今季は公式戦39ゴールを挙げているエムバペ。(C)Getty Images

写真拡大

 レアル・マドリーというクラブには、ある奇妙な特異性がある。ファンやメディアを巻き込んだ激しい論争の末に、「最高の選手たちがいない時こそ、チームはより良いプレーを見せる」という合意が形成される瞬間はその一つだ。その論争は、時にSNSや観客席を飛び火し、執念深くやり過ぎればピッチ上の結果にさえ悪影響を及ぼしかねない。

 ちょっとした怪我や累積警告による出場停止、あるいは休養。もしスター選手が不在のままチームが勝利すれば、その白星には暗い影が差し、決まって議論の種を探し出そうとする欲求が顔を出す。これまでも、多かれ少なかれすべてのスターたちが経験してきたことだ。

「組織的なプレー」という言葉で正当化され、ジダンやクリスティアーノ・ロナウドでさえも、「過度に主導権を要求しすぎるがゆえに、彼がいない時の方が他の選手たちがのびのびとプレーできる」といった主張がなされるのである。

 この古臭い理論はメディア(ジャーナリズムとは、退屈すると変質してしまう高貴な職業である)によって放たれ、当然のことながら、アンチ・マドリディスタによって支持されてきた。マドリーから誰かが去った時の反応と同じだ。
 
 いなくなった途端に「実は素晴らしい選手だった」と称賛され、それまではエンブレムの影響で素行が悪かっただけの、実直な若者だったことにされる。それがフットボールの一部であり、支持するにせよ茶化すにせよ、興行としてのダイナミズムとしては悪くない。

 しかし、エムバペのケースには、笑えない新しさがある。それは、「チームの重荷だ、プレーが悪くなっている、周囲を劣化させている」といった、ピチーチ(得点王)にして世界最高のストライカーがマドリーには合わないとする声が、他ならぬマドリディスタの少なからぬ一部から上がっているという点だ。

 いいかい、今この瞬間のマドリーにおいてだ。そう主張する連中にとって、このチームにはクラック(名手)が余り合っているに違いない。「彼がいなくてもシティに勝てた」と彼らは言う。やれやれ、昨シーズンはエムバペのハットトリックで同じ相手を撃破したではないか。だが、だからといってバルベルデを売りに出そうなどとは誰も思わないはずだ。

 この手の声は、ライバルたちの皮肉から来ているのではない。多くのマドリディスタ、あるいはガレス・ベイルのようなOBや、騒がしいテレビ番組の論客、さらにはエムバペが善人かどうかまで精査するSNSから発せられているのだ。実に奇妙な話である。
 
 常勝を義務付けられたメガクラブが、その格に見合った11人を揃えながら、世界最高のアタッカーを戦術に組み込めないことを危惧するのではない。むしろ、まるで彼自身に全責任があり、その存在が周囲のすべてを枯らしてしまうかのように、このフランス人FWが馴染まないことばかりを問題にするのだ。2018年と2022年のワールドカップでいずれも決勝に進んだフランス代表でも、同じことが起きていたとでも言うつもりだろうか。

 ヴィニシウスとエムバペのような二人のスターが、常にビッグネームをかき集めてきた歴史を持つクラブにおいて--それも彼らと同じようなエリアでプレーした歴代のスターたちを擁してきた土壌がある中で--最終的に噛み合わないのだとすれば、それは選手たちの失敗ではない。彼らを共存させる責任を負う者の失敗だ。

 超一流の選手たちが自クラブに最もダメージを与える場所は、ベンチである。それは常にフル出場すべきだと言いたいのではない。このレベルのクラックがピッチに立たない時、クラブに関わる全員が損をするという意味だ。

 今シーズンのマドリーが抱える問題は、二人の看板選手を超えた構造的な部分にある。チームのパフォーマンス低下は、一般的に、最も違いを作れる選手の責任ではない。最多得点者が他の選手のプレーを阻害しているなどという論理は、極めて稀であり、滑稽でさえある。