【豊臣兄弟!】NHK大河が絶対に描かない秀吉の身体的特徴 信長が呼んだ「六ツめ」
「サル」よりむしろ「ハゲネズミ」?
秀吉を描いた映画やドラマの例に漏れず、今年のNHK大河「豊臣兄弟!」でも、木下藤吉郎秀吉(池松壮亮)は底抜けに明るい人たらしで、周囲の人の心をあっという間につかみながら、猛烈な勢いで出世していく。私生活も順風満帆で、第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)では「お寧々殿、わしと夫婦になってくだされ!」とプロポーズ。第7回「決死の築城作戦」(2月22日放送)では、念願かなって侍大将に出世したうえで、晴れて寧々(浜辺美波)と祝言を挙げた。
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また、信長やその重臣たちから「サル」と呼ばれ、とくに信長の前では、「このサルめにおまかせください!」などと、秀吉みずから自分を「サル」と呼ぶ。周囲はネガティブな意味を込めて「サル」と呼んでいるかもしれないのに、あえて自分を卑下するかのように、みずから明るく「サル」と名乗り、相手の懐に飛び込んでいく。なんとも巧みな「人たらし」である。

もっとも、秀吉が本当に「サル」と呼ばれていたのかどうかは、実のところわかっていない。慶長2年(1597)、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の際、捕らえられて日本に連行された朝鮮王朝の官僚、姜𦫿が日本の内情を秘密裏に記した『看羊録』には、「容貌が醜く、身体は短小で、様子が猿のようだった」と記されている。しかし、これは晩年の秀吉についての記述である。
『太閤素性記』には「幼名猿改テ藤吉郎」と、幼名そのものが「猿」だった旨が書かれている。しかし、この史料は寛永2年(1625)から延宝4年(1676)、すなわち秀吉が死んでから四半世紀から半世紀程度経ってから聞き書きされたもの。秀吉の幼少時を詳しく知るほとんど唯一の史料とはいえ、すべての内容をそのまま信じるわけにはいかない。
一方、織田信長が秀吉のことを「ハゲネズミ」と呼んだ史料ならある。その記述は、天正6年(1578)ごろ、秀吉があまりに多くの女性と関係を持つことで信長に泣きついた妻の寧々に、信長が送った手紙のなかに見られる。そこには寧々を励ますために、あなたほどの女性は、あのハゲネズミには二度と見つけられない、という旨が記されている。
だが、史料にみられる秀吉の身体的特徴には、これまで大河ドラマ等では一切、描かれなかったものがある。
信長が「六ツめ」と呼んだ理由
イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』には、第十六章に秀吉の容貌について次の記述がある。「彼は身長が低く、醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出しており、シナ人のように髭が少なかった」(松田毅一、川崎桃太訳)。もちろん、一番気になるのは、「片手には六本の指があった」という描写である。
フロイスの記述に対しては、秀吉がキリスト教に対して途中から厳しく臨むようになったため、私怨が含まれていて信用できないとする歴史家が少なくない。筆者は逆に、日本の為政者に忖度する必要がない人物の記述だから、むしろ信用できると考えている。だが、宣教師だけが記しているなら、「デマだ」と批判する歴史家が出てきても、反論する材料が乏しいが、これについては日本側の史料でも確認できる。
加賀100万石の祖で、秀吉の晩年には五大老の一角に指名された前田利家の回想や逸話をまとめた『国祖遺言』という史料がある(『加賀藩史料』所収)。そこには「太閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候(太閤殿下は右手の親指が1本多く6本ありました)」と記されている。
また、『国祖遺言』には続けて、次のようなことも書かれている。太閤殿下ほどの人ならば、若いときに6本目の指を切っておいてもよかったのに、それをしていなかったので、信長公は太閤殿下のことを「六ツめ」と呼んでいた。秀吉は「指が6本あろうが、天下を獲るうえで関係ない」と語り、その身体的特徴をむしろ積極的に受け入れ、天下を獲るという強い意欲を示した――。
これだけではない。前述の朝鮮の官僚だった姜𦫿による『看羊録』にも、「秀吉が生まれたとき右手には6本の指があった」という旨が書かれている。ただし、「6本目は必要がないので、成長してから刀で切り落とした」ともある。その点がフロイスや利家の記録と異なり、6本目を切り落としたのか、そのままにしていたのかは決着がつかない。ただし、秀吉の手を間近で見る機会が多かったフロイスと利家が、6本目の指について、まさに見てきたように記している以上、切り落としていなかったと考えるほうが合理的ではないだろうか。
いずれにせよ、これだけ複数の史料で確認できる以上、秀吉に6本目の指があったのはまちがいないと思って差し支えないだろう。
1000人から2000人に1例は発生
正常よりも指の数が多い状態を多指症と呼ぶ。つまり秀吉は多指症だったと考えられるわけだが、これは必ずしも珍しい症状ではないようだ。体がつくられるとき、手のひらのもとになる組織に裂け目が生じることで、6本目の独立した指が形成されるのだという。原因は不明だそうだが、出生数1000から2000に1例程度は発生するというから、稀なケースとはいえない。
手に発生する場合は親指、足に発生する場合は小指の場合が9割を占めるという。秀吉もその例に漏れず、親指が2本あった。3対2の割合で男性に多く発生するという。程度が軽いものでは、骨を含まない突起もあるが、骨や関節で共用される部分が多い場合もあって、そういう部分が多いほど重症だという。
いずれにせよ、現代においては、1歳前後で手術することが大半であるようだ。程度によるようだが、単に6本目の指を切除するだけではなく、正常な指に近い状態にするための再建手術が行われるという。
ただ、戦国時代でも多指症の場合は、幼時のうちに6本目の指を切り落とすことが多かったようだ。だから、利家は「上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事に候(太閤殿下ほどのお方なら、お若い時分に6つ目の指をお切りになってもいいのに、そうはされなかった)」と書いている。だが、逆にいうと、「太閤殿下ほどのお方」でなければ、6本目の指をそのまま残しておくケースも、それなりにあったということかもしれない。
ましてや農民出身の秀吉だから、切り落とす機会を逸したということも考えられるだろう。しかし、それでも堂々と「天下を獲るうえで関係ない」といって、その身体的特徴を積極的に受け入れ、「六ツめ」という呼び名も甘んじて受け入れていたのなら、やはり秀吉はたいした人物だというほかないだろう。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
