バンドのジャケ写に抜擢 オースティン・アトランティック・コンバーチブル 神秘的な流線型 後編
アルファ・ロメオ6C-2500に影響
強い印象を残すオースチンA90アトランティックのスタイリングは、1946年にピニンファリーナ社が仕上げたアルファ・ロメオ6C-2500に影響を受けたとされる。それを知ったファリーナは喜び、半年間もコンバーチブルを借りていたという。
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オースチンのマネージング・ディレクターを務めていた、ジョージ・ハリマン氏もオーナーだった。そのクルマは、新モデルのA30のスタイリングを手掛けるために渡英していた、デザイナーのホールデン・ボブ・コト氏へ売られた。

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
ボディを観察すると、フェンダーラインやテールライトに至るまで、当時の特徴的な要素が散りばめられていることがわかる。流線型のスタイリングをまとめたのは、社内デザイナーのディック・バージ氏だ。
神秘的な表情を作るフロント中央の3番目のヘッドライトは、その筆頭だろう。ホールデンが所属していた、工業デザインの父と呼ばれるレイモンド・ローウィ氏の事務所が、フォードやスチュードベーカーなどへ提案していたものに通じる。
北米市場を意識し、6C-2500にならって、コンバーチブルは多くのクロームメッキ・トリムで飾り立てられた。当時としては最先端の、電動油圧式パワーウインドウとソフトトップ・システムも採用された。英国の量産車としては初だった。
エンジンは、オーバーヘッド・バルブの2660cc直列4気筒。後に改良を受け、オースチン・ヒーレー100にも搭載されている。そのためA90アトランティックは、ヒーレー100の部品取りになることも多かった。7981台が生産されたが、残存数は少ない。
北米では期待ほどの人気を得られず
コンバーチブルは、1950年12月に3718台で生産が終了されたといわれる。1951年に、極少数が追加で組み立てられたという説もある。それと時期を重ねるように、1950年1月からクーペが生産された。
「コンバーチブルの価格は、オプションのパワーソフトトップ付きで952ポンドでした。1950年に824ポンドへ安くなっていますが、クーペの生産が1950年から始まったことで、効率化が進みコストが下がったのでしょう」

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
「北米価格は、4006ドルから2998ドルへ大幅に下がっています。これは為替レートによるもの。多売を考えた、苦肉の策ではありません」と説明するのは、現オーナーのデイビッド・ホワイリー氏だ。
A90アトランティックは、アメリカのインディアナポリス・スピードウェイで、1949年にスピード記録へ挑んでいる。当時のモータスポーツ誌は次のように報じている。
「インディアナポリスでオースチンA90が樹立した、ストックカーとしての記録には驚かされます。チャールズ・グッドエーカー氏とデニス・バックリー氏、アラン・ヘス氏という3名のドライバーが3時間連続で走り、過去を塗り替えました」
しかし、A90アトランティックは北米市場で期待するほどの人気を得られなかった。イングランド製として優れた品質は認められたが、販売台数は伸びなかった。その反面、オーストラリアでは強い支持を集めている。現在でも注目度は高い。
基本的に無傷でオリジナル状態を保っていた
英国のように四季の変化が大きい土地では、コンバーチブルは短命になりがち。70年も前のモデルとなると、フロアパンが抜けてしまうことも多い。輸出前提だったこともあり、状態の良いアトランティックはグレートブリテン島には殆ど残っていない。
FPN 717のナンバーで登録された今回のクルマは、1950年12月にラインオフした。ボディ番号は3688番。1951年5月にグレートブリテン島南部のイースト・サセックス州に住む男性が購入したという。

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
「2年後に西のハンプシャー州に住むオーナーのもとへ移り、1967年に155ポンドで中古車販売店から売りに出されています。その時点で、ボディはジャガー・ホワイトに塗られ、ビニール製のソフトトップに交換されたようです」とホワイリーが説明する。
「そこでの走行距離は5万9500km。1972年まではロンドンの男性が所有し、その後にデイブ・クロッパーさんが購入しています」
次のオーナーになった、ヴァーノン・コックス氏の倉庫から引きずり出された時点での走行距離は7万4000kmだった。基本的にボディ自体は無傷で、オリジナル状態が保たれていた。
ホワイトのペンキは浮き、グリーンのパイピングが施されたクリーム色の内装は崩れ、クロームメッキはくまなく錆びていた。高圧洗浄機でボディを洗い流すと一部が剥がれ、当初のメタリック・シーフォーム・グリーンが顕になったそうだ。
エンジンは始動しなかった。それでも、長期保管されたことで21世紀まで生き抜くことができたといえる。
8年間のレストアで蘇った新車時の姿
ホワイリーは新車時の姿に蘇らせるべく、レストアに着手。可能な限り自らの手で進めながら、8年間の持久戦を完遂させた。
自らの誇りをかけて、作業には一切手抜きをしなかった。電動油圧式のソフトトップには42個の油圧ジョイントが用いられていたが、その1つ1つに向き合った。

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
「将来のアトランティックのオーナーが、オースチンのロングブリッジ工場を旅立った時の姿を、正確に知ることができるようにしたいと考えました」。と話すホワイリーは、誇らしそうな表情を浮かべる。
仕事の水準が、オースチンとしてトップクラスの職人技とデザインを際立たせる。個性的だが、フラッグシップ・コンバーチブルらしい風格を漂わせる。
彼の献身的な努力の成果は、評価しきれないほど見事な域にある。インテリアのスイッチやステアリングホイールまで、専門家を唸らせる美しさ。部品の多くは、オーストラリアから取り寄せたそうだ。
仕上がりは、ペブルビーチ・コンクール・デレガンスへの出展にも相応しい。撮影の合間には、短時間ながら筆者も運転させてもらった。恐らく、70年前の質感を体験できたに違いない。
このA90アトランティックと、ザ・スターゲイザーズのドラマー、リッキー・ブラウン氏との再会は印象深いものになるだろう。偶然にもロックバンドは再結成し、取材時にはイタリアでツアーを実施していた。
タイミングが合えば、彼との再開も叶うはず。アルバム、「ウォッチ・ディス・スペイス」のジャケット写真のように、満面の笑みを浮かべることだろう。
