昭和18年「伊号第八潜水艦」がドイツへ…パリにたどり着いた乗組員が駐独武官から耳打ちされた「ヨーロッパの嫌われ者」という言葉
長年、戦争体験者やご遺族の取材をしていると、当時の貴重な資料や写真に出会うことがしばしばある。ただ写真は、アルバムに整理されることもなく、しかも特に説明もなく、バラバラに箱に入ったままの状態で数十年放置されていることが少なくない。本人が戦死したりすでに亡くなっている場合、写真について聞くこともできないから、複写して自分で解き明かすしかない。
どこで何を(誰を)写したものか、説明のない写真を解析するには、元の持ち主の履歴にはじまって、写っている状況や人物の服装、顔立ち、階級章、建物、地形、飛行機などをもとに、ほかの写真や防衛省防衛研究所の所蔵資料などを総動員して撮影時期と場所を特定してゆくのだが、かなり手間のかかる作業になる。今回はある日本海軍の潜水艦の写真に写る、ドイツ軍の対空機銃について解説しよう。
フランスに入港した日本の潜水艦
ここに一枚の写真がある。太平洋戦争中に日本の潜水艦の艦上で撮られたものであることは、艦の形や日本海軍の軍服からわかる。
だが、写真にはドイツ海軍の軍人も写っていて、なにより甲板上に設置され銃口が空を睨んでいるのは、日本海軍の兵器ではなくドイツ軍の20ミリ四連装機銃なのだ。これはどういうことなのか。写真の持ち主は桑島齊三(くわしま さいぞう)氏(元海軍大尉。戦後、東大医学部を経て、千葉県旭市で産婦人科医。故人)。戦時中、日独の連絡に派遣された潜水艦5隻のうち、唯一生還した伊号第八潜水艦の通信長だった人だ。
昭和18(1943)年8月31日、フランス・ビスケー湾の北西岸、ブレスト軍港に、3隻のドイツ海軍水雷艇に護衛され、さらに6隻の機雷原突破船に厳重に守られた1隻の潜水艦が入港した。
伊号第八潜水艦(伊八潜)、日本海軍の大型潜水艦である。昭和13(1938)年に竣工した、当時としてはやや旧式艦だったが、潜水戦隊の司令部を置くことのできる設備をもち、基準排水量2231トン、全長109.3メートル、最大幅9.1メートル、魚雷発射管6門と、発射管に換装できる魚雷格納筒2本、さらに14センチ連装砲1基(2門)をそなえ、飛行機1機(九六式小型水上偵察機)を搭載する。最大速力は水上で23.5ノット(時速約43.5キロ)、水中で8ノット(時速約15キロ)。また、16ノット(時速約30キロ)の水上航走で、地球半周を優に超える14000浬(約26000キロ)の長大な航続力をもち、無寄港で連続60日の作戦行動が可能だった。
伊八潜は、昭和16(1941)年12月8日の開戦時には、他の潜水艦とともにハワイ・オアフ島を包囲、機動部隊による真珠湾攻撃を側面より支援。昭和17(1942)年初頭には、偵察任務を帯びてアメリカ西海岸、サンフランシスコ港外にまで遠征している。同年7月15日、艦長が江見哲四郎中佐から内野信二中佐に交代、こんどは南太平洋、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる攻防戦で、輸送任務や陸上砲撃に従事。そして昭和18年3月21日、呉軍港に帰投したところで、ドイツへの派遣を命じられたのだ。
日本の潜水艦がドイツに派遣されたワケ
第二次世界大戦当時、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいたが、地理的な遠さもあって、日本とドイツ、イタリアが直接、協同作戦を行ったのは、インド洋で、日独の潜水艦が通商破壊戦(インド洋を航行する敵船舶を撃沈し、人員、物資の輸送を妨げる)をともにした例があるのみである。日本と独伊との直接連絡の方法も、陸路、空路ともに成功せず、残るは潜水艦による方法しかなかった。
ドイツ総統ヒトラーは、インド洋での日本潜水艦による通商破壊戦の強化を強く望んでいたが、日本側は太平洋の対米作戦に兵力を注がなければならないため、インド洋に十分な数の潜水艦を配備することができなかった。そのため、ドイツは建造日数の短い中型潜水艦(Uボート)2隻を日本に無償提供するから、日本側はそれをモデルに多数の潜水艦を建造し、インド洋に配備してほしい、ということになった。2隻のUボートのうち、1隻はドイツ海軍が回航するが、もう1隻は日本海軍の手で回航することと決められた。
そこで、そのUボートの回航員(乗組員)をドイツまで輸送することを主な任務として、伊八潜がドイツに派遣されることになったのだ。
日本の潜水艦がドイツに派遣されたのはこれが初めてではない。前年の昭和17年3月、ドイツで不足している雲母(うんも)や生ゴムなどの軍需物資、航空魚雷、航空母艦の設計図などを満載した伊号第三十潜水艦(伊三十潜)が、ドイツへ向け出港。5ヵ月近い航海を経て、8月6日、フランス・ビスケー湾のロリアン軍港に入港した。伊三十潜で砲術長を務めた当時21歳の竹内釼一(たけうち けんいち)少尉(のち大尉。戦後、伊藤忠商事勤務)は、私のインタビューに、次のように答えている。
「占領下のパリは平穏そのもので、のんびりと市内見物を楽しみました。パリでは当時、日本の行進曲『軍艦』(軍艦マーチ)の旋律が流行っていて、行く先々で聴かせてくれましたよ。有名なシャンゼリゼ通りのキャバレー『リド』に入ったとき、それまで演奏していた曲を止めて軍艦マーチを演奏してくれたのにはびっくりしました」
爆沈した伊三十潜
半月の滞在ののち、伊三十潜は、ドイツ側から譲渡された電波探信儀(レーダー)をはじめとする兵器や暗号機、個々の乗組員にプレゼントされたカメラや腕時計、洋服地、パリで買い込んだ土産物を満載し、8月22日、ロリアンを出港。順調な航海を経て10月13日、シンガポールに寄港したが、ここで機雷に触れ、まさかの爆沈。日本への帰還を目前に、14名の乗組員が、ドイツから持ち帰った貴重な物資とともに海底に沈んだ。
伊八潜に、「遣独第二艦」として派遣命令が下されたのは、第一艦の伊三十潜の爆沈から約半年後のことである。
ドイツ行きが決まると、伊八潜は、Uボートの回航員など50余名の便乗者を収容するため、予備魚雷を陸揚げし、下部魚雷発射管室を改装して居住設備を急造。警戒厳重な大西洋を突破するため、呉海軍工廠電気部がつくり上げた電波探知機(敵のレーダーが発した電波を傍受し、その波長と強さを同時にブラウン管上で知る装置)を装備した。
訪独準備が進められていた昭和18年5月1日付で、内野艦長は大佐に進級。本来、潜水艦長に大佐の配員はないが、内野艦長は、伊八潜のことは隅々まで知悉しているからと軍令部に直談判し、引き続き艦長の職にとどまることになった。大佐の潜水艦長は日本海軍初である。老練な内野艦長の残留は、結果として伊八潜の訪独成功につながる大きな要因となった。だが、その間にも、山本五十六連合艦隊司令長官戦死(4月18日)、アッツ島守備隊玉砕(5月29日)と、戦況は日本にとって不利となっている。ヨーロッパでも、北アフリカ戦線で独伊軍が敗退するなど、状況の悪化は誰の目にも明らかだった。
6月1日、伊八潜は、108名の乗組員とは別に、「さつき二号」と名づけられたUボート(U-1224。のち呂五百一潜と改名)の艦長・乗田貞敏少佐以下、52名の回航員と食糧、必需品を満載し、呉を出港した。途中、日本海軍の潜水艦基地が置かれていたペナンで便乗者6名を乗せ、燃料、食糧を補給したのち、6月27日、ヨーロッパへ向かう。ペナンから、目的地のビスケー湾までは約14000浬(約26000キロ)。伊八潜の航続力ぎりぎりの距離だった。
このとき、伊八潜に22歳で通信長として乗組んだ桑島齊三中尉(のち大尉)には、平成14(2002)年から19(2007)年にかけ、何度かインタビューすることができた。今回、紹介する伊八潜の訪独時の写真は、桑島が持ち帰り、大切に保管していたものである。
「回航員や便乗者のほかになにを積んでいたかまでは、新米士官の私には知る由もありませんが、途中まで伊十潜が随伴し、2度、燃料補給を受けたのは憶えています。とにかく、インド洋の荒波と暑さには参りました。7月7日、回航員の一人だった田島二三男上等水兵が熱帯性マラリアで死亡、遺体を軍艦旗で覆った棺に納め、一人しかいない信号員が吹奏する『命を捨てて』の喇叭とともに水葬しました。悲しい光景でしたね……」
大荒れの喜望峰
潜水艦が隠密裏にインド洋から大西洋に出るには、南アフリカの喜望峰沖を通らねばならない。だがここは、「ローリングフォーティーズ」(Roaring Forties)と呼ばれ、風速40メートルを超えるような西からの強風が常時吹き荒れる、世界屈指の難所だった。
「7月11日、艦は荒天域に入りました。ローリングフォーティーズはすごかった。深度50メートルまで潜航しても艦が揺れるんですから。夜間、浮上して当直に立つと、南半球は冬だからとても寒く、耳がしもやけになりました。以前体験した北太平洋の荒天も大変でしたが、冷たい波浪を頭からかぶる点、喜望峰沖のほうがきつかったですね」
激浪に叩かれて、左舷(ひだりげん)飛行機格納筒付近の側板が剥ぎとられて大穴があき、上部構造物全体の破損が懸念される事態になった。潜水艦には工作設備がほとんどないので、艦内に積んでいたワイヤーロープ、マニラロープを総動員し、破孔を縦横に網状に縛って補強に努めた。ようやく暴風圏を脱出できたのは、7月21日のことだった。
「10日がかりで喜望峰をまわり、大西洋に入ると、とたんに海が静かになりました。日が燦々と差して暖かくなり、なんてきれいな海だと思いました。敵艦艇や哨戒機への警戒は怠れず、緊張の続く航海でしたが、艦内の雰囲気は和気あいあいとしてましたね。中尉の私にとって大佐の艦長は近寄りがたい人でしたが、なにかの機会に艦長室に入ったら、女優・田中絹代のキャビネ大の写真が飾ってあって、親近感を覚えたものです」
7月24日、初めてドイツ側からの無線連絡が入った。さらに29日、駐独武官からの電報で、目的地が、安全上の見地から、前回、伊三十潜が入港したロリアン軍港ではなく、同じくビスケー湾を望む、ブルターニュ半島尖端のブレスト軍港に変更となったことが伝えられた。同時に、最新式の電波探知機を携行するドイツ潜水艦とアゾレス諸島西方海面で会合させるから、赤道を通過するとき、会合予定日を報告するよう求めてきた。
「伊八潜はそれまで、厳重な無線封止を行っていましたが、指示に従って無電を発進したところ、さっそく、それを傍受したと思われる敵の飛行機が飛んできた。電波を出すのは、ほんとうに危険なことでした」
ブレストへの入港
ドイツの潜水艦と会合したのは8月20日のことである。ペナン出港以来2ヵ月近く、陸地を見ない航海だったが、天測航法だけでみごと地球上の一点にたどり着いたのだ。
「8月27日、ポルトガルの突端の灯台の光芒が見えてきました。いよいよ目前にヨーロッパ大陸があるということ、それを自分の目で確かめたという感激は、いまも忘れられません。敵の電探(レーダー)に対して、一般漁船に紛れたほうが安全だからと、あえて陸岸近くを通りましたが、トロール船の漁網に引っかからないかが心配でした」
と、桑島は回想する。
途中、潜行中にイギリス軍の威嚇の爆雷の音を聞いたり、夜間、浮上すると、おびただしい数の夜光虫が艦の形をくっきりと浮かび上がらせて、ひやりとする場面もあったが、8月30日午前、伊八潜はドイツ海軍の水雷艇3隻と合流し、それらに護衛される形で、翌31日早朝、ブレストに入港した。ブレストはイギリスから近く、湾口には絶えず英軍機が機雷を撒いていて、この機雷原を安全に航行するため、数隻の機雷原突破船が配備されていた。伊八潜が湾口に近づくと、3隻の機雷原突破船が先導し、さらに後方にも3隻がつく。港内には多くの防塞気球が上げられ、空襲の烈しさがうかがえる。
軍港には「ブンカー」と呼ばれる、厚いコンクリートに守られた、潜水艦そのものを収容する巨大な防空施設兼工廠が15基も並んでいて、伊8潜は、ドイツ側の案内で左端の奥のブンカーに艦首を入れた。その瞬間、ドイツ海軍軍楽隊の演奏する「君が代」がブンカー内に鳴り響いた。ブンカーでは、ドイツ西部海軍司令長官のクランケ大将、日本海軍代表委員・阿部勝雄中将、駐独武官・横井忠雄少将ら、多くの関係者が出迎えた。
「ブンカーそのものや歓迎ぶりにも目を瞠りましたが、それよりも、女性が花束を持って出迎えてくれたのには驚きました。こんなこと、それまで経験したことがなかったですからね。
ブレストの潜水艦基地隊では、盛大な歓迎会を開いてくれました。その晩、私たちは久しぶりに陸上のベッドでぐっすり眠ることができた。ただ、乗組員同士では気になりませんが、ペナン出港から66日、潜水艦には入浴設備がなく、一度も風呂に入っていなかったので、臭気は相当なものだったでしょう。身についた垢が、いくらこすっても次から次へと湧いて出てくるんですから。たたんで持参した軍服は汚れていませんが、着たきりの下着は、まるで醤油で煮しめたような色に変わっていました」
響き渡る空襲警報
入港後まもなく、桑島は内野艦長から、電波兵器の講習に参加する意思を問われ、興味のある事柄だったので、即座に参加を希望した。
「保養所として使われていた、シャトーヌフのフランス貴族の城館で数日間、骨休みして、通信科の下士官兵3名、Uボートの回航員51名とともに、ブレストを汽車で出発、パリで何日か過ごしました。艦長以下、大尉以上の士官はベルリンに招待され、デーニッツ海軍総司令長官と面会したそうです。
パリでの宿泊先は、リッツホテルでした。ベルサイユ宮殿、凱旋門、ノートルダム寺院、ナポレオンの墓、セーヌ川、夜はカジノ・ド・パリ……。見るものすべてがめずらしかったですが、シャンゼリゼ通りなんかでも、そのときはひっそり閑としていて、静かな街だなあ、と思いました。前年に伊三十潜が来たときには、どこに行っても軍艦マーチが流れていたそうですが、このときはそんなこともありません。この1年で、ドイツも相当、戦況が悪化していたんでしょう。
パリ見物のあと、ドイツのキール軍港へUボートを受け取りに行く回航員たちと分かれ、ドイツ駐在の前伊八潜艦長・江見哲四郎中佐、松井登兵機関中佐の引率で、ブリュッセルを経由して、ベルギー北岸のオステンドにあるドイツ軍電波兵器学校に向かいました」
オステンドでは、約3週間にわたって、ドイツ側から譲渡される電波探信儀(レーダー)の構造や取扱方法を学んだ。オステンドは、ドイツへ空襲に向かう連合軍機の通り道にあたる。空襲警報が発令され、敵機が頭上を飛ぶのは日常のことだった。海岸にはトーチカがいくつも据えてあって、最新式のいかにも性能がよさそうな銃が、海岸線を睨んでいた。
「木造の小さなホテルを宿舎にしましたが、戦時下で食べるものがなくて困りました。朝は黒パンにコーヒー色をした味のない飲み物、バターなんてめったにつかない。昼は、深皿に洋風の極端に肉の少ない肉じゃがのような料理だけ、夕方はなんだったか、とにかくお腹がすいて。夕方、勉強が終わったあと町に出てみたけど、八百屋にも少しの野菜があるだけ。玉ねぎを買って帰り、宿舎で生のままかじって空腹をしのぎました」
『ドイツはヨーロッパの嫌われ者ですよ』
桑島がオステンドで講習を受けていた9月8日、イタリアが連合国に降伏。日独伊三国同盟の一角がくずれた。
「ドイツの軍人はみな、イタリアは弱いんだと悪口を言ってましたね。けれども駐独武官の誰かが、こっそり私に、『ドイツはヨーロッパの嫌われ者ですよ』と耳打ちしてくれて、それが強く印象に残りました。それまでドイツには憧れこそすれ、マイナスの知識もイメージも持っていませんでしたから……」
講習を終えた桑島一行は、帰りもパリに立ち寄り、デパートで買い物をして、ビスケー湾の奥に位置するミミザン対空機銃学校で講習を受けてきた砲術長・大竹寿一中尉の一行と合流、ブレストに戻った。
ブンカーに係留された伊八潜は、桑島の留守中にドイツ海軍の手で必要な補修を終え、輸送物資を積み込んで、帰国の準備を整えていた。ドイツ軍の誇る20ミリ四連装対空機銃は、艦の司令塔後方の甲板上に装備され、持ち帰られることになった。
搭載物件はすでに梱包されていて、その詳細について桑島は知る由もなかったが、残された目録によると、電波探信儀やその図面、ダイムラーベンツ製高速艇用発動機とその図面、エリコン20ミリ機銃120挺、急降下爆撃照準器、レントゲン検査装置、医薬品、ボールベアリングなど56件におよぶ物件が搭載され、日本に運ばれることになっていた。しかし、カメラや洋服地など、伊三十潜のときのような乗組員個々への土産物はなく、ただワイン一箱が餞別に届けられただけだった。
後編記事『ドイツ往復に成功した潜水艦は「伊八潜」のみ…約400名の若者たちが「犠牲」となった遣独作戦』へ続く。
