カミカゼだけではなかった!日本が強大な力を持っていた「元」を「元寇」で退けることができた理由

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日本に奇跡的な勝利をもたらす「神風」とは?

日本が奇跡的な勝利をおさめたときに、よく耳にするのが「神風が吹いた」という言葉です。

第二次世界大戦で出撃した日本軍の特攻隊も「神風特攻隊」と呼ばれました。この「神風」という言葉は、元々は鎌倉時代に日本に攻め込んできた「元王朝」が2度にわたり敗退する要因となった台風を指しています。

しかし、強大な元の軍隊が日本に2度も敗退した理由は、台風という自然災害が偶然やってきたことだけではなかったのをご存知でしょうか?

実は元軍は、それ以外にも「敗退につながる大きな要因」を持っていたのです。

そうだったの!?「元寇」の経緯

元王朝は、1271(文永8)年〜1368(南朝:正平23/北朝:貞治7)年まで、中東アジア地域から東ヨーロッパまでの広範囲を支配していた、モンゴル人による「征服王朝」です。
高麗(朝鮮)などの周辺国も属国として従え、全盛期には「史上最大の国」と呼ばれるほどの勢力を持ちました。

1266(文永3)年、そんな元の皇帝フビライ・ハーンから日本へ、こんな内容の国書が届きました。

「私が皇帝になってから高麗が我が国に降伏して属国となり、喜ばしいことだ。
しかし日本は、昔からその高麗と仲良くし、中国とも貿易をしていたのに、モンゴル皇帝に対し1通の手紙もよこさず、国交を持とうともしない。どういうことだ?
これからは我々も仲良くしよう。
このことが理解できないなら、軍を送ることになるが、それはこちらとしても本意ではない。
よく考えて返事をしてくれ」

要は「我々と国交を結ばないなら、お前の国へ攻め込むぞ」という脅しです。
当時の日本は金の産出国として知られていたため、元はそこに目を付け、日本も属国にしようとたくらんだのでしょう。

 

しかし鎌倉幕府は、これに対し返事をしないことで
「元との国交は拒否する」
という意思を伝えようとしました。

日本の「無言の拒否」が伝わらなかったのか、元はその後も何度か使者を日本へ送り国交を求めました。
それでも日本が返事をしなかったため、フビライはついに日本へ総勢約4万の大軍を差し向ける決定を下します。
これが、最初の「元寇」として知られる「文永の役」です。

チームワークがなっていなかった元の大軍

騎馬戦術に優れている上に「てつはう」などの最新兵器まで駆使する元の大軍でしたが、致命的に足りないものがありました。それは「チームワーク」です。

元の軍隊はモンゴル人だけでなく、高麗・女真など元によって征服された国や属国とされた国から強制的に集められた様々な民族で構成されていたため、言葉が通じずお互いの意思疎通が困難でした。

しかも最新兵器を駆使することができたのはモンゴル人だけで、他の民族の中には弓矢などの武器がうまく使えない者すらいたのだとか。

さらに、強引に宗主国である元に強制的に徴兵された属国の民族が「お国のために!」と喜んで戦うはずがありません。

彼らは士気が低く、不利になればすぐ船へ逃げてしまうため陸に拠点を築くことすらできず、そのうちに食料や水の補給すらままならなくなりました。

そこへ追い打ちをかけるように台風がやってきたため、元軍は退却を余儀なくされます。

2度目の元寇の「弘安の役」では、元は前回の倍以上の大軍を日本に差し向けました。しかしこの時、元は前回の失敗を活かすことができていませんでした。

元軍は再度台風によって沖へ流されますが、この時点ではまだ戦える兵力が残っていたにもかかわらず、うんざりして国へ帰ってしまったのです。元軍のチームワークは、相変わらず向上していなかったのですね。

こうして歴史が物語るように、元の大軍は日本にあっけなく敗退してしまったのでした。

【参考】
・『歴史の決定的瞬間』日本博学倶楽部 著/PHP研究所 発行
・元寇はなぜおきたか 日本は何が変わったか/玉川学園・玉川大学・共同多賀歴史研究所
・Wikipedia『元寇』