なぜ日本の学校は「一律の宿題」をやめられないのか。小学校教員の松尾英明さんは「海外の教育学者によれば、小学生においては宿題と学力向上の相関は極めて弱いといった研究結果もある。にもかかわらず、『毎日・全員同じ宿題』が続く原因は学校・保護者・児童の三すくみの構図にある」という――。
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■「宿題は出て当たり前」という前提

「宿題は毎日出るもの」――。これが昔も今も日本の小学校では、ほとんど疑われることのない前提である。音読、計算ドリル、漢字練習。内容は多少異なっても、「全員に同じ課題を出す」という形は広く定着している。しかし、そもそもこの前提は妥当なのだろうか。

宿題の効果については、教育研究の分野でもさまざまな指摘がある。デューク大学の教育学者ハリス・クーパーのメタ分析では、「小学生においては宿題と学力向上の相関は極めて弱い」とされている。

国内でも、丸山啓史『宿題からの解放』(かもがわ出版)などにおいて、「小学生における宿題の学力向上効果は限定的である」と整理されている。

さらに、アルフィー・コーンは『宿題をめぐる神話』(丸善プラネット)の中で、宿題が学力向上に寄与しない可能性や、学習意欲の低下と関連する側面についても言及している。

ただし、すべての宿題が一律に効果を持たないというわけではない。基礎的な内容の反復や、すでに学習した内容の定着を目的とした復習としては、一定の役割を果たす場合もあるとされている。特に、あらかじめ出題範囲が明確であり、同じ内容を繰り返し扱うことが前提となっている場合には、短期的な定着やテスト結果の向上につながる側面も指摘されている。

一方で、宿題が学習意欲の低下と関連する可能性についても、複数の研究で言及されている。こうした点を踏まえると、宿題の効果は一様ではなく、その内容や設計によって大きく左右されると考えられる。

以上のような指摘は以前から存在している。問題は、その違いが十分に検討されないまま、それでもなお、「毎日・全員同じ宿題」という形で運用されている点にある。なぜなのか。

■学校現場で起きている「三すくみ構造」

この背景には、現場特有の三すくみ構造がある。

一つ目は教師である。宿題を出さなければ「指導していない」「家庭学習を軽視している」と受け取られる。一方で、出しすぎれば「負担が大きい」「やらされているだけ」と批判される。どちらにしても教員としての評価の対象となる中で、「出しておく」という選択が無難なものになる。

二つ目は保護者である。ベネッセ教育総合研究所の調査でも、多くの保護者が宿題の必要性を認めている一方で、「何もしないよりは安心」という意識が背景にあることが示されている。宿題は学習そのものというより、「やっている証明」として機能している面がある。

三つ目は子どもである。「言われたことをやればいい」という形は、負担であると同時に安心でもある。何をやるかを自分で決めなくていい。自分で計画を立てなくていい。教師が正解を与えてくれる。そうした構造の中では、宿題は学びの機会というより、「指示された作業」として処理されやすい。

こうして、

・出さないと不安な教師
・宿題を求める保護者
・指示に従うことに慣れた子ども

という三者の均衡が生まれる。

この構造は、特定の誰かの意思というよりも、結果として「責任を個人が引き受けなくて済む仕組み」として機能している側面がある。

宿題を出していれば、指導していると説明できる。宿題があれば、保護者も安心できる。子どもも、言われたことをやっていれば評価される。

誰もが一定の納得感を得られる一方で、その前提自体が見直されにくくなっている。

■宿題の最大の問題は「学習意欲」の効果

宿題の是非が語られるとき、しばしば「学力が上がるかどうか」が論点になる。しかし、教壇に立つひとりとして感じるのは、学習意欲そのものにどうプラスの作用があるのかということだ。

宿題は「やること」が前提となるため、その内容や意味が問われにくい。終わっても特別に評価されることは少なく、一方でやらなければ指摘される。

その結果、

・親子間の摩擦の原因になる
・教師が注意する理由になる
・達成より未達成が問題視される

といった「減点」対象の材料となりがちだ。

そうなると、宿題は「学び」よりも「未提出を避ける行動」として捉えられることもある。にもかかわらず、「宿題のメリットは何か」と問うと、明確な答えは出にくい。残るのは、「言われたことをやる力」という説明である。

■「宿題」という言葉が抱える曖昧さ

この構造を支えているのが、「宿題」という言葉そのものの曖昧さである。

本来、家庭での学習にはさまざまな形がある。復習、探究、読書、観察、生活の中での学び。しかし、それらはすべて「宿題」という一語でまとめられることが多い。

その結果、

・学習内容の質が問われにくくなる
・「出すこと」自体が目的化する
・子どもにとっては作業として固定化される

という状況が生まれる。

文部科学省の論点整理では、「宿題」という言葉は前面に出ず、「家庭学習の内容を自律的に決められるような段階的指導」と表現されている。

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ここでは、

教師が決める → 子どもが従う

ではなく、

子どもが決める → 教師が支える

という構造が前提となっている。

学びの主語が移行しつつあることがうかがえる。

■「一律課題」はなぜ機能しにくいか

もう一つの問題は、「全員に同じ課題」という前提である。

子どもの理解度、興味関心、家庭環境は大きく異なる。同じ課題であっても、ある子にとっては簡単すぎ、別の子にとっては難しすぎるということが起こる。

また、家庭環境によって学習の意味は大きく変わる。支援の有無、学習環境の違いは無視できない。

こうした条件の違いを前提とすれば、「全員同じ課題」で最適な学習効果を得ることは難しい。それでもこの形が続いているのは、個別最適な設計や評価を行うには、現場の負担が大きいという事情もある。

つまり、一律の宿題は、子どもにとって最適だからではなく、制度として維持しやすい形として残っている面がある。

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■国際的に重視される「自己調整学習」

近年、国際的には学習観そのものが変化している。

OECDの学力調査でも、知識の量だけでなく、自分で学習を調整する力、いわゆる「自己調整学習」の重要性が指摘されている。

この観点から見ると、「何をやるかが決められている学習」は、自ら学びを設計する機会を制限する可能性がある。

宿題は、自立を育てるものとして語られることが多いが、見方によっては「自分で考えなくてよい構造」として機能している側面もある。

■探究学習との接続という観点から

近年、学校教育では「探究的な学び」の重要性が強調されている。自分で問いを立て、情報を集め、考え、表現する。こうした学びは、あらかじめ内容が決められている課題とは性質が異なる。

この観点から見ると、「全員が同じ内容に取り組む一律の宿題」は、探究的な学びとは構造的に接続しにくい面がある。

探究では、何を学ぶか、どのように学ぶかを自分で選択することが前提となる。

一方で、一律の宿題は「与えられた内容を確実にこなすこと」に重きが置かれる。どちらも学習ではあるが、その前提となる力は同じではない。

今後、探究的な学びが中心となっていくとすれば、家庭学習のあり方についても、その接続の視点から見直される必要があるのかもしれない。

■少しずつ始まっている別の取り組み

一方で、現場では異なる試みも見られる。

家庭学習の内容を子ども自身が決める形に移行する実践や、与えられた課題ではなく、自分で問いを立てて取り組む学習などである。

こうした取り組みはまだ一部ではあるが、「やるかどうか」ではなく「どう学ぶか」に焦点を当てた実践として広がりつつある。

■「出すかどうか」ではなく「どう学ぶか」

松尾英明『「当たり前」をやめるとクラスが回る! あえてやらない学級づくり』(学陽書房)

宿題をめぐる議論は、「出すべきか、出さないべきか」という二項対立になりやすい。

しかし、問題の本質はそこにあるのではない。現在の形が、どのような前提で続いているのか。それは誰を安心させ、誰に負担を引き受けさせているのか。そして、それが今の子どもたちにとってどのような意味を持っているのか。

宿題は、学力の問題としてだけでなく、学びの主語を誰が握るのかという問題としても見直される必要があるのかもしれない。

「出すこと」ではなく、「どう学ぶか」。宿題は今、そのあり方そのものが問われている。

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松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。
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(公立小学校教員 松尾 英明)