@AUTOCAR

写真拡大 (全6枚)

グッドウッドの初レースで勝利したSS100

英国の自動車業界だけでなく、世界規模で大きな節目の1つになった1949年。その9月には、グレートブリテン島南部のグッドウッド・サーキットで初めてレースが競われ、10月には戦後初めてロンドン・モーターショーが開かれたのだ。

【画像】グッドウッド初レースで快勝 ジャガーSS100「パイクロフト」 同年代の英国車たち 全137枚

戦前の英国は、モータースポーツやモーターショーで、世界を牽引する立場にあった。2つのイベントの開催は、普段の日常が戻った象徴といえた。


ジャガーSS100「パイクロフト」(1946年/ワンオフモデル)    ジェームズ・マン(James Mann)

ウェストハンプネット空軍基地は自動車コースへ改修され、1万5000人といわれる観衆が集まった。その中の1戦で勝利したのが、ポール・パイクロフト氏が運転した、変わった見た目のジャガーSS100だった。

それから1か月後、SS100の後継モデルとして、ジャガーはXK120を発表している。久々のロンドン・モーターショーで。同ブランドの専門家は、公にならない結び付きが2台にはあるのではないかと考えてきた。パイクロフト本人も。

XK120のデザインへ影響を与えた?

その推測は、XK120のデザインは、彼のSS100を真似たものではないかというもの。しかし、一般的には1940年代のBMW 328の影響が大きいといわれている。発表の1年前には、XK120のプロトタイプが形になっていたことも、写真に残されている。

いずれにしても、パイクロフトのジャガーが生んだインパクトは小さくなかった。グッドウッドの記念すべき初レースで、チェッカーフラッグを受けたのだから。当時の自動車雑誌、モータースポーツ誌は、トップ記事で扱ったほど。


ジャガーSS100「パイクロフト」(1946年/ワンオフモデル)    ジェームズ・マン(James Mann)

1936年11月に2.5LエンジンのSS100を購入して以降、彼はレースへ積極的に挑んでいた。ライレー・インプを下取りへ出し、ロンドン・ピカデリーに拠点を置いたディーラー、ヘンリーズ社を通じて届けられていた。

SS100仲間へ手紙を送り、パイクロフトは情報を共有している。点火系のことや、スイス移住のため、スペアタイヤを2本組めるようアダプターを付けたことも。

トップギアのまま320km走らせて帰宅

1937年のスイスで開かれたヒルクライム・イベントで、パイクロフトは3位を獲得。翌年は英国でオーバーホールを受けるが、テスト中にエンジンが故障し、載せ替えられている。同時に、トランスミッションも新ユニットへ交換された。

作業が終わると、スイス北東のボーデン湖を目指したが、トップギアから抜けなくなったらしい。とはいえ、「山脈を越えつつ、トップギアのまま320km走らせて自宅へ戻りました。すごいクルマです」。と彼は書き残している。


ジャガーSS100「パイクロフト」(1946年/ワンオフモデル)    ジェームズ・マン(James Mann)

その修理後に腕利きのワークショップと出会い、ボディの改造が始まった。両サイドのランニングボードが切断され、前後のフェンダーは彼の希望通りに変更された。

完成すると、フランス・パリから南岸ニースを目指すラリーへ挑戦。続けて、隣町のラ・テュルビーで開かれたヒルクライムを戦い、ワークス仕様のSS100へ勝利している。

フェンダーラインが隆起した斬新フォルム

1939年にも同じラリーへ挑み、8位で完走するが、直後に第二次大戦が勃発。戦火をしのぎ終戦を迎えると、SS100のボディは一新される。「素晴らしい職人を見つけて、2シーターの理想像を形にしようと決めました」。と経緯が書き残されている。

ボディと一体化されつつ、フェンダーラインが隆起したフォルムは、当時としても目新しかった。時代を先取りする可能性を、彼は感じていたようだ。「通常は無駄になるフロントフェンダー内に、密閉した状態で荷物を積めるようにしてあります」


ジャガーSS100「パイクロフト」(1946年/ワンオフモデル)    ジェームズ・マン(James Mann)

ボディの製作は1946年6月に始まり、1か月後に完成。満タンで800km走れるよう、ガソリンタンクは5割増しに。シート直後へ移設することで、重量バランスも改善された。

1947年8月のアイルランド島で開かれた、アルスター・トロフィーでは優勝。9月のグレートブリテン島南岸、ブライトン・スピード・トライアルでは100.5km/hの最速記録を打ち立てている。

最速ラップを刻み勝利 F3マシンへ乗り換え

翌1948年、グッドウッド・サーキットの初レースへ出場を果たす。3000cc以下のクローズドスポーツという規定で、3周の短い競争だったが、2分6秒6の最速ラップを刻み勝利を飾った。2ピースのハードトップを用意し、規定へ合致させたようだ。

1949年にはイタリア北部、トレントでのレースを戦うが、1951年にパイクロフトはSS100を売却。エメリソン社製のF3マシンへ乗り換えている。「面白いクルマでしたが、大失敗でした」。ジャガーを手放したことを、彼は後に悔いている。


ジャガーSS100「パイクロフト」(1946年/ワンオフモデル)    ジェームズ・マン(James Mann)

SS100は数名のオーナーを経て、オランダ(ネザーランド)の元F1レーサー、ドリーズ・ファン・デル・ロフ氏が購入。1967年9月のオークションで、180ポンドで落札している。その息子、アレクサンダー氏が現在のオーナーだ。

執筆:グレアム・ハースト(Grame Hurst)

この続きは、ジャガーSS100「パイクロフト」(2)にて。