シャーリーズ・セロンが“現実の問題”を体現 『エイペックス・プレデター』の恐怖の本質
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)、『オールド・ガード』シリーズのシャーリーズ・セロンと、『キングスマン』シリーズ、『ロケットマン』(2019年)のタロン・エジャトンが、自身のイメージと異なる役柄で過酷な自然のなかサバイバルを繰り広げる映画作品が、Netflixで配信リリースされている。バルタザール・コルマウクル監督による『エイペックス・プレデター』(原題:『Apex』)だ。「プレデター」といっても、あのSFスリラーにおける宇宙のハンターが登場するわけではなく、本来の“捕食者”の意味である。
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本作『エイペックス・プレデター』は、表面的には自然のなかでの極限的なサバイバルスリラーというジャンルに当てはまりそうだ。しかしその内容は、現代社会における根源的な不安や恐怖が隠されている。ここでは、本作の特徴や暗示される恐怖の本質が、何に基づくものなのかを考えていきたい。
まず注目すべきは、主要キャストについてだろう。主演のシャーリーズ・セロンは、近年の作品を通じ、不屈の精神と圧倒的な戦闘力を持つ、どちらかといえば現実ばなれした強さを持つ女性として描かれることが少なくなかった。しかし本作で彼女が演じる主人公サーシャは、優れた身体能力を持ちつつも、過去にパートナーを救えなかったという罪悪感に苛まれていたり、見知らぬ男たちの視線に怯えるような、現実的な弱さを持った人間として表現される。
彼女を狙う役柄を演じたエジャトンは、さらに大きな変貌を遂げている。持ち前のキュートさや優しげなイメージを、ここでは暴力性を前面に出すことで不気味なものに変貌させている。人間を執拗に追いつめる、“殺人鬼”であり“食人鬼”であるという、エクストリームかつ野蛮な性質は、彼の端正さとはミスマッチにも感じられるが、だからこそ男性による暴力的な衝動という危険な要素が、そのまま異物として際立つことになったのではないだろうか。
本作の物語は、ロッククライミングをする一組のカップルの悲劇から幕を開ける。サーシャ(シャーリーズ・セロン)とトミー(エリック・バナ)は、ノルウェーの険しい岩壁「トロールウォール」を「タンデムクライミング」(2人1組)で登ろうと試みる。しかし、頂上を目前にして嵐に見舞われ、下山する最中にトミーは滑落し、サーシャの奮闘むなしく亡くなってしまう。
5カ月後、パートナーを救えなかったという心の傷を抱えたまま、サーシャはトミーの形見のコンパスを手に、彼の故郷であるオーストラリアの荒野を、独り車で走っていた。広大な自然が広がる国立公園に入った彼女は、そこでベン(タロン・エジャトン)と名乗る男と遭遇する。
しかし、この出会いは偶然ではなかった。ベンは、この地域で相次ぐ失踪事件に関与する異常者であり、じつは前日に軽く話をしたときからサーシャに目をつけていたのだ。ベンは彼女のバッグを盗んで逃亡しづらい状況を作り「人間狩り」ゲームを強制する。土地を熟知し、罠を仕掛けた渓谷のなかで、ベンは執拗にサーシャを追いつめていくのだ。
こうした過酷なサバイバル描写を支えているのが、バルタザール・コルマウクル監督のリアリズムだ。こうしたスリラー映画では、主人公と敵の駆け引きが派手に展開しがちだが、ここでは主に斜面や渓谷の岩壁でのクライミング技術が追走劇の中心となる。
コルマウクル監督はかつて、1996年に起きた実際の遭難事故を基にした『エベレスト』(2015年)を撮っている。入念な取材に基づき、エベレスト登山の過酷な映像表現のみならず、登頂を待つ登山家たちが山頂へと続く狭い道で渋滞を起こすことで想定よりも登頂時間が遅くなり、リスクが増大するという、細かな事実までをも作品内で伝えている。このように、山岳事故の恐ろしさを多角的に描いた点が画期的といえる一作だった。
本作では滑落シーンが印象的だが、一歩間違えば奈落に落ちていくという表現や、外部と連絡が取れない状況下において、一度脚を折ってしまえば、自然の奥地ではそれだけでほとんど死を意味してしまうなど、さまざまなギミックを物語全体に施さなくても、自然の脅威そのものが作品のサスペンスを醸成することができるという意味で、コルマウクル監督の試みは彼ならではといえるのではないだろうか。
そうした経験に裏打ちされた細部へのこだわりが、本作のサバイバル表現に色濃く反映されているほか、シャーリーズ・セロンが専門家の指導のもと、スタントパーソンを使わずに自力で挑んだというクライミングシーンも見どころとなっている。
一方、その堅実なつくりに対して、プロットの独創性については評価が分かれるところかもしれない。自然を舞台に人間同士が争うといった表現においては、『脱出』(1972年)や『激流』(1994年)、『ザ・ワイルド』(1997年)などといった作品群を彷彿とさせ、これら既存のサバイバル映画の要素からさほど逸脱しない点が、さまざまな点でクオリティの高さが窺える本作の評価の足枷になっていると考えられる。
そのなかで本作が突出している特徴といえば、“食人”という要素があることだろう。生きるために飢えを満たす目的ではないのに、人間が人間を食するといったタブーを犯す行為は、娯楽作品の枠のなかにおいては、明らかに異質な性質を帯びている。これには、どんな意味があるのだろうか。
本作では、大多数の人々が好んで足を運ばないような、過酷な場所での登山やキャンプに熱意を燃やし、生きる実感を得るといった、サーシャのようなタイプの人物の心情が語られる。日本でも近年、コロナ禍下でのレジャーとして、アニメ作品のヒットも後押しするかたちで、大きなキャンプ・アウトドアブームが起きた。
だが、その一方で、ソロキャンプなど女性だけで自然の中へ向かった際、現地で男性につきまとわれたり無用な干渉を受けるケースがあるという事例が、ブームの影で問題となった。本作の劇中、サーシャが殺人鬼に追われる“ゲーム”が始まってしまう前、彼女がガソリンスタンドや森の入り口で、男性のハンターたちから執拗にからかわれたり、脅されたりするシーンが挿入される描写は、単なるスリラーの伏線以上の不安感に満ちている。
第三者の目の無い空間に足を踏み入れたとき、女性が否応なしに直面せざるを得ない脅威は、サーシャのように男性のパートナーがいなくなったり、ソロで活動することで、飛躍的に大きなものになってしまう。この映画は一見、人食いという特殊性を持つ異常者に追われるという、非現実的なシチュエーションを描いているように見える。だが、おそらくここでは、森や川や山に限らず、誰にも助けを求められない状況下で、他者の欲望の対象にされてしまうという、普遍的な恐怖を題材にしているのではないか。
だから、本作における“食人”という残忍な要素は、女性が得体の知れない男性から向けられる剥き出しの欲望に対する、女性側からの実感に近い感覚的なものとして機能しているように思える。例えば、動物を擬人化した日本の漫画作品『BEASTARS』において、種族間の“肉食”という要素が、ある種の性的な欲望や加害、被害のメタファーとしても読み取ることができたように。
そうした、いつ“捕食者”の標的にされるか分からないという不安が、作品の全体に絶えず漂っているのである。本作『エイペックス・プレデター』は、その現実の問題があるからこそ、サスペンスとしての質が高まっていると考えられるのだ。(文=小野寺系(k.onodera))
