カンヌの活気に満ちたクロワゼット通りのただなかに位置するホテル、カールトンのテラスは長年にわたり、カンヌライオンズというお祭りのトーテムポールのようなものになってきた。早朝から真夜中まで、しゃべりしゃべられ、追い追われの場になるのだ。

クリエイティビティのハブは、会議場のパレ・デ・フェスティバルだったかもしれない。だが、カールトンは取引の中枢として機能してきた。そこでは、至る所に置かれたロゼのボトルごしに、幹部たちが雑談やまじめな話、そしてリクルートを繰り広げる。

つまり、カールトンテラスの「ガターバー」は、大人たち場なのだ。

はじまりの物語



1984年、ライオンズが恒久的にカンヌに移った。当時はもっぱらテレビと映画の広告のクリエイティブのための地方のお祭りだった。セミナー、パネル、アメリカ人など、いくつかはまだなかった。

リック・ボイコ氏(オグルヴィ・アンド・メイザー[Ogilvy&Mather]の元最高クリエイティブ責任者、VCUブランドセンターの元マネージングディレクター):私の最初のカンヌは1987年で、それから約21年間、毎年訪れた。当時、カールトンは夜には開いてもいなかった。ランチだけだった。

ボブ・ガーフィールド氏(広告コラムニスト、広告評論家):私が最初にカンヌに行ったときは、ポーク氏がプレジデントだった。要するに、ずっと昔のことだ。

ボイコ氏:あのバーはまだそこにはなかった。みんなマルチネスやガターバーに行っていた。ビールや強いお酒が好きではない人は、諦めるしかなかった。

ロブ・シュワルツ氏(TBWA\シャイアット\デイ・ニューヨーク(TBWA\Chiat\Day New York)のCEO):おそらく我々広告の人間が現れるようになるずっと前からああなったのだと思う。つまり、カールトンといえばカンヌ映画祭だった。ハリウッド、フランスヌーベルバーグ、グレース・ケリーだ。

ボイコ氏:アメリカの候補者や関係者の小さな一団がまずカールトンに移った。1991年だったか92年だったか、数人がシャンパンとロゼをボトルで買い、あそこに座って雑談をした。

ガーフィールド氏:そのころ、アメリカ人たちがマジェスティックではなくカールトンに行くようになった。アメリカ人向けの気取った場所だった。まずはここだった。カンヌに行った最初のころはほとんどをここで過ごした。私はお泊まりキャンプみたいだと思った。行ったことがある古参は基本的に後から来たものに冷淡で、優越感があった。映画『ミーン・ガールズ(Mean Girls)』の世界だった。

ボイコ氏:夜のイベント後、ほかのみんながマルチネスにいるころに小グループで集まるようになった。毎晩、楽しめるようになった。すばらしいシャンパン。(伝説のディレクター)ジョー・ピトカ氏が、テーブルにボトルを並べてグラスを配り、話をした。給仕はなかった。階段にベルベットロープが置かれていたので開いていることを誰も知らず、我々で独占した。

クリエイティブの全盛期



1990年代には、サイバーライオンやデザインライオンといったカテゴリーの追加によって、カンヌライオンズの国際化が大きく進んだ。また、セミナーが増え、賞がずっと大きくなった。つまり、広告業界のクリエイティブ側の人間は誰もが姿を見せる必要があるものになった。カールトンは次第に、単なるバーではない、事情を知るものたちが集まる場所になっていった。

ジェレミー・ミラー氏(マッキャン[McCann]の最高コミュニケーション責任者):私の最初の年は1999年。当時のカンヌはクリエイティブが中心で、あとは制作と報道だった。クライアントはいなかったし、メディアエージェンシーもいなかった。

ガーフィールド氏:非招待のデフォルトのたまり場がカンヌには3カ所ある。そのなかで、カールトンのテラスはいちばん寛大だ。まず席に着く。すると7割がた、ビール5杯と皿に入ったチップスで1200ユーロの伝票を誰かが払ってくれる。それに、アメリカ人でいっぱいだ。

マイケル・カッサン氏(メディアリンク[MediaLink]のCEO):カールトンのテラスにはじめて行ったのは20年前。いまと同じ魅力を放っていた。業界のもっともクリエイティブな人たちが集まっていて、私はそこで出会った精力的な議論にすぐに引き込まれた。これに触発され、私は毎年カンヌに通うようになった。

ミラー氏:基本的にパスによる区分はなかった。だからみんなどこでも好きなところにいた。アメリカ人は大半がカールトン。多くの欧州人はマジェスティックかマルチネスにいた。

シュワルツ氏:朝食のためにカールトンに行けば誰かしらに会うだろう。番組を審査する人も、カールトンの朝食で審査員たちに会える。午後1時半から3時まではランチも可能。このときは静かで、ひとりになれる。午後5時になると、ヘッドハンターたちが集まってくる。

ミラー氏:当時、カールトンは夜にちょっと立ち寄る場所だった。夜通しそこで過ごすということはなかった。

ガーフィールド氏:最初のころはアメリカ人でいっぱいだった。立席だけではなかった。ウェイターたちが歩いて回る余地があった。

ミラー氏:ガターバーはみんなが羽目を外す場所だった。

ガーフィールド氏:私の場合、1年のうち51週間は、できるだけ広告の人たちと距離を取っていた。そして年に1週間、広告の人たちと接したが、その大半はカールトンのテラスだった。彼らの軽蔑、不安、おべっかが一緒くたになった、私にとっては現実離れした体験だった。

ミラー氏:それに単純化すると、マジェスティックは眠気をもよおし、マジェスティックはテラスがなかったということになると思う。

シュワルツ氏:カールトンでディナーを食べるという人を私は知らない。でも、夜の10時48分になると、最初のうるさ型が到着する。人はとにかく増え続け、閉店の午前2時頃には、ほぼ全員が通りに立っている。

ガーフィールド氏:一度、カールトンでディナーを食べた。おいしかったよ。

カンヌのピーク?



カンヌのいつがピークだったのかははっきりしない。レッドカーペットでセックスしたカップルが捕まったころだったのかもしれない。とにかく、2005年以降、カンヌはクリエイティブだけのものではなくなった。テクノロジー大手がやってきて、大量の現金と威信を持ち込み、すごいごちそうやパーティーを投入した。クリエイティブたちもいたが、クリエイティブの上司も来るようになった。

スーザン・クレドル氏(FCBのグローバル最高クリエイティブ責任者):最初のカンヌの私は冴えなかった。2006年のこと。日曜から日曜までの滞在だった。米ヤフー(Yahoo!)のディナーに行ったが、知ってる人は誰もいなかった。結局、リック(ボイコ氏)に偶然会って、彼と奥さんのバーバラと一緒に向かった。彼がカールトンに連れて行ってくれた。

シュワルツ氏:いまは肩と肩、お尻とお尻、胸と胸が触れるようなものになっている。つまり、誰もお金を払わないでいいのだ。もしかすると(WPPの元CEOの)マーティン・ソレル氏が払っているのではないかと、ずっと思っていた。

クレドル氏:会社をはじめるまで、部屋代を除くと、カンヌでお金を出したことはなかったと思う。

ガーフィールド氏:あるとき、ディナーのテーブルに男が殴りにやってきた。ぐてんぐてんに酔っていたので、あたらなかった。きちんと見て、手を動かすことができなかったのだ。理由は、私が彼のペプシのコマーシャルを星3.5個と評価したからだった。

シュワルツ氏:私は飲まない。だから偏りなく見えている。私はテラスでの出来事を目撃してきた。その私から見て、ほとんどの場合、ほかの同業者と会って、みんな本当に幸せそうにしている。仲間意識のすばらしい瞬間だ。

クレドル氏:カールトンがああなのはアメリカ人がカンヌに行くようになって、東海岸の時間で1週間を過ごすからだと思う。だから、みんな目が覚めているのだ。

ミラー氏:私の最悪の年。クリエイティブたちにびびらされ、部屋番号を言われ、彼らが飲んだ何千ユーロもの代金を払わされた。

クレドル氏:カンヌにいるとカールトンが人を引きつけるのかもしれない。「入り道は人と会わないで通らないといけない。とにかく部屋まで行かなければいけない」と考えるのだ。

カッサン氏:カールトンのテラスは、単なる場所ではなく状況なのだ。シニアマーケター、エージェンシーのトップ、メディアの大物、コンテンツクリエイター、テクノロジーの開拓者など、世界中から集まった幅広い人たちに、手が届く距離で1カ所で会えることはめったにない。テーブルにはロゼのボトルとグラスが並ぶだろうが、それが単なる小道具なのか本物なのかは、遠くからではわからない。

ボイコ氏:いまでは身動きできない、飲むことができないというバカげたところまできている。そこにいるという振りをするのにも、ウェイターに大金を渡す必要がある。

ガーフィールド氏:いつも酔っていたから、あそこで起きていたことを正確に描写するのは難しいね。

クレドル氏:携帯電話を出さない、投稿しないというルールが理解されている。作法はあって、テラスで起きることはテラスにとどめる。

Shareen Pathak (原文 / 訳:ガリレオ)
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