漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
『パーフェクトブルー』、『千年女優』、『東京ゴッドファーザーズ』、『パプリカ』、唯一のTVシリーズ『妄想代理人』……今 敏の監督作は虚構と現実が入り混じる幻惑的な世界を、緻密なアニメーションによって描き出す。
その圧倒的に個性的な作風は日本国内のみならず世界中で高い評価を受けており、それゆえ、2010年8月24日に47歳の若さで急逝した際は大きな衝撃を与えた。
本稿は2010年に出版された単行本『セラフィム』の、初回限定版付録「KONS MEMORIAL」に寄稿されたもの。
『セラフィム』は漫画家としてそのキャリアをスタートした今 敏がアニメージュ誌上で連載していた漫画(原作・押井守/連載途中から押井のクレジットは「原案」に変更)で、諸事情により連載が中断され未単行本化だったが、急逝を受けて追悼出版として単行本化された(現在は復刊ドットコムより「増補復刻版」が発売中)。
つまり本稿は、漫画作品単行本の付録に収録されるという前提で執筆されている。
だが、本稿における氷川の視野は広く、漫画、アニメーションを含めた今 敏「絵」全体を包括しており、そこでなされる考察は今 敏作品をより深く理解し、楽しむための示唆に富んでいる。
没後10年を経てなお古びることなく輝き続ける今 敏の作品たち。
本稿をてがかりにして、ぜひ、その魅惑の世界に踏み入ってほしい。

▲『セラフィム』初回限定版と付録「KONS MEMORIAL」
漫画と映画とアニメの本質を照射してきた今 敏の「絵」
(*情報元:2010年発売『セラフィム』初回限定版付録「KONS MEMORIAL」)
文:氷川竜介(アニメ・特撮研究家)
レアだった漫画作品出版の意義
46歳の若さで他界した今 敏の才能の鋭さと豊かさは、何よりも個々の作品が視覚的なインパクトで雄弁に語っている。この未完の漫画『セラフィム』にしても、ページを開いたときに各コマから立ち上ってくる独特の緊張感や臨場感は、絵の濃厚さを媒介に激しく伝わってくる。それは彼が監督したアニメーション映画の底に流れるテイストと、本質的に同種のものである。
これだけ特徴的なビジュアルクリエイターでありながら、今 敏の才能の全体像は従来つかみにくく、アニメーション監督作品への言及が中心になりがちだった。漫画家時代の作品が全般に入手難で、長編の『セラフィム』と『OPUS(オーパス)』の二作品は未完という事情もあって単行本化されず、目に触れること自体がレアだった。その状況が著者の急逝を契機に変わり、漫画家としての画業がリリースされるということには、切なさを覚える。一方で、メディアを越えて活躍した作家の特異性は、漫画・アニメの実例が両方そろうことで、改めて浮き彫りになることも多いはずだ。今 敏の才能の全体像を総括しつつ再評価し、世に定着させる一環と考えれば、非常に意義の大きい出版となる。
今後のビジュアル文化の発展を考えたときにも「絵によってここまで物語れる」という点において、今 敏の業績はひとつの指標になるに違いない。この原稿ではそんな後続への呼び水となることも願いつつ、漫画・アニメーションと隣接する表現媒体を往還した今 敏の足跡をふり返ってみたい。

▲『セラフィム』連載第1回が掲載されたアニメージュ1994年5月号の表紙と口絵
アニメの本質に迫るアプローチ
筆者が今 敏に注目したのは初監督作品『パーフェクトブルー』(97年)だった。ほとんど予備知識なく渋谷で観た同作は、衝撃的な出逢いとなった。「同時代的な風俗ディテールを取りこんで問題意識を絡めつつ描いている」という驚きと、「アニメでしか成立し得ない表現とは何か」ということへのひとつの回答を見せられた得心の両面から、大きな驚きと満足があった。
監督とその作品に深く関わるようになった作品は『千年女優』(02年)からで、以後の『東京ゴッドファーザーズ』(03年)、『パプリカ』(06年)と、劇場用長編ではプレスシート、パンフレット、ムック、DVDパッケージなど、新作のたびにお付き合いさせていただいた(後に『パーフェクトブルー』再リリース版DVDでも長文を書く)。ことにDVDの特装版では絵コンテを含む分厚い解説書がつくのが定番で、各作品の微細にわたる監督インタビューを担当するのがいつも楽しみだった。それは自分自身がアニメという表現様式に抱く本質的な疑問への示唆となる知見が必ず含まれているからだ。
そのきっかけは、宣伝会社から『千年女優』のプレスシート用の寄稿を依頼されたことだった。前作と同質の「アニメならではの表現」でありながら、サイコホラー、サスペンスではなく、トリッキーでユーモラスで茶目っ気たっぷりな娯楽方向に転じた本作は、SF小説を本格的に読み始めたころの快楽に通じるものが感じられて、解説は非常に楽しんで書いた。ただ、視線は作者に向けてというよりは、こうしたアニメ的な常識の枠組みを外れた作品の魅力を多くの観客に受けいれてもらいたいという意識だったが、今 敏監督自身がその拙文を気に入っていると聞き、実際に初対面でも「よく分かってらっしゃる」と言われ、いささか驚いたものだ。
改めて読み返してみると、後半が今 敏監督の目指した方向性を、他の作品も含めて全体的に総括したものとしても読める。少々長くなるが引用してみよう。
この企画の出発点は、今 敏監督の前作『パーフェクトブルー』みたいな「だまし絵」のような映画を、というリクエストだったという。「だます」こと──つまり「錯覚」とは実は悪いことではなく、人間にとって非常に気持ちの良いものを内包する大事なものである。そうでなければ、この世の中に手品(イリュージョン)や、小説、演劇、映画という芸能・芸術が存在する理由がなくなってしまう。
ましてやアニメは止まった絵が動くという「錯覚」に全てを依存する表現様式である。もともと1コマは静止して生命を持ち得ない「死んだ」絵。それが「生きている」と錯覚を覚えたとき、この生死の間から何か大きな実感がわいてくる。この感覚こそが、アニメーションの面白さの源泉なのだ。
この作品では、こうした映画やアニメ、ひいては人生の本質に対する一段上の考察が、フィクション自体が持つ面白さを使ってエンターテインメントとして描かれている。千代子の過ごした虚構と現実、過去と現在、アニメ映画の世界と観客の現実、ファンタジーとリアルなど、本来は対置されるべきものに対して、ぐいっとひねったような処理が施されているのが、その大きな現れである。そのねじれた構造の中で、虚実が逆転し混然となったところで、最終的には人間が持つ矛盾に充ちた面白さが浮き彫りになっていく。
これはまさに、昨今のデジタル的なオール・オア・ナッシング的価値観に基づく足し算・引き算の機械的映像では出せない、人間的な魅力に充ちた「かけ算」の映画である。時には気持ちよくだまされたいと、いつも心の奥で願って映画を観に来るあらゆる観客に向けて、ボーダーレスに開かれ参加を呼びかけるアニメーション──それが『千年女優』という映画なのである。
偶然が必然になっていく流れ
なぜこんな風に印象をまとめたのだろうか? 思い返してみると、当時、筆者は「アニメはなぜ面白いのか?」という根源的でゴールの見えない疑問を抱き、考察のための時間が欲しくてフリー文筆業となったばかりだった。想像以上に多い依頼に対し、「ならば実務を通じて検証と考察を深めようか」と考え直した直後に書いた文章だったはずだ。
正直言えば、これは『千年女優』のことを書きつつも「アニメはなぜ面白いのか?」への回答にもなることを試みていた。そんな絶好の事例とヒントをもつクリエイター今 敏監督が眼前に現れたことにも、大きな喜びがあった。強く求めれば、好機は向こうから歩いてやって来る……筆者自身、そうした半生を歩んで来たように思うが、これに似た『千年女優』の世界のとらえ方にも興味をひかれた。はたして今 敏監督へのインタビューでは、カメラマンの井田のキャラクターづくりに困っていたときに北海道の放送局から取材を受け、そこにモデルとなる人物を発見して大喜びしたエピソードが語られる。
こうした「向こうから歩いて来る」というような事象が積み重なり、劇的でもあり奇跡的でもある大きな流れとなっていく作劇と世界観は、次作『東京ゴッドファーザーズ』でより顕著に示されている。偶然にしか思えない出逢いも、すべては「求め・求められる」という意味での「縁」のネットワークで結ばれ、「流れ」の中に位置づけられる。
同作では、ホームレスたちの数奇な運命を司るのが東京という都市に宿った「八百万の神」として、フレームで切り取ったビルが「顔」のように見える演出が多用されている。だが、これは何も不合理なオカルト的な発想ではない。「価値観の連鎖と流通」という考え方をとってみれば、個人の価値観だけを前面に押し出したものよりは、むしろ大勢の縁によって結び目に編みあげられたものが、商業的・社会的にも大きく成就し得る。その流れを切り取るカメラが「神」を見ることになるという発想は、充分に合理的である。
やはりこうしたミニマムからマキシマムまでを包括した上での、今 敏の合理的精神と発想に惹かれ、共感したのであろう。そして作品と取材を通じて伝わってくる言葉や映像への取り組み方も、自分自身のアニメに対する考えを深める触媒になった。大勢の手によって共同作業として制作されるアニメーションもまた、工程自体に「出逢い」や「縁」が多く含まれている。それゆえに価値観の高次ネットワークが必然的に編みあげられていることが魅力のひとつではないか……。
今 敏監督自身が漫画家からアニメーション監督に軸足を移した理由も、おそらくその集団性が生み出すダイナミズムにあったはずだ。今 敏は自身で物語やキャラクターを創造することを含め、作家性があまりに際立っていて、しかも出版される絵コンテが緻密すぎるため、ある理想やイメージを提示し、上意下達的に分業制作をするタイプという誤解を受けがちだった。だが、取材からはそんな印象を受けたことはない。自分がやった方がいいからという合理精神が、むしろ前面に立っていた。
最優先とされるのは「映画として、エンターテインメントとして」という観点であり、観客に対する「おもてなし」のサービス精神だった。「だまし絵」的な作風にしても、本質は純然たるサービスなのである。観客の心の揺らぎが加わって、だまされた時の快楽が触発されて初めて作品が完成する。それを考えれば、主体は「だます作者」ではなく「だまされる観客」の側にあることは自明だ。そしてアーティストとしてのスキルのすべてを駆使して観客を心行くまで楽しませようという意気込みが、あの少々行き過ぎの密度感の「絵」になって現れていたのだろう。

▲アニメージュ2002年8月号『千年女優』特集
虚実の臨界を突破する画力
さてそこで焦点になってくるのは、今 敏を語るときに誰もが真っ先に語る「圧倒的な画力」の位置づけである。
デッサン、パース、ライティング、画面構成、ディテールの描きこみや、執念深く微細に入れられたタッチなど、いずれもスキがない。総合的なバランスにも配慮され、要素を組み合わせて丹念に描かれた今 敏の絵。その視覚的な押し出しは、多少なりとも絵に興味のある人間ならば、首をつかまれてねじ伏せられるような圧力として感じられるはずだ。
漫画『セラフィム』においても、絵の放つプレッシャーは絶大だ。空母の甲板や難民キャンプ、崩壊寸前の経済特区、地平を埋め尽くす墓碑銘など、行ったことのないはずの場所であるにもかかわらず、異様な臨場感が絵から伝わってくる。いつまでも見飽きず、目をそらすことができない吸引力。人の手で描かれたはずのものが、明らかに何か現実と同等の重みをそなえたものに変わっている。その点で、実に絵画的なのだ。
その絵は精緻ではあるが、決してリアリズム一辺倒ではない。今 敏の画力は、時として現実の枠を大きく飛び出すイメージを妄想の領域から現実の世界へと引き寄せるために使役される。今 敏作品でよく言われる「虚構と現実」もコンセプトとしては対照的に置かれているものだが、彼の圧倒的な画力によってシームレスに接続される瞬間に価値がある。本来つながるはずのないものを隔てる境界が崩れ、臨界を越えて人の想像力を起爆したときに、絵だけが可能な魅力となる。
現実的に思えた風景は、あり得ない手触りをたたえ始め、逆にあり得ないはずのアイテムは、不気味な実感を獲得して主張を始める。この虚実を結ぶ「トンネル効果」のような現象を無視して「今 敏は絵がうまい」「緻密で正確な画力をもっている」という評価レベルにとどめてしまっては、何か重大な本質を見逃してしまうことになる。
『セラフィム』の例でいえば、「天使病」罹患者の完全変異体が、まさに虚実の壁を突破するシンボリックな「絵」だ。人としての形状がねじ曲げられ、背中から天使の翼のようなものが生えてくる残酷で、しかし静謐な光景。歪められた人体のビジュアルは解剖学的なレベルでの説得力を備えているため、読者は「もしかしたらありうるかも」という感覚に戦慄する。人の背に羽根が生えるというコンセプト自体は、宗教的なものを筆頭に古来から広く存在するため、同時にその美の記憶とも対比され、美醜が同時に伝達される奇妙な感覚もそこに発生する。
題名の「セラフィム」も天使の名前だが、そのモチーフは幾多の商業アニメの中に無節操に取り込まれている。特に時代がくだるにつれ、魔法少女でも巨大ロボットでも、「翼の獲得」を究極のパワーアップとして盛りあげる演出がパターン化し、ツールになっていく。そうした固定観念に対し、今 敏の視線はいつも冷ややかで批判的だった。数学にたとえれば「公式」に相当するような枠組みを、彼はまず疑う。ただし正面から全否定するのではなく、いったん自分でモチーフとして取りこんだ上で、論理的な思考と絵の力の合わせ技でねじ伏せようとするのがすごい。
こうした行為は弁証法で言う「正・反」に対する「合」を目指すものだが、職業人としての「絵描き」としては量産にそむくことになるから、苦しい道のはずだ。しかし、既成のものを乗り越えることで何かしら新しい地平へ一歩踏み出せるという確信が、ただでさえ鋭い画力に磨きをかけたのだろう。
かくして確立した「天使病」のビジュアルは、物語レベルの「人類の存続が危うくなる」という設定とも共鳴し、禍々しい毒気を放つ。画力はこの場合、不安をはらみ恐怖を喚起するレベルでの切実な心理的プレッシャーにまで転化しているわけだ。この絵の重みは何のために必要なのか。最終的にはエンターテインメントにおけるカタルシスのためであることは間違いない。未完の本作でも、歳をとらない謎の少女セラがタイトルロールであることからには、クライマックスで真の「天使」の浄化をはたす予定だったはずだ。
「映画のパーツ」としての絵
こうしたコントラストを考えると、「漫画のコマ」としての「絵」は物語の運動に奉仕する有機的な「パーツ」だという正体が浮かび上がってくる。イラストのように一枚絵として完結するものとは違い、映像としての絵、つまり「画」の意識を感じる。今 敏がアニメーションの仕事を美術設定、背景原図、レイアウトといった職分から始め、そして監督としても映像の求心力をレイアウト中心に極めていった事実も、この「画」としての「コマの役割」に重なっている。
それを念頭におきつつ漫画のコマを眺めていくと、ある事実に気づく。今 敏の絵は、「空間」をたくみにパッケージしただけでなく、常に「時間」を内包しているのだ。もう少し突っこんで言えば、「原因と結果」を暗示する時間が介在したような絵になっている。つまり時空間の相互作用に因果が絡むことで、「変化」への感興を生じさせるタイプの絵である。止まったコマでも「動き」が見えるのは、そのためだ。やはり表面的に整えられた「一枚絵」という範囲だけで、彼の画力を論じても意味が乏しいわけだ。
この「時間と空間が因果律になる」というアプローチは、冒頭述べた「絵で物語る」という行為のひとつの実例である。「映画のパーツ」としての機能に必要とされる条件を充たしていると言い換えることも可能であろう。たとえ漫画の絵であっても……。
もちろん一枚絵で完結するイラストにも、時空間や因果という要素は必ず入ってくる。ただし今 敏の漫画・アニメの場合は、複数の絵が相互に化学変化を起こし、大きな流れを生み出すことが主眼である。コマの配置や構図、サイズの大小のリズムも、その前提で決められている。この印象は先述の「人と人が出逢うのは偶然ではなく流れの中の必然」という話にもつながる。
絵と絵とを連携させ、その弁証法的な相互作用で何かを生み出すという行為には、映画で言う「モンタージュ効果」と同じ性質がある。今 敏監督のアニメーション映画では「アクションカット」と呼ばれる編集技法が多用された。元来は動きの途中でカットを割りつつ、アングルの異なる構図をつないでいくテクニックである。動きや構図の視覚印象のつながり具合で観客の脳内ではカットとカットの断続が埋められ、コンティニュイティ(連続性)が生じる。そもそも映画とは、このレベルで「だまし絵」なのである。今 敏は自覚的にこれを上位のトリックとして応用してきた。特に虚構世界を強調した『千年女優』や『パプリカ』では、それが顕著だ。いずれも、舞台も場所も違うのに、主人公の情動が連続して続いていくように見える怒濤のシークエンスが見せ場となっているが、それは編集技法による二重トリックありきなのである。
今 敏の学歴を調べると、武蔵野美術大学の視覚伝達デザイン科でグラフィックデザインを専攻している。したがってフレーム内のオブジェクトの配置が、どのようにして人間に伝わり、何が優先的に表層意識で認識され、深層意識には何が埋めこまれるのか、学術的に知悉していたはずだ。レイアウトとカッティングで煮詰めていくことで「絵」を「映画」にしていこうとする行為にも、そんな知見が総合的にはたらいていたはずである。

▲アニメージュ2006年2月号『パプリカ』特集
映画的な感興とは「変化」を描くこと
ここであらためて「何が映画か」が気になるが、その命題はあまりに大きいので、生前の今 敏に取材したときに聞いた「映画的なるものへの想い」の一例に留める。そのとき語られたのは、「夜、主人公に自動車が近づいてくる瞬間、ライトがパッと人物を一瞬照らし出し、通りすぎたとき”プワン”とクラクションが鳴るが、ドップラー効果で音が低くなっていく」という事例だった。日常的にありふれて見過ごしてしまいそうなシチュエーションなのに、それが「映画的な想いをかきたてる」という話は印象に残った。
漫画で初の長編作品『海帰線』には、ほとんど同じシチュエーションが描かれている。本作『セラフィム』でも物語冒頭、空母から発艦した戦闘機が通過するシチュエーションに類似の要素がある。擬音のサイズをよく見ると、大小の配置がまさにドップラー効果的な変化として描かれている。
こうした「変化を描く」ことが、「映画にする」ということに直結したはずだ。その変化の描写を「光と影」や「情報量の粗密」、そして「移動の方向性(縦横・上下)」や「音の大小」と、対置する要素を駆使してリズミカルに展開する。そこにある種の予感を生じさせる「構図の推移」が加わることで、各要素は化合を生じて物語や人物に有機的なバックボーンを与える。
この錬金術的なプロセスこそが「生命を吹き込む」という本来の意味での「アニメーション」である。それは刻々と死に向かって変化していくことこそが「生」であるという認識から生まれる。そうした逆説的な妙味を「観客を楽しませる」というユーモアを混じえつつ、「絵を通じて物語る」ことを生涯かけて追求したのが、今 敏という作家だったのではないだろうか。
そう考えてみると、モチーフとして多用された「虚実のせめぎあい」も、「変化」という本質を照射しやすい方便に過ぎなかったように思えてくる。遺作となり、制作が続行されている(注:本稿執筆時)『夢みる機械』にもまた「人と機械」「堅いものと柔らかいもの」という対置がある。そこから「夢」の本質を見据えようとする作品なのだろうか。肉体が失われても、精神の運動は止まらないというのは、その意味でも「今 敏らしい」と言うほかない。その遺産を検証しつつ、最後のカードが開くときを待ちたいと思う。
【著者紹介】
ひかわ・りゅうすけ:アニメ・特撮研究家、明治大学大学院特任教授。今 敏監督作品では劇場映画4作品すべてのDVD解説書に参加、評論やロングインタビューを担当している。
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