関連画像

写真拡大

子どもの行方不明事件が起きるたび、テレビやネットメディアでは過熱報道が続き、SNSでは憶測やデマ、誹謗中傷があふれる──。そんな光景が繰り返されている。

京都府南丹市で起きた小学生男児の行方不明事件でも、養父が死体遺棄容疑で逮捕されたが、逮捕報道の以前から、SNS上では長期にわたって「家族があやしい」といった憶測が拡散した。

2019年には、山梨県道志村のキャンプ場で7歳の女児が行方不明になった事件でも、母親に対する「犯人視」や誹謗中傷が長期間続く深刻な二次被害が起きた。

なぜ、人は「まだ確定的なことがわからない段階」で推測を重ね、当事者を攻撃してしまうのか。なぜ行方不明事件は、マスメディアとSNSの双方で“過熱”しやすいのか。

メディア論を専門とする、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所の津田正太郎教授に聞いた。(弁護士ドットコムニュース編集部・塚田賢慎)

●「子どもの事件」は、人を強く引きつける

津田教授がまず指摘するのは、「子ども」に関わる事件が持つ“社会的な感受性の高まり”だ。

「子どもが亡くなる、傷つく事件は、多くの人の感情を強く揺さぶります。少子化が進むほど、“子どもの命”に対する社会的な感受性は高まる。『早く無事に助かってほしい』という思いが強くなるのは、ある意味で自然なことです」

そのような“善意”が、SNSでの発信へと駆り立てていく。

「政治や社会の複雑な話は知識がないと書けません。ところが事件・事故になると、コメントの数の桁が違うんです。みんな自分の意見を誰かに聞いてほしいという欲求が高まる。

しかし、井戸端会議であればまだよいですが、SNS上のコメントは、当事者や関係する人のところまで届いてしまうのが悩ましい問題となっています」

津田教授によれば、大学の教授会でも似たようなことが起きるという。複雑な議題では黙っていた人たちが「不祥事を起こすなどした学生の処分案件」になると突然発言を始める──。

複雑なテーマには参加しづらい一方、不祥事や事件は“誰でも語れる話題”になりやすい。そこに、「参加しやすさ」があるのかもしれない。

●善意、承認要求、正義感…入り混じる動機

上述のように「子どもが無事に見つかってほしい」という純粋な思いで情報を拡散する人もいる。「誰かに注目されたい」という承認欲求から投稿する人もいる。

さらに、事件を“再生回数が稼げるコンテンツ”として扱うYouTuberやインフルエンサーも少なくない。

「社会的に関心の高い事件は、それだけで収益につながります。もちろんマスコミも営利組織ですが、少なくとも訴訟リスクを念頭にしながら、一定の裏付け取材をおこないます。しかし個人のYouTuberなどは制約が弱く、取材力も乏しいため、憶測ベースになりやすい」

その結果、根拠の薄い「情報未満」の話や「デマ」まで拡散されていく。

さらに厄介なのは、経済的な損得とは別の「強烈な正義感」だ。

「自分の中で『こうに違いない』と思い込んだ信念ができあがると、それに矛盾するような情報が出てきても、逆に信念が強化されてしまい、極端な発信を続けるようになります」

本来であれば、あまり支持されるような意見ではなかったとしても、SNSではアルゴリズムによって拡散されやすい。

「営利目的の人だって、どこかでは『子どもが無事であってほしい』という気持ちはあると思います。完全に“金目的”か“善意”か“正義”かで切り分けられず、動機にはグラデーションがあります。ただ、その複数の動機が混ざりあった結果、非常に不確かな情報の大量拡散につながってしまう」

●なぜ「家族が犯人」と決めつけるのか

南丹市の事件では、SNS上で「家族が怪しい」「家族が犯人」という投稿が繰り返された。なぜ、人は「まだ何もわからない段階」で、推定無罪の感覚を手放してしまうのか。

津田教授は「過去の事件のフレーム」が強く影響しているとみる。

たとえば2006年、秋田県で起きた連続児童殺傷事件では、1人の被害児童の保護者が犯人だった。そうした過去の記憶の積み重ねが、現在の事件にも投影されてしまう。

「今回は『血のつながっていない親子』という事情もあり、過去のフレームに飛びつきやすかった部分があるのではないか」

●「わからない」まま留める『ネガティブ・リテラシー』の概念を

では、SNSの過熱を止める方法はあるのか。

津田教授が紹介するのは、メディア研究者・佐藤卓己氏が提唱する「ネガティブ・リテラシー」という考え方だ。わからないことを、わからないままネットに書かない。その自制こそが、SNS時代に求められるリテラシーだという。

「世の中の出来事は、そんなに綺麗に割り切れないし、わからないこともたくさんあります。それでも人は“わからない状態”に耐えるのが苦手です。だから、わかりやすい物語を作ってしまうし、それを信じてしまう。でも、本当に大事なのは『わからないよね』の状態で立ち止まることなんです」

ただし、それは簡単ではない。

「黙るというのは、おもしろい解決策ではない。だから実践は難しい」

だからこそ、「事件に入れ込みすぎないこと」が現実的な落としどころになるのではないか、と津田教授は語る。

●SNS以前からあったマスメディアの「過熱報道」

もっとも、問題はSNSだけではない。

京都の事件では、テレビ報道の“過熱ぶり”にも疑問の声が上がった。現場映像を延々と垂れ流し、同じようなやり取りを繰り返す番組に「へきえきする」と違和感を覚えた視聴者も少なくなかった。

津田教授は、近年では「SNSの弊害」ばかりが語られがちだが、子どもをめぐる事件報道は、SNS登場以前から週刊誌やテレビが問題を抱えてきたと指摘する。

「社会的関心が非常に高いのに、新しい情報が出てこない。するとメディアは根拠の薄い情報を無理に供給し始める傾向があります」

視聴率やPVを求める中で、根拠の乏しい噂話や憶測がコンテンツ化されていく。

「結果として、『中身はないのに延々と報じている状態』となり、それがメディア不信につながる大きな要因になっていると思います」

●過熱せざるを得ないメディアの事情

こうした過剰な報道の背景には、メディア側の構造的事情もある。

報道現場では、人員が減り続け、限られた人数でニュースを回さなければならない。そのため、「話題になっている現場」に人を集中させるスタイルになりやすい。

行方不明事件では、子どもの写真、家族の自宅、その土地の風景、警察の動き、近隣住民のインタビューなど、映像として成立しやすい素材が多い。

しかも、複雑な社会問題より視聴者に理解されやすく、一定の視聴率やPVも見込める。こうした要素がそろえば、メディアが「過剰報道」する理由も少なからず理解できる。

ただ一方で、そうした「薄い取材」を繰り返すことへの違和感も視聴者の側で強まっている。

「『マスメディアはこう言っているけど、実は◯◯』というソーシャルメディア上の語りが、説得力を持ちやすくなっている」

津田教授によると、マスメディアは視聴者や読者に「こんな問題がある」「これはみんなで考えるべきことだ」と示す力はまだ健在だが、「この出来事をどのように解釈すべきか」と示す影響力は低下しているという。

SNSも、マスメディアも、情報が乏しいときほど、その空白は根拠の薄い言葉で埋められていく。「わからない」を「わからないまま」にしておけるか。これは情報の受け手だけではなく、メディア側にも問われているのかもしれない。

【プロフィール】
津田 正太郎(つだ・しょうたろう)
慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所教授。財団法人国際通信経済研究所、法政大学社会学部教授を経て現職。専門はメディア論、ジャーナリズム研究、ナショナリズムとメディア。主な著作に『メディアは社会を変えるのか--メディア社会論入門』(世界思想社)など。