スティック型の細長いハンバーグ、手羽中の焼き蒸し、塩味の中和に粉ミルク……YouTubeで紹介する“道場流”家庭料理は斬新かつ、絶品だ。「道場君の料理は日本料理じゃない」と言われても、笑い飛ばす。人気番組『料理の鉄人』で視聴者を驚かせた自由な発想は健在で、91歳の今なお、新しい料理のひらめきを生きがいにしていた―。

【写真】『銀座ろくさん亭』に来店された秩父宮妃殿下

新しい料理のひらめき

「おはようございます!」

 それまでザワついていた店内が、凛としたひと声で静まり返った。声の主は料理人の道場六三郎さん。続く、「今日は人数が多いね。部屋の温度はどう? みんな、寒くない?」の声で、今度は場がほぐれる。

 ここは、銀座6丁目にある『銀座ろくさん亭』。実は道場さん、「生きがいは新しい料理の発見」と語るだけあり、90歳目前でYouTubeチャンネル『鉄人の台所』を開設。今日はその撮影で動画7〜8本分を一気撮りするのだ。

 家庭料理のヒントを存分に詰め込んだ動画は、コロナ禍でおうち時間が増えた人々から支持され、いまや登録者数は13万人を超える。

 座る間もなく白衣に着替え、簡単に段取りの打ち合わせを済ませると、さっそく調理に取りかかる。最初の料理は、玄米をその場で精米して出たほかほかの糠を使った3色の糠焼きにぎり。

「古い糠は炒って糠床にするぐらいしかないけど、ひきたての糠は香りと甘みがあって、クセもないから料理にも使えるんだよ。これを使わない手はないよね」

 そう言うと、できたての糠を掌に落としてパクリ。

「美味しい。精米したてだと、米もイキイキしているよ」

 目を細める姿に食材への愛情が滲む。

「セロリ、にんじんなんかの皮も捨てずにから揚げにすれば、色もきれいだし味も濃いよ」

 軽快に話しながら、料理と料理の合間に、「この野菜を先に切っておこうか」などと一手先を考える。新キャベツとアサリの酒蒸し、野菜たっぷりのいわしのコロッケ、大根餃子……頭の中で常に3〜4種の料理の段取りを同時進行させるためだ。

 この日は、次女・照子さんの娘で、道場さんのマネージャーを務める孫のなつきさんが動画デビューを果たす日でもあった。しかし、なつきさんが手伝うまでもなく、道場さんがいつものクセでほとんどの下処理を済ませてしまう。

 それでも、大根のかつら剥きを教わりながら包丁の切れ味に感心するなつきさんに、道場さんが「これで切れるとか言っていたらダメだよ。そして、なっちゃんのかつら剥きはちょっと不安定なところがあるな」とダメ出しをするシーンもあった。

「今まで料理を教わったことはほとんどなかったのですが、息子がかぼちゃが好きだと言うとかぼちゃの煮物の作り方を教えてくれたりして。子どものころは、一緒に食事をすると焼き魚の骨とかも全部取ってくれる優しいじぃじでした」

 次に初夏にうれしいスペイン発の冷たいスープ・ガスパチョを作るという。

「4、5日前に思いついたんだけど、これは大発見。ガスパチョにオレンジを入れると美味しいんだよ。葛切りやエビの白玉を入れても美味しいし、カレー粉を入れてもアクセントがきいた味になる」

 たまたま家にオレンジがなかったので、今日はグレープフルーツを使うという。道場さんの辞書に、「和食だから〇〇は使わない」といった制限はない。もちろん基本は押さえつつ、「これを使ったらお客さんが喜びそう」と心が動けば柔軟に取り入れてゆく。

 その姿勢は若い時分から変わらない。伝統を重んじる和食界ではあまり使わないフォアグラやフカヒレを取り入れたり、チーズと味噌を合わせたりしてきた。

 「料理界の風雲児」「ケレンの道場」と呼ばれてきた料理人は、いかにして生まれたのだろうか。

山中温泉で知った商売の面白さ

 道場さんが石川県の山中温泉で生を享けたのは1931年のこと。両親が40歳のときにできた6人兄姉の末っ子で、上には2人の兄と3人の姉。6人兄姉の3番目の男子だから六三郎というわけだ。

「うちは茶道具の棗なんかに漆をつける家業でね。兄貴と2人で京都や大阪の取引先に商品を届けに行ったものです。終戦後は本当に食べるものがなくてね。それでも石川県はお米があったから、1升90円の米を棗に詰めて持って行けば、120円ぐらいで売れたのかな。兄貴は恥ずかしがっていたけど、僕は“お米を持ってきましたけどいりませんか?”“じゃあ、もらおうか”ってなもんでね。そうすると、汽車賃ぐらいは賄えたんです」

 15、16歳で商売の面白さに目覚めると、17歳のとき地元の鮮魚店で働き始めた。そこで初めて包丁を握り、仕出しを旅館に届ける際は時に皿洗いや盛りつけを手伝った。

 忙しい日々だったが、気持ちよく挨拶をするというので、周りから可愛がられた。

「あのころは街中に料理屋はなくて、ほとんど旅館でした。そこに納める仕出し料理や各家庭の祝い事の膳を拵えるのが主な仕事で、結構忙しかったんですよ。手取り足取り教えてもらえる時代じゃなかったから、鯛の串打ちやなんかは見て覚えてね。余った魚のアラを持って帰って、鰤大根にしたり、鯛の潮汁にしたり。うちの親父は食べることが好きで、喜んでくれることがとにかくうれしかった」

 両親は熱心な浄土真宗の信者。食事は家族みんなでいただき、その際に父親が親鸞聖人や蓮如の話をしてくれるのが常だった。また、兄弟同士が同じ職に就くと、取引先の取り合いなどで仲が悪くなるから、同じ道に進まないようにというのも父の教えだ。

「だから、いちばん上の兄が家業を継いで、2番目が建具屋になって、僕は料理人になった。だけど、魚屋で働き始めたころは特に料理人になろうとは思っていなかったんです。一方で、料理人なら今後食べるのに困らないだろうという思いもあって、そこに2、3年はいたかな」

 父の教えもあってか、家族仲のよさは第三者の目にもはっきり映った。現在『銀座ろくさん亭』で総料理長を務める田中由示さん(58)は語る。

「初めておやっさんと出会ったのは、『ろくさん亭』の面接のとき。今でも鮮明に覚えています。鋭い眼光というか、とにかく目に惹きつけられて、その場で“この人についていこう”と思いました。

 縁を結んでいただいて、山中温泉にあるホテルで働いていた時期があるのですが、おやっさんのご兄姉が本当によくしてくださって。特にお姉さん方は、おやっさんが子どものころの話なんかもしてくださって、可愛くて仕方がないというのがありありと見えるようでした。聞いていて、私も幸せでしたね」

 世間では1948年に発表された笠置シヅ子の『東京ブギウギ』が大ヒット。戦後の開放的な気分は、山中温泉にも伝わっていた。

 どうせ修業に出るなら、歌にもある東京にしようと軽く考えた道場少年だったが、当時、石川県出身の料理人が和食の修業をするといえば京都や大阪がほとんど。

「東京に出るのは大学に行くからなんてのがちょっといたぐらい。当時は汽車も常に満員だから切符を買うのもひと苦労でね。朝早く起きて、まだ寒いなかマントを羽織った母が、切符を買うため駅に並んでくれたんだよ。

 あの光景は、いまだに覚えてるね」

 1950年5月、道場さんは東京行きの汽車に乗った。

花の都・大東京でカルチャーショック

 道場さんの東京生活が始まった。東京全体が舟運の街だった時代だ。銀座8丁目の少し先、現在の首都高速の下を汐留川が流れ、その川を両国まで行く船がポンポンポンと音を立てて運航していた。もちろん、今のような高層ビルは影も形もない。その日々は、驚きの連続だった。

「まず驚いたのはガスがあること。山中では薪と炭の生活だったから、ボッと火がつくのにびっくりしてね。しかも、山中で魚といえば野締めしか入ってこなかったから、活けのフッコ(成長魚のスズキが35センチサイズのときの呼び名)がビビビッとはねるのを見て、またびっくり」

 最初の修業先は銀座『くろかべ』。当時、国民的人気を誇った雑誌『ロマンス』を出版していた会社の重役が開いた店だったこともあり、多くの文化人やスターが訪れた。

「『二十四の瞳』の高峰秀子はお母さんと一緒に来てたね。『ひめゆりの塔』の津島恵子に高峰三枝子、龍崎一郎、僕は高田稔って人に可愛がられて、靴や白い背広をもらったんだけど、向こうは身体が大きいからサイズが合わない。だから、靴に中敷きを入れて履いていたんだよ」

 上京してから独立するまでの10年間、道場さんは複数の店で修業を重ねている。そのうちのひとつが、現在の新神戸駅の近くにあったホテル。

 ある日、こんなことがあった。薔薇の入れ墨を入れた料理長が、「全員、同じ時間に調理場に入る」と言い出したのだ。その日は50人の宴会が入っていて、道場さんは3匹付けのアマゴ(鮭の仲間の淡水魚)を50人分串打ちする必要があった。早く調理場に入って準備をしたいと気持ちは急くのに、それが叶わない。

「どうしてそんなことを言うんだろうと思ったよ。どうも、“あいつを目立たせたくない”という嫉妬心だったみたいだね。ギリギリの時間に調理場に入って、だーっと鯛をおろして、焼き物を作って、串打ちをして、必死だった。

 制限内に料理を作ることは『料理の鉄人』のときにも鍛えられたけど、人間って追いつめられると何かひとつ抜け出すことができるんだね。いまだに調理場に入ると、キレイに、早くと思うのはそのときのことがあったから。今では、その料理長がいたから今の僕がいると思ってる。感謝だね」

大物政治家が愛した料理

 1956年1月、道場さんは、高級料亭が立ち並ぶ赤坂でもひときわ名のある『赤坂常盤屋』で働き始めた。当時の料理長は日本和食界の重鎮と呼ばれる人物。その後継として道場さんが選ばれたのは、28歳のときだった。

「道場くんに後継は務まらないだろうというのが大方の見方。だけど、絶対に務め上げてみせると思ってね。『常盤屋』には10年いたのかな」

『常盤屋』は出張の多い料亭だった。明治記念館、衆議院議員食堂、第二議員会館、電電公社の寮……。総理官邸へ出向く機会も多かった。海外の要人をもてなすため、氷の彫刻の周りに料理を置き、屋台を作って鯛の活き造りを飾る。いかに日本の文化を知ってもらうか、楽しんでもらうか知恵を絞った。

「だから、パーティー仕事はうまいもんだよ(笑)。鳩山一郎さんのところには、毎年正月になると大きな重箱をお届けしてね。からすみなんて10本ぐらい切り出して入れて。店によく来てくれたのは岸信介さん。慶應病院に入院されたときは弁当もよく届けた。

 歴代総理大臣の中には、ストリップ好きということで、髪を島田に結った着物姿の芸者衆を呼んでいたな。若い衆や詰めている記者連中が『俺も見たいなあ』なんて言っていたよ」

 第18回オリンピックの東京開催につながる第3回アジア大会が1958年に東京で行われた。明治記念館で打ち上げの宴席を担当した際は、天皇の料理番として知られる秋山徳蔵さんと出会った。『食味評論』を主宰した多田鉄之助さんや、料理評論家として独立する前の岸朝子さんと出会ったのも『常盤屋』にいたころだ。

「そういった方々20人ぐらいに来ていただく集まりがあってね。そのころの自分の献立を見ると、あんまりよくないなと思うのよ。俳句になぞらえて料理を作ったり、ひな祭りだからと包み筍を五人囃子に見立てたり。そのころはそれが日本料理だと思っていたんだけど、ごてごてしていて、今だったら絶対にやらないね」

 大人の社交場・赤坂で、多くの出会いを果たした道場さん。しかし、最も大きな出会いは、生涯の伴侶となった歌子さんとの出会いだろう。

「僕が入る前年から彼女は帳場を担当していたんだけど、仕事ができる人でね。頭もよくて、おしとやかだった。あのころの板前は寿司屋のツケだ、吉原だって付き合いがあるから、給料が入ったとしても右から左。彼女のところに行って、前借りを頼むうちに付き合いが始まって、出会った年の11月23日、勤労感謝の日に神田明神で結婚したの」

 ほどなくして、長女の敬子さん、次女の照子さんが生まれた。『常盤屋』に勤めている最中ではあったが、いつかは自分の店を持ちたいと考えていた道場さんは、駅前に1300室もある公団住宅が建ったのを機に、祖師ヶ谷大蔵に高級惣菜の店を出す。

「お店を構えるほどの力はまだないけれど、惣菜屋ならと思って、貯めていた200万円を店の保証金や冷蔵庫やなんやの什器に充ててね。だけど、ダメだった。ちょうどそのころ、冷蔵庫や洗濯機といった家電が出てきたわけよ。みんな月賦に追われておかずを買うところまで手が回らない。そのあたりの読みが甘かった。商売するには事前の調査が必要だと思い知ったね」

 丁寧に作った惣菜5品を木の弁当箱に入れ、警察署や消防署、病院に80円で届ける。ところが、届けた弁当箱を回収して、洗って、乾かして、惣菜を作ってもひとつあたりの儲けは30円にも満たない。利益は少なく、労力がかかるばかりであれば、先細りになっていくことは目に見えている。『常盤屋』を辞め、店をたたむ決意をした道場さんの手元に残ったのは、保証金の一部のみだった。

続く苦難にもめげず、銀座で奮闘

 それでも、道場さんがめげることはなかった。すぐに、下田のホテルと大きな座敷がある新宿のお好み焼き屋『歌舞伎』から声がかかったのだ。

「ちょうど夏にさしかかるころだったから、若い衆は海があるというので、“オヤジさん、下田に行きましょうよ”って言うんだけど、ちょっと考えて新宿に行くことにしてね」

 そこで2年働いた後、銀座の割烹『とんぼ』で働くことになった。客入りもよく、評判も上々。店側から、「道場さん、うちの重役になってくれよ」と声がかかった。

「重役って響きがよく聞こえてね。お客さんもたくさん入っていたから店の経営状況もよくわからないまま、コツコツ貯めて建てた自宅を担保に500万円を借りた。ところが、会社が1年後に不渡りを出して、それがパーになっちゃった。彼らも金がなくてそうなったわけだから、追いかけたって出ないものは出ないよね。僕が一番の債権者で、その次が珍味屋さんだったの」

 銀座の路上を走っていた都電が地下鉄にかわり、キャバレーが衰退してクラブにかわりつつあった時代。『とんぼ』の上階にあったキャバレーも立ちのきが決まった。そこで、2人の債権者は、その場所を借り、『新とんぼ』をオープンさせる。

「『とんぼ』を3年、『新とんぼ』を3年。華やかな時代でしたよ。大銀座祭って大きなパレードがあってね」

 『新とんぼ』も繁盛したが、船頭が2人いる店では、やがて考え方に違いが出てくる。2人の間に、どちらか一方が相手の持ち株を倍の値段で引き取ろうという話が持ち上がった。3日間、考えさせてくれと言った相手が出した答えは、「道場さんの株を買い取る」だった。

 現金を得ると、念願の『ろくさん亭』を銀座8丁目にオープン。40歳になった道場さんはますます精力的に働き、スタッフも「オヤジさん」と慕ってついてきた。しかし、次女の照子さん(61)から見た父親像は違ったようだ。

「私が小さいころから両親は商売をしていましたので、常に店のことを話していましたし、ケンカをすることもありました。母は言いたいことを言うほうでしたし、父はお酒を飲みすぎたり、女性関係も結構ありましたから、決して世間でいうような仲のいい夫婦ではなかったと思います。

 だけど、なんだかんだで母はいつも父のことを一番に考えていて、買い物をするときも父には特別いいものを買ってあげていました。父は父でお酒を飲んで帰ってきても、翌日は反省の気持ちを込めた俳句を母に渡したりして、憎めないところがあるんです」

初代「和の鉄人」誕生秘話

 大阪万博の翌年にあたる1971年、新店舗のオープンにあたり、道場さんが決めたことがある。それはお客さまが支払いやすい値段にするということ。オープン当初のコースの値段は5000円程度。それから1万2000円で20年ぐらいキープした。現在も夜のコースは同じ価格のままだという。

「最高級の懐石の店みたいなかしこまったのは僕の性格的にダメだし、かといって大衆食堂もできないだろうし、自分でも中クラスの店って言っています。僕がそれまでの和食になかった食材を使うというので、“道場君の料理は日本料理じゃないね”とバカにされたこともあるけど、店はいつも満席だったよ」

 1993年、62歳になった道場さんの名を一躍、全国に轟かせたテレビ番組『料理の鉄人』が始まった。

 企画の発案者であり、現在は道場さんの動画チャンネル『鉄人の台所』を手がけるプロデューサーの田中経一さんは、そのころの道場さんをこう語る。

「番組が始まる前、料理研究家の結城貢さんに企画がうまくいくと思うかどうかを聞きに行ったんです。そのときは、“和食とフレンチが戦って、どちらが美味しいかなんて言えるわけがない”と言われて、フジテレビさんも“大丈夫?”という空気でした。

 だけど、衣装合わせのタイミングで道場さんに、“フォアグラが出てきたらどうされます?”と聞いてみたら、“あんこうの肝に見立てて、肝ポンにするかな”とおっしゃって。当時の和食界にそんなことを言う人はいませんでしたから、“この人ならいける!”と思ったんです。道場さんがいなかったら、たぶん『料理の鉄人』という番組は成立しなかったと思います」

 日本料理にフュージョンを定着させた道場さんは、初代「和の鉄人」として圧倒的勝率を誇った。それだけでなく、有明で行われたワールドカップや香港決戦、最強鉄人決定戦などあらゆる対戦でタイトルを獲得していく。その勝因を、田中さんはこう見ている。

「『料理の鉄人』は、審査員がいて、その向こうに視聴者がいるわけですけど、道場さんはその人たちが何を期待しているかよくわかっていらっしゃる。美味しい料理を作れる方はたくさんいますけど、そこに予想外のアクセントをつけたり、意外な組み合わせであったりを果敢に狙っていく。それでいて、味が空中分解しないでピタッと決まるんですよね。なんていうのかな。食べる人の心理状態をよくわかっていらっしゃる。だからトップでい続けられるんでしょうし、人気もあるんでしょう。

 それに、道場さんって本当に威張らないんですよ。料理界に敵がいない珍しい人です」

日本一の料理人から日本一の夫へ

 『料理の鉄人』の出演で、道場さんの故郷・山中温泉も盛り上がった。義理の姪で、現在は店舗のスタッフとして働く美惠さん(64)が、当時の思い出を語ってくれた。

「私はオヤジさんの兄の廣太郎の息子の嫁にあたります。応援のために親戚がウチに集まる機会も多く、結果が出るまで本当にハラハラして、みんな固唾をのんで画面に見入っていました。廣太郎は喜び騒ぐタイプではありませんでしたが、やはり弟が勝つとうれしそうでしたね」

 このころになると、道場さん・歌子さん夫婦の間に流れる空気も穏やかになり、2人でよく食事や旅行に出かけた。熱海や箱根などの近場の温泉に、毎月のように出かけていた時期もある。

 しかし、歌子さんが次第に体調を崩し、認知症も始まった。自宅で療養中の歌子さんのため、明太子や塩昆布を入れて食べやすいようひと口サイズに握ったおむすびを作ると、ことのほか歌子さんは喜んだ。

「女房が病気になって、僕が家のことをやるようになって、やらなきゃいけないことの多さに驚いたね。こっちが仕事に行ってる間、女房が子どもの学校のこと、掃除洗濯、台所まわり、全部やってくれていたんだから。大変だよ。感謝だね。感謝っていうか、申し訳なさだよね」

 現在、道場さんと一緒に暮らしている照子さんは、その様子を間近で見ていた。

「日中は母を見てくれる人がいましたけど、夜は仕事から帰ってきた父が母を見ていたので大変だったと思います。だけど、父が思い出す母は私が思い出すような姉妹の世話を焼いたり、元気に店を回す姿ではなく、認知症になってからの母なんです。“ばぁばはここで躓いたんだよね”なんて細かいことも覚えていて、愛しくて、愛しくてたまらないという感じで。

 母が家を飛び出して徘徊したときも本当に動揺していて、そんな父を見たのは初めてでした。その後、母のために“日本一の料理人じゃなくて、日本一の夫になる”と宣言したんです」

 7年前に歌子さんが亡くなってからは、ひどく気落ちして、周りのみんなが心配するほど。その後、運転免許も返納し、大好きな車の運転もできなくなった。それでも前を向き始めたのは、こんな心境に至ったから。

「僕が家に帰ると、歌子がベッドから手を差し伸べて待ってくれていてね。うれしかったなあ。その光景を思い出すと、今でも涙が出る。

 だけど、死んだからって姿形が見えないだけで、今もそばにいると思うね。だからよくおしゃべりしています。“今日お客さまにもらった花だよ。きれいだね”って。心が通い合っていれば、永遠だなと思うわね」

新しい料理を生み出したい意欲

 現在は、先述の総料理長の田中さんをして、「おやじさんは今がいちばん、感性が鋭くなっているんじゃないですか」と言わしめるほど。根底にはやはり新しい料理を生み出したいという意欲がある。

「今まで山ウドといえば皮を剥いて使っていたけど、皮が美味しいんだね。そのままボンと油に放り込んで、切り出して。そこに、振り塩と焼いた昆布、味を中和するのに粉ミルクをちょっと入れたものを振りかけると美味しいよ。料理は、ごてごて難しく考えないほうがいいね」

 動画の視聴者が普段どんな料理を食べているかを知るため、スーパーの惣菜コーナーのチェックも怠らない。自分ははたしてこの値段で出すことができるだろうかと、学ぶことしきりなのだという。

「この年になっても覚えることがたくさんあるというのがこの世の楽しいところ。それに、何はこうだなんて思い込みは捨てたほうがいいね。あると世界が狭くなるだけだから。それは料理だけではなく、ね」

 そんな道場さんに、今興味がある食材や挑戦したい料理はあるのか聞いてみた。

「この季節は山菜だね。何にしても、今僕の目の前に食材が現れてこないと。それで、何かが現れたら、僕は僕なりに、五味五法(食材や調味料と調理法の組み合わせのこと)で立ち向かうんじゃないかな」

〈取材・文/山脇麻生〉

 やまわき・まお ライター、編集者。漫画誌編集長を経て'01年よりフリー。『朝日新聞』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆。