【母の教え】染めQテクノロジィ代表取締役・菱木貞夫「厳しい母でした。いじめ、パワハラの恐ろしい母でしたが、晩年、その母の行動が……」
そんなときに妙案が浮かびました。銭湯に行かず、代わりにどこかでタオルを濡らして適当に時間を過ごしてから家に帰ればいい─。帰宅後、抜かりなく濡らしたタオルをタオル掛けにかけ、布団に潜り込みました。「ざまあみろ」。してやったりの気分で苛立ちも消え失せていました。
ところが、です。何の前触れもなく、バサッと再び布団がまくり上げられて母の怒声と蹴りを受けました。「こんな子どものときから親の目をごまかすとは何事か!!」「いい加減な人間に育ってしまって!!」。
烈火の如く怒った表情の母からは、罵声の言葉が次々と浴びせられました。結局、本当に銭湯に行くことになりました。しかし、「なぜ分かったんだろう」。不思議でなりませんでした。
また、こんなことも思い出されました。1972年、思い立ってテロソンという会社を創業した2年後、わたしが入院していたときに、社内で謀反が起こりました。倒産するかも知れないというほどの危機だったのですが、その首謀者こそ母が指摘していた人物だったのです。
さらにその6年後にも、会社を挙げて企画したタイヤカラーというプロジェクトで2億円を超える損失を出しました。その苦境を見計らったかのように、会社の上席役員が会社の財産や製品の配合資料など全てを持ち出して逃げてしまったのです。
しかも、テロソンが競合するライバル企業と癒着し、テロソンの倒産を画策していたのです。その人物も母が警戒して指摘していた人でした。
このときほど人を見抜く母の目の凄さを感じたことはありません。そんな母でしたが、晩年、わたしを救ってくれたのです。事の次第は、わたしの事業が軌道に乗り、年商も10億円だったのが20億円、40億円と急成長。
銀行からも融資をするから資産を増やしたらどうだと勧められ、80年代前半から国内外の土地を買いました。国内に32カ所、海外にも数カ所。総資産は300億円に膨れ上がり、年間売上高も200億円と順調でした。
そんな矢先に起こったのがバブル崩壊です。事業は混乱し、資金は逼迫するなど急激な負の連鎖で海外事業も本社社屋も売却。それでもまだ負債は100億円近く残っていました。文字通り天国から地獄に、でした。
元社員にお金を借りに回った母
さらに不幸は続きます。会社が潰れるのではないかという噂が広まり、原料が購入できなくなり、社員はどんどん辞めていく。何かと支えてくれていた父も85歳で亡くなってしまう。更にその半年後、一番の相談相手であり、パートナーだった妻・悠子が急逝したのです。
しかしながら、そのときの母の言葉、その後の行動は、わたしの想像の及ばぬものでした。
母は静かに「あなたが一生懸命やった事業よ。あなたらしくやりなさい」。耳を疑いました。励ましを含む言葉など、そんな言葉を聞くとは夢にも思っていなかったからです。そして「4億円近いお金がある。わたしの全預金だから使っておくれ」と言ってくれたのです。
70代の後半にもなり、残された人生は手元資金だけが支えだったはず。それを頼りにならないバカ息子のために投出してくれたのです。ところが、それでも毎月の借金返済では苦悩が続きます。
それを知った母は元社員のもとを訪ね、正直に会社の厳しい状況を伝え、息子のためにお金を貸して欲しいと懇願して回っていたのです。
それまでお金に困ったことがなかった母が初めて他人に頭を下げて、お金を借りに回ったわけです。母に世話になった恩を感じてくれた元社員は、ほとんどの者が貸してくれました。中には数千万円も貸してくれた人もいたほど。今でも信じられません。
母の人に対する優しさがどれほどのものだったか。想像すらできません。
10年の年月を費やし、何とか借金返済の目途が立ちました。「これからは自分のためではなく、世のため人のための仕事をしよう」─。
こう心に決めて再出発したのが今の染めQテクノロジィです。そんな母は92歳の誕生日を病室で迎え、2010年8月23日に安らかに旅立ちました。
母は弱い者にやさしく、強い者に強く、を地でいく人でした。自分の都合ではなく、相手の立場に立って物事を考える女性でもありました。
母の後ろ姿からは、こんなことを学んだ気がします。わたしにとって「ビジネスの師匠」は父でしたが、「人生の師匠」は間違いなく母であったと思います。
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