ワニの涙とは? 中世の旅行記が生んだ英語イディオム

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 英語には「crocodile tears」というイディオムがある。直訳すれば「ワニの涙」だが、「見せかけの涙」「偽りの同情」を意味する表現で、日本語の「嘘泣き」や「空涙」に近い表現と言えるだろう。

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 今回は、なぜこのようなイディオムが生まれたのか、その語源を掘り下げてみたい。

■獲物を食べながら涙を流すワニ

 このイディオムは、「ワニは獲物を食べながら涙を流す」という古い俗信に由来する。

 この俗信が英語圏に広まるきっかけとなったのが、14世紀後半に成立した『東方旅行記(マンデヴィル旅行記)』という書物である。

 著者のジョン・マンデヴィルは、世界中を旅して驚異の数々を記録したとされるイングランドの騎士だ。ただし、おそらく著者自身は旅をしておらず、さまざまな旅行記や伝説に自身の想像力を組み合わせてこの旅行記を執筆したと考えられている。

 とはいえ、当時はヨーロッパ内外で大人気を博した旅行記であり、そのなかに、ワニについての記述がある。

 Theise serpentes slen men & thei eten hem wepynge. (これらの蛇(=ワニ)は人を殺し、泣きながら食べる)

 この一文が、英語圏において「ワニは泣きながら獲物を食べる」という俗信を広めるきっかけとなった。

■記録上の「crocodile tears」

 ただ、「crocodile tears」という表現が初めて記録されるのは、1563年まで時代を下る。のちのカンタベリー大主教、エドマンド・グリンダルが、破門された人物について「彼の涙はワニの涙だ」と述べた書簡がその初出とされる。

 また、直接このフレーズを使用したわけではないが、シェイクスピアもこのフレーズを念頭に置いたと考えられる表現を複数の作品に残している。最も有名なのは、『オセロー』第4幕における次の台詞だ。

 If that the earth could teem with woman's tears, Each drop she falls would prove a crocodile. (もし大地が女の涙で満たされるなら、その一滴一滴がワニとなるだろう)

 妻デズデモーナの涙を偽りだと断じる場面で、オセローはこのように語る。

 このほか、『ヘンリー六世』や『アントニーとクレオパトラ』でもワニの涙という概念が用いられている。こうした引用も、「crocodile tears」を英語に深く根付かせたことは間違いない。

■ワニは本当に涙を流す

 ワニが泣くというのは俗信だが、涙を流すこと自体は事実だ。

 ワニには涙腺があり、眼球の潤滑や塩分の排出のために涙を分泌する。2006年にはフロリダ大学の研究者らが、ワニの近縁種が摂食中に実際に涙を流すことを実験で確認している。

 したがって、「ワニは獲物を食べながら涙を流す」という俗説は完全な誤りではなかった。ただし、その涙に感情は伴っていない。人間のように、悲しいから泣くわけではないのだ。

 ともかく、「crocodile tears」が現在まで生き残っているのは、その比喩のイメージがあまりにも鮮烈だからだろう。偽善を表す言葉として、これ以上視覚的に強烈な表現はなかなか見当たらない。

 例文 The CEO shed crocodile tears over the layoffs, but everyone knew he had pushed for the cuts himself. (CEOはレイオフについて空涙を流したが、削減を推進したのが彼自身であることは誰もが知っていた)