戦後80年 B29が飛び立った「原爆の島」は「玉砕の島」 テニアン島で暮らす日本人女性の平和への祈り
80年前、原爆を載せたB29が広島・長崎に向け飛び立ったのが、テニアン島です。「原爆の島」と呼ばれるテニアン島は、日本人1万5000人が亡くなった「玉砕の島」でもありました。戦後80年。今、この島で暮らすひとりの日本人女性を訪ねました。
テニアン島で暮らす日本人女性
マリアナブルーの海が広がるテニアン島は、北マリアナ諸島のひとつで、日本から飛行機で3時間半ほどのリゾート地・サイパン島の南西に位置します。かつて、この島にあったアメリカ軍機の発進基地から、80年前、原爆を搭載したB29が、広島・長崎に向けてこの島を飛び立ちました。
テニアン島で暮らす佳子・マングローニャさんです。テニアン出身の男性と結婚し、36年前に移り住みました。その後、テニアン高校で日本語教師を務め、2005年からの10年間は、生徒たちを連れて広島を訪問し、原爆資料館を見学しました。
■佳子・マングローニャさん
「自分たちの島から出ていったB29が、広島で原爆を落とした後どうなったか。自分たちの目で見て、初めてわかるんです。」
■佳子・マングローニャさん
「広島へ行った生徒たちだけが、自分の目で見て体感して。でも広島は今、近代的な街に、みんなの努力でなったんだ、自分の目で見て交流を楽しんで、帰ってきました。」
「原爆の島」から飛び立った指揮官・ポール・ティベッツ
80年前、原爆投下部隊の指揮をとったポール・ティベッツ。当時30歳の大佐でした。2004年6月、佳子さんはテニアン島で開かれた戦闘開始60周年の記念式典で、ティベッツに会ったといいます。
■佳子・マングローニャさん
「(原爆を)落としたら、5秒以内にその場所から立ち去れという命令を受けたということが、強く(記憶に)残っています。自分が巻き込まれるので。そのあとの話を、淡々としていました。」
式典には、長崎の被爆者も出席していました。
■佳子・マングローニャさん
「長崎のおじいさん(被爆者)が、前の方に座っていた。怒りでどうしようもない感じでした。頭の中では「この野郎、この野郎、この野郎、この野郎」と考えながら聞いていたと。」
■ポール・ティベッツ氏(2000年)
「確かに我々は、何人かの命を奪った。何人か私は知らない。しかし、理由があった。原爆投下で、日本側、そして皆の命を救ったんだ。我々は、200~300万人の命を救ったんだ。」
「玉砕の島」で起こった悲劇…
テニアン島では、毎年8月6日、黙とうが捧げられているといいます。そして、テニアン島に残るもうひとつの「戦争の歴史」。「魂」と書かれた慰霊碑の前に、佳子さんの姿がありました。
1944年、アメリカ軍の攻撃が始まります。テニアン島は、日本本土を空襲するための重要拠点でした。当時、テニアン島には、多くの日本人移民が暮らしていましたが、この戦いに巻き込まれ、民間人・軍人あわせておよそ1万5000人が亡くなりました。
テニアン島の南部にある、カロリナス台地です。アメリカ軍に追い詰められ、多くの日本人が亡くなった場所です。
テニアン島では、1952年から日本人の遺骨調査が行われ、佳子さんも参加してきました。
■佳子・マングローニャさん
「『魂のほこら』と私たちは呼んでいるんですけど。私たちがつくりました。このほこらは、他の慰霊碑とどこがちがうかと言うと、『ご遺体』と呼ぶんですよ。まだここで見つかった人たちの『遺骨』と呼ばないですね。火葬していないので。」
■佳子・マングローニャさん
「ジャングルで見つかった遺骨とか、それからいろんなものなんかは、こっちの裏に。私たち、つくるときにリクエストがありまして。普通の慰霊碑じゃなくて、中を空洞にして、見つかったご遺体をここで保存して、しゃれこうべもありました。骨とか全部ここで保存して、厚生労働省の方が取りに来るまでここに保存して。これだけはお墓扱い。私のなかでは、お墓扱いしています。遺骨がここにありましたから。」
■佳子・マングローニャさん
「息子が「なんて言ってお参りすればいいの?」と聞くから、「今の平和をありがとうってお参りしなさい」って、子どもたちには教えてきました。「安らかに眠ってください」っていうのももちろんなんですが、「今の平和は、この人たちのおかげであるんだよ」と子どもたちには教えてきました。」
追い詰められた多くの民間人が、この崖から身投げしました。
■佳子・マングローニャさん
「意味もわからずに、ここから親が抱っこして、無理やり飛び込んだり。年寄りも飛び込んだりして。なんで死ななきゃならないのか、みんなわからないです。こんな、きれいな島なんだけど。」
戦後80年。南の島・テニアンから平和を祈り続けます。

