自動車メーカーを救ったモデルたち 18選 前編
フォルクスワーゲン・ビートル(1948-2003)
ビートルはフォルクスワーゲンを救い、英国陸軍少将のイヴァン・ヒーストがビートルを救った。ビートルはナチス時代に開発され、VWの工場は戦後、英国の占領地に属していた。
ヒーストはこの工場の生産ラインを再整備して操業を再開し、英国陸軍にこの普通ならざるクルマ2万台を購入するよう説得した。このモデルはタイプ1と呼ばれ、空冷4気筒エンジンをリアに搭載したすべてのビートルの原型となった。

工場責任者だったハインリヒ・ノルトホフが販売網を整えるにつれて、ビートルの販売台数は徐々に増加した。そして1955年には100万台ものビートルが生産された。これで得られた利益が会社の基礎を築き、巨大なグローバル企業という今日の姿につながった。
ビートルは最終的にドイツ、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、さらにはマレーシアやナイジェリアでも生産され、生産台数は累計2億1500万台にも上った。
メルセデス・ベンツ300SL(1954-1963)
後世の記憶に残るクルマとしては、メルセデス300SLほど重要で、成功したクルマはないだろう。当時メルセデスの大型モデルは1930年代の設計に即したもので、小型モデルは実直ながら退屈だったため、300SLの開発には多くの熱意を必要とした。
レーシングカーの血筋を持ち、ガルウイングを備えた300SLはインジェクションエンジンを搭載し、最高速度は217km/hを誇った。あらゆる点でセンセーショナルなモデルで、メルセデスに対する印象を180度変えた存在だった。

1957年に1400台のガルウイングモデルが生産された後は、ロードスターモデルに引き継がれた。リアサスペンションの改良やシャシの剛性、乗降性の向上によってさらに魅力的なクルマとなり、非常に高価ながら1856台が販売された。
300SLの技術は主力モデルにも採用されるようになり、メルセデスはその後、技術と安全性で革新を続けるメーカーとなった。
フィアット500(1957-1975)
第二次世界大戦後、イタリアは再建に手こずっていた。第一の需要は安価な輸送手段で、当時はスクーターがその役目を負っていた。しかし、フィアット500が状況を一変させた。
夢を売るのではなく需要にうまくフィットしたクルマであり、4つのシートとキュートな外観を備えていた。18年間で350万台が売れたのも不思議ではない。

500は小型の499ccパラレルツインエンジンをリアに搭載していた。このため維持が簡単かつ安価で、市街地から郊外まで必要十分なパフォーマンスを発揮した。
500の人気がもたらした資金はそのままフィアットの原動力となり、今日の基礎を作った。
BMW 700(1959-1965)
今日のBMWを思うと、1950年代に破産の危機に陥っていたとは想像もつかない。当時はラグジュアリーカーを生産していたが、販売は不調だった。
この窮地を救ったのが700であり、以降主力となっていくモデルの形式を作り上げた。これは1シリーズなど、今日まで引き継がれている。

700はBMW初のモノコックボディを採用した革新的なモデルだった。当初はクーペとして登場したが、その後すぐにセダンが追加され、セダンだけで15万4557台を売り上げた。クーペやカブリオレは合わせて3万3500台が生産された。
BMWのバイク用697ccフラットツインをリアに搭載するという変わった構成だったが、700の人気は陰りを見せなかった。700の成功で資金を得たBMWは1960年代にスマートなセダンやクーペを相次いで発表し、今日のBMWが出来上がっていった。
ジャガーXJ6 S1(1968-1972)
ジャガーのスポーツカーはどれもセンセーショナルな存在だったが、初代XJ6こそがウィリアム・ライオンズの一番の傑作だろう。
快適性やハンドリング、洗練性で他社のラグジュアリーサルーンを圧倒しただけでなく、性能に見合わぬ価格の手頃さでも周囲を驚かせた。

XJ6の発売当初は財政難に陥ってはいなかったものの、ブリティッシュモーターホールディングスの傘下に入り、その後ブリティッシュレイヨンドの右往左往したマネージメントに苦しめられることとなる。
XJ6はジャガーの看板モデルとなり、1990年代のシリーズ3 XJ12までさまざまな派生車が生まれた。シリーズ1のXJ6は1972年の生産終了までに7万8218台が販売され、待望する世界中の顧客の元に渡っていった。
アルファ・ロメオ・アルファスッド(1972-1983)
スポーティな後輪駆動車がアルファの十八番で、1399ポンド(19万7000円)のアルファスッドは発売前から例外的なモデルと見なされていた。ハッチバックスタイルのボディに、フィアット製4気筒エンジンが前輪を駆動するパッケージは、2年後に発売されたフォルクスワーゲン・ゴルフと同様のものだ。
名前はイタリア南部(「スッド」)のナポリに新設された工場に由来している。革新的な設計だったが、製造品質やボディの錆に関して問題を抱えていた。

問題はあったが、すぐにアルファスッドは快活なエンジンを搭載した優れたハンドリングハッチとして評判を呼んだ。
イタリア国内ではアルファらしい走りと見なされたが、ほかの市場では慣れが必要だが、病みつきなるような独特のモデルだと感じられたようだ。それでも11年間で38万7734台が販売され、1980年代に向けてアルファの財政維持に貢献した。
ヴォグゾール・キャバリエ(1975-1981)
GMの英国法人は1970年代中盤に経営難に陥っていたが、キャバリエは当時のベストセラーカーだったフォード・コルティナに対抗する形で、英国GMを危機から救った。
「望むパワー、必須の経済性を手頃な価格で」という売り文句で登場したキャバリエは、サスペンションやシャシの大部分をオペル・マンタと共有し、優れたハンドリング性能を持っていた。エンジンはすべて4気筒で、倹約志向の1.3ℓから快活な2.0ℓまでバリエーション豊富だった。

英国では23万8980台が販売され、英国人の強い愛国心に訴えるべくイギリス・ルートンで生産された。
ヴォグゾールはこのモデルで、重要な法人利用での存在感を取り戻し、ベクトラに引き継がれるまで20年にわたってベストセラーのシリーズとなった。
ボルボ700シリーズ(1982-1992)
当時、ボルボは高い安全性や耐久性のイメージを維持していた。そのため740や760で高級セグメントに参入することで、簡単にメルセデスのワゴンに代わるような存在になることができた。
荷室は広大ながら、製造品質の低さから壊れやすく見えたが、意外なまでの走りの良さは大きなインパクトを与えた。

後輪駆動のシャシに快活なエンジンが組み合わされた結果、740や760は痛快で、ターボモデルなら0-96km/h加速は8.0秒と、かなりの速さを誇った。
生産が終了し900に引き継がれるまで、ボルボは120万台の700シリーズを生産した。ボルボは700で、豊富な資金だけでなく今日まで続く高級なイメージを手に入れたのだ。
ランドローバー・ディスカバリー(1989-1998)
ディスカバリーが発表される1989年までに、ランドローバーはオフローダーを販売するニッチな会社から、SUVを販売するメーカーへと徐々に変貌を遂げていた。
ランドローバーの初期モデルは、日本や米国のライバルから大きく水をあけられていたが、ディスカバリーはシンプルで優雅なデザインやジャスパー・コンランが手がけたキャビン、レンジローバー譲りのシャシで形勢を逆転した。

そしてディスカバリーが成功した最大の鍵は、日常生活でも使えるオフローダーを求める層に向けて設計されたことにある。最高グレードにはV8が搭載されたものの、4気筒ターボディーゼルならランニングコストを抑えることができる。
販売された初代ディスカバリーの大部分である39万2443台にこのエンジンが搭載されていたことも不思議ではない。5ドアであることも魅力のひとつだった。ディスカバリーはホンダ・クロスロードとして日本でも販売され、ローバー800の2.0ℓエンジンを搭載していた。
