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戦車が実戦投入されて100年あまり。その誕生の背景には、銃火器の発達などで大規模になった塹壕戦があります。防御側が有利すぎたこの「塹壕戦」とはどのようなものなのか、日露戦争「203高地の戦い」などを見ていきます。

戦車誕生の背景に塹壕戦あり

 2016年7月、戦車はその誕生から100回目の誕生日を迎えました。「陸戦の王者」と呼ばれる戦車ですが、100年前、どのようにして生まれることになったのでしょうか。

 それは100年前に主流であった戦い方、「塹壕戦」の発展が大きく関わっていました。


塹壕を乗り越えようとするMk.I戦車。イギリス ボービントン戦車博物館の展示より(柘植優介撮影)。

 戦車誕生のきっかけとなった塹壕戦とは、古代より行われていた戦術のひとつではありましたが、19世紀の火薬や火器の発展と共に戦場で多用されるようになりました。その構造は想像以上に単純で、基本は戦場に人や兵器を隠すことができる穴を掘るだけです。その穴の中に入って敵の攻撃を防ぎ、穴の中から火器で攻撃を行うのです。

 これはとても単純な構造ですが、恐ろしく防御側に有利なものでした。防御側は隠れたまま迎撃できますが、攻撃側は塹壕に潜む防御側の兵士をなんとか引きずり出さなければ、攻撃が当たりません。

 この塹壕戦は1861年に起こったアメリカの南北戦争や、1853年にクリミア半島で起こったクリミア戦争などでも広く見られるものでしたが、我々の身近なところで大規模に展開され、大きく注目を集めたのが、1904(明治37)年に勃発した日露戦争でした。

塹壕陣地攻略の困難 日露戦争「203高地の戦い」とWW1西部戦線

 日露戦争における「203高地の戦い」は、中国北東部、遼東半島南端にある丘陵地で起こりました。ロシアの太平洋艦隊殲滅のため、艦隊の寄港地となっていた旅順港を落としたい日本海軍、その要請を受けて、旅順港が見渡せる203高地を絶対に手に入れたい日本陸軍と、死守したいロシア軍との戦いです。ロシア軍はこの丘陵に長大な塹壕をつくり、攻め上ってくる日本陸軍を迎え撃ちました。

 海軍からの要請もあり、どうしても203高地を手に入れたかった日本陸軍は、何度撃退されても増援を送り込み、攻め続けました。攻防戦は1週間も続き、双方に大きな被害を出した末に、日本軍が203高地を奪取しました。一説によると4か月におよんだ旅順攻囲戦全体で日本軍側戦死者は約1万5千人ですが、そのうち約5000人がこの1週間で戦死したといいます。

 そのような被害を出しながらもなんとか奪い取った203高地ですが、そのころすでに海軍の方も大局が決定していました。この日本陸軍を苦しめ、その攻略に時間と多くの人命をかけさせたものこそ「塹壕」でした。この塹壕をいかに攻略するか、これが、以降の地上戦の主題になっていきます。


第1次世界大戦の西部戦線、フランス北部エナン=シュル=コジュル付近にて。塹壕から遠くの爆発を眺めるイギリス兵(画像:帝国戦争博物館/IWM)。

 そしてその日露戦争から約10年後に始まったのが第1次世界大戦です。

 塹壕戦はその、ドイツと連合国とが激突した西部戦線で極まります。投げ込まれる手榴弾への対策のために塹壕をジグザグにしたり、木やコンクリートで補強したりと工夫を凝らしました。そして両陣営にらみ合ったまま、背後に回り込まれないように塹壕の両腕を伸ばし続け、気付けばイギリス海峡からスイスにまで両軍の塹壕が伸びているという事態に陥ります。

 また同時に、塹壕戦を攻略するための新兵器も多数開発されました。ここで生み出されたのがのちに「陸戦の王者」と呼ばれることになる戦車です。

 最初にその着想を得たのはイギリスでした。塹壕のなかから射撃されても跳ね返すことのできる装甲。小さな塹壕くらいなら乗り越えられる不整地機動力。敵の機関銃陣地を潰せるような攻撃力。これらを備えた「陸上を走る戦艦」を造ろうと考えたのです。

そして戦車の誕生へ…そのボロボロすぎるデビュー「ソンムの戦い」

 こうして生み出されたのが、世界初の戦車、「Mk.I(マークワン)」でした。

 Mk.I戦車は秘密裏に開発が進められ、戦場に送られました。戦車が「タンク」と呼ばれるようになった理由は諸説ありますが、このMk.Iを戦場に内密に運ぶため、周囲に「これはウォータータンクだ」と言って運んだという説もあります。


第1次世界大戦期の、塹壕内陣地の様子。衛生環境はお世辞にも良いものとは言えず、兵士を悩ませた。イギリス ボービントン戦車博物館の展示より(柘植優介撮影)。

 ともあれこの世界初の戦車は1916(大正5)年7月、2年も続いた塹壕戦の切り札としてフランス北部、ソンムの地で初陣を飾りました。しかしその初陣は、はっきり言ってボロボロでした。

 投入が予定され用意されたMk.I戦車は60両、しかし輸送中のトラブルや故障で実際に到着したのは49両。さらにそこでもトラブルが起き、前線へと到着したのはわずか18両。ようやく前進し敵塹壕へと迫るも、エンジントラブルや、砲弾によって穿たれた地面の小さな穴にはまるなどし、ほとんどが使い物にならないという体たらく。敵陣へと到達できたのは、たったの5両だけだったといいます。

 しかし、敵はこの見たことのない新兵器に大パニックになりました。第1次世界大戦を通し、戦場に戦車が登場したのはこのソンムの戦いを含めて数回だけですが、それでも長く伸びた塹壕の隅々まで、その巨大な新装備のうわさは広がり、恐怖を与えました。

 そのころフランスでも戦車は開発されていましたが、やがてドイツやアメリカ、日本など、このイギリスの新兵器のうわさを聞いた各国の軍部も、自国で戦車を開発しようと躍起になります。こうして、第2次世界大戦およびそれ以後も続く戦車開発戦争は幕を開けたのです。

 一方、各国で戦車が開発され始めると、それまでのような大規模な塹壕戦は火が消えたかのように、あっという間に縮小していきました。やがて、ドイツ軍の「電撃戦」やソ連軍が駆使した「パックフロント」、アメリカ軍の市街戦戦術である「槍機戦術」など、戦車を主軸に置いたさまざまな戦術が編み出されていくことになるのです。