痴漢や万引きを繰り返す人は、なぜ犯罪をやめられないのか。政治社会学者の堀内進之介氏は「両者には共通点がある。それは電車やスーパーなど『自身の役割から降りられる場所』で行為におよび、被害者の感情を都合のいいように解釈していることだ」と指摘する――。

※本稿は、堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/AleksandarNakic
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■「仕事を一週間頑張ったから痴漢してもいい」

依存症当事者は、一般に思われているような意志の弱い、だらしない人というよりも、むしろ、自分自身で問題を解決しようとする、その意味では意志の強い人である。松本俊彦は、それを自己治癒学説で説明していた。だが、これはなかなか理解されない。それは、「ダメ、絶対」「人間やめますか、覚せい剤やめますか」という、これまでなされてきた説明とは合わないからだ。

では、薬物のようなモノに対する依存ではなく、プロセスや関係性への依存の場合はどうだろうか。

「仕事を一週間頑張ったから痴漢してもいい」
「女性専用車両に乗っていない女性は痴漢をされたい人だ」

こんなことを言うのは、どんな人物か。性欲の強い脂ぎった男か、それとも欲求不満なオタク男性か。だが、それは、ネトウヨは冴えない若い男性だと決め付けるのと同様に、全く間違っている。『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス、2017)などの著者で、精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳によれば、件の人物はどこにでもいる「普通の男性」なのだという。彼らは痴漢時には、生理的な興奮状態(勃起)だったというわけでもない。

万引きの場合でも、「このお店でたくさん買い物をしているのだから、今日くらいは万引きをしても許される」、このように言う主婦がいるらしい。斉藤が、1600人を超える加害者の再発防止プログラムに関わってきた経験からすると、万引きを繰り返す人と、痴漢常習者とは似ているそうだ。どういうことだろうか。

■「役割から降りられる場所」で事件を起こす

痴漢を繰り返している人に多いのが、家庭内ではイクメンで家事の分担をしてくれる、職場では長時間労働をいとわない真面目な人たちが多いんです。で、唯一、匿名性の高い電車のなかだけが自分の優越感や支配欲を満たせる場所になっている。そこだけが、その人にとっての「役割から降りられる場所」なんです。透明人間になれるという秀逸な笑えない表現をした人もいました。
(中略)万引きをくり返す女性の場合は、家庭内では育児や家事に追われて、息継ぎもできないような毎日を送っている。そして、スーパーだけが彼女たちにとっての「役割から降りられる場所」「匿名でいられる場所」になっているんです。(斉藤章佳、前掲書)

「透明人間になれる」だとか、「役割から降りられる場所」「匿名でいられる場所」といった表現からは、彼や彼女たちは、周りからの期待に応える、善良で従順な自分に疲れているようにも思える。まるで、役割をやめて、本当の自分になれば、主体性を取り戻せるとでもいうように。

ドイツの哲学者ハンス・ブルーメンベルクは、「あるがままにいたくないという願望は、美的にのみ満たされる」と述べたことがある。しかし、いくら、そうした行為を繰り返しても、主体性を取り戻すことはできないだろう。なぜなら、そもそも、そんな本当の自分など存在しないのだから。

■被害者のことを気にする部分だけが抜け落ちている

痴漢や万引きは犯罪であっても病気ではない、と思う人もいるだろう。実は、当人たちもそのように考えているという。斉藤によると、痴漢常習者は、他の依存症患者と同様に、いけないことをやっていると思っているし、捕まったら会社や家族に迷惑が掛かると考えている。それどころか、有名タレントの名前が入った服を着ていれば、「これを着て捕まったら(タレントに)迷惑が掛かる」とすら考えるのだという。

にもかかわらず、彼らには被害者の感情だけが見えていない。被害者の感情を気に掛ける部分だけが、彼らの意識から抜け落ちているのだ。

むしろ、彼らは、被害者の感情を自分の都合のいいように解釈してしまう。時間をかけて習得された自己欺瞞、認知の歪みは、容易には修復できない。それは、性犯罪の再犯率が高いことからも分かる。たとえ、意識としては反省できても、学習によって身に付けた振る舞いは、簡単には変えられないのだ。だから、痴漢を犯罪としてただ罰するのではなく、やめ続けられるように手助けすること、つまり、「犯罪モデル」から「医療モデル」への変換が必要になる。

■彼、彼女たちは「あえて、分かった上でやっている」

しかし、「医療モデル」といっても、医者に任せれば、それでお仕舞いというわけにはいかない。

斉藤によれば、再犯防止プログラムの場で、「痴漢行為を手放すことで、あなたが失ったものは何ですか?」と質問したところ、「生きがい」と答えた受講者がいたという。また、痴漢常習者で、「自分の妻や娘が性犯罪被害にあったら?」という問いに、「相手の男を殺しに行く」と即答した人もいたという。さらに、痴漢ではなく性的暴行のケースでは、「僕は他の強姦犯と違う。思いやりを持って、必ずローションを使うから、相手を傷付けていない」と言う人もいたというのだ。

こうした認知の偏り、自己欺瞞は、認知バイアスが学習・訓練によって内面化された形だといえる。生まれながらの痴漢や万引きなどはいない。こう言ってよければ、彼や彼女たちは、「あえて、分かった上でやっている」、言い換えれば、自分自身を規律訓練してしまっているのだ。

■治療が可能な社会と理解を促す努力が必要だ

性犯罪は、被害者に落ち度があったかのように言われることが未だにある。「被害に遭ったときの服装は?」という問いは、あなたにもスキがあったのでは? という意味を含んでいる。痴漢の場合には、加害者の家族が、偏見にさらされる。痴漢をする以外は、親からすれば「いい子」、妻からすれば「良き夫」、子供には「良い父親」であれば、なおさらだ。

母親は、自分の育て方を悔やむだけでなく、夫からも「お前の育て方が悪かったのではないか」と言われ、妻は、義理の両親や実の両親からも「お前さえ我慢すれば」と言われ、それどころか、「夫に性的な満足を与えられなかったお前が悪い」とあからさまに言われるケースさえあるという。

このようなことは、「犯罪モデル」では解決できないし、また、単に幼少期のトラウマや性的な衝動性など、「医療モデル」で理解して済ませるべきことでもない。「医療モデル」には、医療、治療が可能な社会と医療への理解を促す努力が必要なのだ。ただ、「医療+社会」といっても、患者への投薬からGPSの取り付けまで、その解釈には、かなりの幅があるのだ。

■“共依存”はなぜ社会の病なのか

共依存症、共依存という言葉から、どういうイメージが浮かぶだろう。他人から認められたがっている、承認欲求の塊のような不全感のある人物だろうか? それとも、かつて流行したアダルト・チルドレンのような、面倒臭そうな自意識を持て余している感じだろうか?

社会学者のアンソニー・ギデンズは前述の『親密性の変容』の中で、

共依存者とは「自らの存在的不安を維持するために、自己の欲求を提起してくれる人を、一人ないし複数必要としている人間」であり、共依存関係とは「同じような類の衝動強迫性に活動が支配されている相手と、心理的に強く結びついている間柄」

と述べている。

先にも述べたが、このギデンズの定義には精神医学や心理学の専門家から、正確には違うのではないかという指摘がある。にもかかわらず、精神医療の言葉ではなく社会学者の言葉を引いているのは、個人の心の問題(医療)ではなく、私たちの社会の共通の問題として扱いたいからだ。

そもそも、共依存という考え方はアルコール依存の患者と、その協力者(伴侶や家族の場合が多い)について用いられたことから始まった。どうして、当人に著しく不利になると分かっている行為を助けてしまうのか? 協力者の行為や協力者自体も治療の対象ではないか? おそらく、この発想は、依存症の治療が難しいことから生まれたのであろう。

いまでは共依存をめぐる議論の多くは、医療の中だけで解決できる問題なのか、という疑問を伴っている。この疑問は、よく理解できる。

■あるべき社会や家族像についての価値判断が含まれやすい

思想哲学の分野では、ドゥルーズとガタリたちが、精神分析や心理学に対して、「いまある社会に適応する人間」を無条件に肯定してしまっていると批判したことがある。

眼鏡をかけるのは不道徳だとする社会を想像してみよう。改めるべきなのは、その社会の方であって、眼鏡なしでも耐えられるように人間を馴致(じゅんち)することは、何ら解決にならないことはいうまでもない。

同じことは共依存についてもいえる。共依存や共依存症については、それを分析し解釈する人間が持っている、あるべき社会や人間関係、家族像についての価値判断が含まれやすい。アルコール依存に限ったとしても、その背景には、貧困や社会不安、あるいは家父長制といった様々な要因があるにもかかわらず、共依存という言葉が広く知られるようになる中で、一面的に理解される傾向が強まったのではないか、という見方をする研究者もいる。

ここにいう一面的な理解には、共依存が、理想化された人間関係や家族像からの逸脱だと理解されるだけでなく、反対に、現在の人間関係や家族関係を解消する口実として、共依存が安易に持ち出されるということを含んでいる。

たとえば、ジョーアン=クレスタンとクラウディア・ベプコは、人間関係の中で、女性が背負ってきた役割を病理と見なして否定する、共依存という考え方そのものに異議を唱えている。

共依存は、元々「苦痛というものに名前を付け、その苦痛について言及するための試みを表す言葉であったにもかかわらず」「(共依存者を)病人として定義付けるための神話へと変質してしまった」というのだ。

■「女は男の性欲を受け入れて当然だ」という認知の歪み

その背景には、アメリカで「私はAC(アダルト・チルドレン)です」とか、「パートナーとの関係が共依存的なので見直したい」と言って、心理療法士のところに大勢のクライアントがやってきているという現実がある。

堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎新書)

ジョーアン=クレスタンたちは、一方が他方のパートナーに不満を抱いている関係を共依存として理解したがる背景には、自立を何よりも重視し、共依存を病理化する社会の側の問題があることを指摘したわけだ。

発達心理学者のキャロル・ギリガンは、個人から社会へと道徳対象が広がっていく(修身斉家治国平天下)同心円状モデルを男性原理として批判し、自己と他者が互いに関わり合う、相互依存(interdependence)から成り立つ関係を対置している。そして、そのような関係を築けるようになることを成熟と捉える発達モデルを提唱しているのだが、これは、フェミニズムの立場から、ジョーアン=クレスタンたちの批判をより根本的に行ったものだといえる。

斉藤章佳は次のように述べている。

私はたくさんの性犯罪者や性依存症者を見てきました。彼らに共通してるのは、やはり女性を下に見て、つまりモノ化して「女は男の性欲を受け入れて当然である」というような価値観を根っこに持っているということです。だからたとえば夫婦関係でもしばしば性暴力やDVは起こります。「結婚してるんだから自分の性欲に応じるのは当たり前だろう」と性的関係を強制する。そこに合意という考えや、相手を尊重するという思いがない。そうした男尊女卑の価値観が根底にあって、それが認知の歪みにつながっています。そして認知の歪みは問題行動をくり返すことで強化されていくのです。(斉藤章佳、前掲書)

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堀内 進之介(ほりうち・しんのすけ)
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。Screenless media Lab.所長。首都大学東京客員研究員ほか。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『善意という暴力』(幻冬舎新書)、『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。
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(政治社会学者 堀内 進之介)