(※写真はイメージです/PIXTA)

写真拡大

長く高収入を得ていた人ほど、定年後に生活水準を下げられず、思わぬ資金不足に陥るケースは少なくありません。現役時代の収入や社会的地位の記憶が強く、「周囲から余裕があると思われたい」という気持ちが支出を押し上げてしまうのです。今回はトータルマネーコンサルタント・CFPの新井智美氏が、地方大手企業で管理職として年収2,000万円を得ていた男性の事例をもとに、老後資産が減少していく過程と、その背景にある心理、そして同じ状況を防ぐための注意点について解説します。

年収2,000万円の元管理職が「月8万円のアパート暮らし」

田中正雄さん(仮名・78歳)は現在、妻の美智子さん(仮名・75歳)と夫婦2人で家賃は月8万円の木造アパートに住んでいます。質素ながらも落ち着いた暮らしですが、現役時代の生活を知る人からすれば、想像もできない変化でした。

正雄さんは、地方に本社を置く大手メーカーで長く働き、50代後半には管理職として年収2,000万円を超えていました。

社内でも成功したキャリアの持ち主として知られ、部下が多く、取引先との会食やゴルフも日常的でした。妻の美智子さん(仮名・75歳)も、企業の管理職夫人として地域の付き合いを大切にしてきたといいます。

正雄さんは60歳で定年退職しましたが、その後も再雇用制度を利用し、65歳まで勤務しました。完全退職した時点で、退職金は2,500万円、預貯金は1,500万円あり、金融資産の合計は4,000万円です。

収入からすると資産は控えめにも見えますが、現役時代のお金の使い方を考えれば妥当な金額です。さらに、夫婦の年金収入は企業年金も合わせると月30万円ほどあり、一般的な水準から見れば十分恵まれていました。

しかし、正雄さん夫婦には一つ大きな問題がありました。それは「生活レベルを落とせなかった」ことです。

華やかな老後の裏に「世間体」への強い執着

退職後も、夫婦の生活は非常に華やかなものでした。月に2回は友人や昔の取引先とのゴルフ。費用はプレー代や会食を含めて1回あたり約3万円。それだけで月6万円です。

また、夫婦で月1回は高級寿司店へ。2人で3万円ほどかかります。さらに年に1度は海外または国内の高級旅館へ旅行。旅行費用は毎回40万〜50万円ほどでした。日常の買い物も高級スーパーが中心で、食費は夫婦2人で月12万円ほど。衣類はブランド品を好み、百貨店の外商から購入することも多かったといいます。

美智子さんも友人とのランチを楽しみにしており、1回5,000円〜8,000円ほどのホテルレストランや有名店でのランチに月に4回ほど通っていました。

多くの場合、退職をして収入が減れば、それに合わせて暮らしをダウンサイズしようとするものです。しかし、正雄さん夫婦はなかなか生活を変えられませんでした。

その大きな理由が「世間体」でした。近所や昔の同僚などから、「田中さんは大企業の管理職だった成功者」という目で見られていると感じていたのです。

もしゴルフをやめれば「お金に困っているのでは?」、外食を減らせば「生活が苦しくなったのでは?」――そんなふうに思われるのではないかと、生活レベルを変える決断ができません。

美智子さんも同様でした。友人の多くは企業の管理職や経営者の妻たちであり、ランチの場所や服装が急に質素になると、周囲の目が気になってしまいます。長年続けてきた生活水準は、想像以上に変えにくいものだったのです。

静かに、確実に減り続けていた資産

しかし、このような生活を維持するため、毎月の支出は約50万円にものぼりました。いくら年金が30万円あるといっても、毎月20万円程度は貯蓄から切り崩さなければなりません。

65歳の時点で4,000万円あった金融資産は、どんどん減っていきました。毎年約240万円資産を取り崩す生活。70代に入ると、医療費も少しずつ増えていきます。

さらに、自宅の老朽化による修繕費も必要になりました。外壁の修繕で180万円。給湯器や設備交換で60万円。臨時支出が重なり、実際の資産減少額は年間300万円近くになる年もありました。

使いすぎていることを認識しながらも、生活を大きく変える決断まではできませんでした。「まだ、なんとかなる」――そんな思いが、見直しを先送りにしていたのです。

自宅売却という切り札も「まさかの査定額」

75歳を迎えるころには金融資産は1,000万円台に。さらに、追い打ちをかけるように、正雄さんの企業年金が75歳から減少し、受け取れる年金額は月25万円になりました。

ようやく「このままでは本当に立ち行かなくなる」と危機感を強めた正雄さん夫婦。そこで、自宅を売却して生活資金に充てることを考え始めました。修繕費や固定資産税などの維持費が負担になってきたことや、子どももそれぞれ家を購入しているため、あえて家を残しておく必要はないと考えたからです。

自分たちの亡き後に家があることで、子どもたちに迷惑をかけたくないという思いもありました。正雄さんの家は郊外の戸建て住宅で、土地は約40坪。「最低でも2,000万円くらいにはなるだろう」と考えていましたが、査定結果は想像より厳しいものでした。

築40年以上の木造住宅は、建物価値がほぼゼロと評価。土地価格は約1,500万円でしたが、建物の解体費用が約250万円、仲介手数料などを差し引くと、手元に残ったのは1,200万円ほどでした。

同期は高級老人ホーム入居…「早く生活を見直していれば」

年金収入が減ったこともあり、それまでの生活レベルで暮らしていくことは不可能です。とはいえ、自宅の売却と貯金で、手元には約2,000万円以上は残っています。

そのため、当初、正雄さん夫婦は中古マンションの購入も検討したといいます。地方都市、2人暮らしのコンパクトな築古であれば、1,000万円台の物件も少なくありません。

しかし、不動産会社から購入後の管理費や修繕積立金の説明を受けたとき、「この先、医療費や介護費用が必要になったら」「90歳、100歳まで生きたらどうなる」と、残りの資産の大半を住宅購入に使うことに不安を感じたのです。

「もう見栄を張る年齢でもないな、買うのはやめよう」

夫婦で話し合った末に選んだのが、月8万円の賃貸アパートでした。資産をできるだけ手元に残し、老後資金の寿命を延ばしたい。多少は子どもや孫にお金を残したい。目先の世間体や見栄を完全に捨てた瞬間でした。

「元同期が高級老人ホームに入居したらしい。入居一時金は3,000万円以上、月額費用も30万円を超える施設だそうで。ちゃんと考えてやりくりしていたんだろうね」

かつて同じ会社で働いていた仲間との違いに、苦笑する正雄さん。「でも、アパートといっても意外と快適だよ」という正雄さんに対して、美智子さんは「もっと早く生活を見直していればね」と何度も後悔を口にしているそうです。

支出はできるだけ年金収入内に留め、突発的な支出にも耐えられるよう、貯蓄額をできるだけ崩さない――工夫を考えながらの生活が続いていきます。

老後を守るために大切な考え方

このような事例は、決して珍しいものではありません。現役時代に高収入だった人ほど、生活レベルを下げることが難しい傾向があります。

しかし、老後の家計は現役時代とは構造が大きく異なります。給与収入はなくなり、基本は年金が中心になるため、資産を取り崩す生活では、「支出の大きさ」がそのまま資金寿命に直結します。

周囲の評価や世間体は、時間とともに変わります。しかし老後資金は、一度失えば取り戻すことができません。 老後生活で本当に大切なのは、「人にどう見られるかではなく、安心して長く暮らせること」です。

正雄さん夫婦に関していえば、老後破産という最悪のケースになる前に、世間体や見栄を捨て、堅実な暮らしを選べたことは不幸中の幸いです。

退職は人生の終わりではなく、新しい生活の始まりです。そのときに必要なのは、現役時代の肩書きではなく、身の丈に合った暮らし方なのかもしれません。

新井智美
トータルマネーコンサルタント
CFP®