色とりどりのペンライトを持って「戦争反対」を訴える若者たち(C)日刊ゲンダイ

写真拡大

【右の耳から左の耳】#2

高市首相ブチ上げ国論二分政策「国旗損壊罪」はやっぱり無理筋…“真っ向反対”の岩屋毅前外相がド正論

 実家に住んでいた20代前半頃、自室に常に日の丸を掲げていた。式典や祝日に掲げるかどうかが問題になること自体に疑問を感じ、ならば毎日、常時掲げておけばいいじゃないかと思ったためだ。そんな娘を見て両親が内心どう思っていたかは不明だが、「やめろ」とも「いいね」とも言わなかった。

 国旗損壊罪が話題だが、筆者は法制化には反対の立場である。国旗に対する敬意は人一倍持っているつもりだ。だがそれは筆者と国旗、つまり国旗が象徴する日本の歴史そのものとの関係性におけるものであり、日本政府、ましてや現政権に「傷つけるなよ」式に割って入られるような類いのものではないからだ。

 国旗を目の前で損壊されれば大変気分が悪い。自分の大事なものをぞんざいに扱われれば、誰だってそう感じるに違いない。

 ここのところ各地で開催されている「戦争反対」を訴えるデモには人々が色とりどりのペンライトを持参しているが、もし破壊し粉々にしたペンライトの画像をSNSにアップすればデモ参加者の心は傷つくだろう。その時、踏みにじられたのはペンライトという物体ではなく、戦争反対という自身の思いや願い、そのものだからだ。

 筆者にとっては国旗がそれに相当する。いやいや、国旗は国から押し付けられたもので、ペンライトは自発的だと言うかもしれない。確かに違いはあるだろうが、筆者にも自発的な国旗への思いというものがある。

 国旗は国や政治への抗議のために燃やされたり破られたりするものだ、との指摘もある。それはその通りだろう。しかしその論理は前提として社会において「国旗は尊重すべきもの」との価値観が共有されていなければ成り立たない。

 自分たちを代表するものであり、(政府ではなく)国家そのものであり、だからこそ傷つけ否定することが強い抗議の表れとなる。では日本社会はそうした前提を広く強く共有してきたのか。ここに、政府与党が国旗損壊罪を持ち出す余地が生じる。だが「傷つけたら処罰」で敬意が養えるのか。

 現状、国旗を損壊して見せる人は少ないが、仮にそれが行われたとして、「そこまでの強い怒りと覚悟があるなんて」と感じる人はごくわずかだろう。行為に及ぶものも、もてはやすものも、せいぜいが「右派への当てつけ」程度でしかないのではないか。

 翻って、国旗損壊罪制定をはかる政府与党もまた「左派への当てつけ」程度の動機しかないのでは、との疑念がぬぐえないのだ。

▽梶原麻衣子(かじわら・まいこ) 1980年、埼玉県生まれ。中大文学部史学科卒。IT企業勤務後、2005年から花田紀凱編集長の「月刊WiLL」「月刊Hanada」編集部に所属。19年に退職し、現在はフリーの編集者・ライターとして活動。著書に「『“右翼”雑誌』の舞台裏」「安倍晋三 ドナルド・トランプ交友録」。