所殿ら(播磨の)一族の皆様に加勢していただき、その先導(道案内)をお願いしたい。決して皆様の領地を奪うつもりはない」と、言葉を尽くして(直家の使者が)熱心に説得してきた。

そのため、(こちらも)「このまま反抗し続けて家名を断絶させるよりはましだ」と考え、和睦することに決定した。それ以来、毛利の傘下となり、この国は元の通りに我ら一族で分け合って安堵(領有を維持)されてきたのだ。

つまり構図はこうだ。赤松氏が衰退しきって山中に身を隠しているところへ、直家の使者が現れた。そして「毛利輝元様はじめ吉川・小早川は近いうちに上洛される。ぜひ先導をお願いしたい。決して領地は奪わない」と言葉を尽くして口説いたのである。政範はこれを受け入れ、毛利の傘下に入ることを決めた。

■信用できない、無下にもできない

このように、直家は毛利の上洛計画を手土産に、播磨の国人衆を自分で口説いて回っている。しかも「近いうちに上洛」という、あてのない話で、その気にさせている。そもそも、直家は毛利氏の譜代でもなんでもない。最近、傘下に入ったばかりの外様である。おまけに、もとの主人であった浦上氏を打倒して権力者になった男だ。

毛利氏としても、今は権力はあるが下剋上で成り上がった信用できない男のはず。直家もそんなことは承知の上で「毛利様が動くんですよ!!」と口説いている。しかも、謎の説得力で、赤松氏をはじめとする国人衆を、ならばと毛利になびくほうに動かしている。

それでいて、自身は兵力を出し惜しんだり、裏では信長とも交渉ルートを開拓したり、どっちの陣営にとっても信用できない相手である。

でも、信用はできないくせに備前をしっかり確保している。すなわち、海と陸に加えて、川を通じた中国山地と瀬戸内海とのルートまでが直家の手にある。おまけに、奇妙なほどに味方を増やしてくれる交渉力もある。

だから、どちらの陣営も「直家、信用できない……」と思いながらも無下にはできない。ここまでできるのは、直家の才能以外の何物でもない。

■“梟雄”の自覚はなかったのではないか

この直家という男、主君・浦上宗景を追放して備前を掌握。敵対する三村家親を当時は最新兵器だった鉄砲で暗殺。時には家臣まで謀殺したという数々の事蹟から斎藤道三・松永久秀と並んで「戦国三大梟雄」とも呼ばれる。

もっとも、こうした悪役的エピソードは江戸時代以降の軍記物語が盛んになってから根付いたものともされている。近年、宇喜多氏を大河ドラマにする機運が盛り上がっている岡山県では、そうしたイメージを覆す再評価が盛んだ。内部が博物館になっている岡山城では、梟雄というイメージは間違いだと主張する展示まで行い、イメチェンを“謀って”いる。

筆者撮影
岡山城 - 筆者撮影

後世の語り手たちにとって、直家は便利なダークヒーローとして利用された面もあるだろう。ただし、直家には自分が梟雄だとか、評判の悪い人物になっている自覚もなかったろう。なぜなら、人は裏切るもの、誰も考えつかないような暗殺や謀殺を企むことは、彼にとって、日常生活に溶け込んだ行為だったからだ。

■現代にもつながる“岡山人の本質”

筆者は以前、著書『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社、2022年)の中で、名誉とお金が大好きで、すぐ裏切り、他人を小馬鹿にして、人と違うことをするのに血道をあげた数多くの岡山人たちを取り上げたことがある。同県人からも「その通りだ」とおおむね好評だったから、これは偏見ではなく実態だと思っている。

直家の行動原理は、現代にもつながる岡山人の本質の体現である。筆者自身、同じ岡山人として、聖人君子よりは、そうした泥にまみれた奇人変人のほうが親近感を覚えるのである。

ゆえに、直家の大河ドラマが実現するならば、下手に新解釈をするよりも「ありゃ、あほうじゃ」とか敵を小馬鹿にしながら謀殺していくほうが、岡山人にはバカウケすると思っている。

そんな直家にとって、病床に伏しながら調略を仕掛けてくる天才軍師を「ほんま、あんごうじゃ、なにが今孔明なら、ちばけるな」と、手玉に取ることなどは、容易だったのだ。

紙本着色竹中重治像(写真=岐阜県竹中重時氏旧蔵/PD US expired/Wikimedia Commons)

----------
昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
----------

(ルポライター 昼間 たかし)