竹内奎人氏

写真拡大

 昨季までくふうハヤテベンチャーズ静岡(現、ハヤテベンチャーズ静岡)の投手としてプレーした竹内奎人(たけうち・けいと=26歳=)氏は、昨年秋に引退を決断。医学部卒業後に2年間プレーしたチームに別れを告げ、今年4月から医師として新生活を歩むこととなった。中学時代にはU-15日本代表に選出。高校時代にはセンバツ甲子園のマウンドを経験した右腕が、どのように医師として活躍する夢を叶えたのか。その異例とも言えるキャリアに迫った。【取材・文=白鳥純一】(全2回のうちの第1回)

【写真】インタビューに応じる竹内奎人氏と、選手時代のユニフォーム姿

「小さい頃から読書家だった」少年が、やがてU-15日本代表に

 竹内氏は、春の訪れとともに河津桜が咲き誇る静岡県河津町で、1999年に産声を上げた。

竹内奎人氏

 教育熱心で読書家だった両親の影響により、「小さい頃から本を読むのが好きだった」という竹内少年は、小学校低学年で読書の魅力にはまり、高学年になると東野圭吾氏の作品などミステリー小説を読み耽っていたそう。

 その一方で、小学校1年生の時に始めた野球や水泳、書道に取り組み、活発な幼少期を過ごした竹内少年は、早くから投手としてプレーし、その才能に磨きをかけた。

 中学校に進むと、町内に硬式野球部がなかったことから、隣の伊東市に拠点を構える伊東リトルシニアに加入。平日は学校の陸上競技部で短距離や幅跳びの練習に取り組みながら、休日には白球を追った。そして「松井裕樹投手(当時、桐光学園。現、パドレス)が、甲子園で22三振を奪った姿に感銘を受けて身につけた」という縦のスライダーを武器にして実力を伸ばすと、中学3年生の時にはセレクションを経てU-15日本代表に選出され、周囲を驚かせた。

日本代表選出の中学生が医師を目指すことに決めた意外な理由

「それまでは県内の強豪チームと試合をするくらいだったので、『自分は野球が上手い』と思い込んでいましたが、代表合宿に参加するメンバーのプレーを見ると、当然のようにみんな本当に上手で。彼らの軽やかな内野守備を見ていると、僕に足りない部分や、それでも何とか勝負できそうな部分を知ることができましたが、『プロ野球選手になるのはおそらく無理だろう……』と現実を思い知らされました」

 全国から集う猛者たちのプレーを目の当たりにした竹内氏は、目前に迫った高校受験や自身の将来像にじっくり向き合う中で、故障と隣り合わせの選手生活と切り離せない職業でもある医者を目指すことを決断。甲子園出場常連校としても知られ、県下有数の進学校でもある静岡県立静岡高校を学校裁量枠で受験し、見事に合格を掴み取った。

「いわば推薦に近い受験形式だったので、入試が差し迫った12月頃から本腰を入れて勉強に取り組みましたけど、周囲に比べると勉強量自体は少なかったように思います」

 竹内氏は謙遜気味に当時を振り返るが、自身の勉強に対するこだわりについてこう続けた。

「自分の関心事はとことん追求できるんですが、誰かに言われて勉強をやらされることが本当に嫌で、中学生の頃はいかに勉強に時間をかけずに、テストの点数を取るか、その方法ばかり考えていましたね。少しでも早く勉強を終わらせるために、とりあえず授業中はノートを取り、自宅に帰るとひとまず課題だけは終わらせて、残りの時間は一切勉強のことは何も考えない。自由な時間をいかに長くするかを考えながら、毎日過ごしていました」

センバツ甲子園の大会期間中も参考書を開いていた

 中学時代は「塾に通わずとも、定期テストの成績はだいたい学年1位だった」と話す竹内氏だが、偏差値70(みんなの高校情報調べ)を誇る県内屈指の難関高に進学すると、現実を思い知らされる。

「入学後の最初のテストで、数学の順位がクラスの下から2番目で。優秀な同級生ばかりが揃う環境で、『野球ばかりしているとそうなるよな……』と気付かされて。特に数学や物理は苦手でしたが、それでも何とか頑張って周囲に追いついていこうと、空いた時間を見つけて、勉強に取り組むように心がけていました」

 当時の昔ながらの上下関係が残る寮生活では、勉強に取り組める環境も限られており、新入生の頃は人影に怯えながら食堂の隅っこで参考書を開くことも珍しくなかった。だが、そのような厳しい制約の中でも竹内氏は毎日勉強を続けた。春の選抜高校野球大会(センバツ)出場(2017年春、当時高校2年)を果たした際もその習慣は変わることなく、多忙なスケジュールの合間には、宿舎のロビーで参考書を開きながら過ごしていたという。

エースの座を奪われるも「悔しさや妬みはほとんどなかった」

 一方で竹内氏の高校時代は、投手としても飛躍を遂げる3年間となった。

「初めてキャッチボールをした時に、良いボールを体現したかのような素晴らしいボールを投げる姿を鮮明に覚えていて、『敵わないな』と感じずにいられなかった」と当時の印象を語る池谷蒼大投手(元横浜DeNA、現、ハヤテベンチャーズ静岡)の負傷もあって、1年生の秋に公式戦デビューを果たした竹内投手は、2年目にはエースナンバーを背負うまでに成長。2年生の秋以降は池谷投手にエースの座を譲ったものの、竹内投手も安定した制球力を武器に存在感を示した。

 実力を開花させた池谷投手の躍進もあり、順調に東海大会を勝ち進んだチームは、翌2017年春のセンバツ甲子園出場権を獲得。

「池谷の実力をわかっていたので、ポジションを奪われた悔しさや妬みはほとんどなく、納得している部分が大きかったように思います」と話す竹内氏も、主戦投手としてマウンドに上がってチームを盛り立てた。

甲子園の声援が凄まじかった

 センバツ甲子園に出場したチームは、池谷投手の好投もあって、初戦で岩手県の不来方(こずかた)高校に勝利を収めると、続く2回戦では後に優勝を掴む大阪桐蔭高校と対戦。同学年に徳山壮磨投手(元、横浜DeNA)や泉口友汰(現、巨人)。そして翌年に春夏連覇を成し遂げる根尾昂(現、中日)柿木蓮(元、日本ハム)、横川凱(現、巨人)、藤原恭大(現、ロッテ)ら「最強世代」が1学年下に控える強豪を相手に、エースの池谷が打ち込まれて初回に6失点を喫す。その裏の攻撃で同点に追いつき、一時はリードを奪ったものの、最後は大阪桐蔭高校が実力差を見せつけて8対11で敗れ、惜しくも涙を飲んだ。

「僕らの試合が、清宮幸太郎選手(現、日本ハム)を擁する早稲田実業高校の後だったこともあって、観衆はほぼ満員で、甲子園に響き渡る大歓声の迫力が凄まじすぎて、それ以外のことをあまり覚えていないんです」

 竹内氏は3点リードを許した9回途中からマウンドを任されると、1奪三振無失点の好投を見せて味方の援護を待つも、得点を奪えず。2回戦敗退で大会を後にした。

 その後、春の雪辱を果たすべく臨んだ夏の県予選は、藤枝明誠高校の前に準決勝で敗退。この年の夏に甲子園初出場を決めた新鋭に力及ばず、竹内氏の高校野球は幕を下ろした。

浪人も覚悟していた

「大半は野球が最優先の日々を送っていたので、勉強に関しては必要量の1割くらいしか取り組めていなかったように思います」

 高校時代の3年間をそう振り返る竹内氏は、野球部を引退した夏以降は医学部を目指す受験生として、厳しい状況と向き合うことになった。

「当時の担任には、『もし現役に拘るのなら、旧帝国大学の一般学部ならば合格出来そうだけど、医学部は難しいかもしれない』と言われていました。僕自身も浪人を覚悟していましたが、『ただ試験を受けて不合格に終わるだけでは味気ないな』と思って、条件に合う推薦入試を探してみることにしたんです」

 季節は猛暑が続く8月を迎え、既に一部は出願が締め切られている学校もあるなか、竹内氏は群馬大学医学部の推薦入試の情報を目にし、挑戦を決断する。

第2回【くふうハヤテの投手から医師に転身…リアルドクターK「竹内奎人」が「佐藤輝明」「柳田悠岐」との対戦で思い知らされた「軽自動車とスポーツカーくらいの差」】では、高校球児として活躍しながら、大学受験を経て医学部に進学し、医師としての道を歩む竹内圭人選手に、どのように受験を突破したか、また、大学時代の過ごし方、さらには今後について話を伺いました。

ライター・白鳥純一

デイリー新潮編集部