ケヴィン・ケリー、アンチテクノロジーから『テクニウム』への旅路

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US版『WIRED』初代編集長、ケヴィン・ケリーは、青年時代の旅を通してそのテクノロジーへの視点を定めた。昨年邦訳が刊行された“テクノロジー・種の起源”ともいえる自著『テクニウム』が生まれた背景を、訳者でもある服部桂に語った。(『テクニウム』を超えて──ケヴィン・ケリーの語るカウンターカルチャーから人工知能まで〈インプレスR&D〉より)

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ケヴィン・ケリー|KEVIN KELLY
著述家・編集者。1984年から90年まで『ホール・アース・レヴュー』の発行・編集を行う。93年には雑誌『WIRED』を共同で設立。以後、99年まで編集長を務める。現在は、毎月50万人のユニークヴィジターをもつウェブサイトCool Toolsを運営。2014年6月に『テクニウム──テクノロジーはどこへ向かうのか?』〈みすず書房〉を刊行。WIRED.jpでは、本書のレヴューとして嶋浩一郎(博報堂ケトル)齋藤精一(ライゾマティクス)からの寄稿文を掲載している。

服部桂|KATSURA HATTORI
1978年に朝日新聞社に入社。84年から86年までAT&Tとの通信ヴェンチャー(日本ENS)に出向。87年から89年までMITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経てジャーナリスト学校シニア研究員。著書に『人工現実感の世界』〈工業調査会〉『人工生命の世界』〈オーム社〉『メディアの予言者』〈廣済堂出版〉。訳書に『デジタル・マクルーハン』『パソコン創世「第3の神話」』『ヴィクトリア朝時代のインターネット』『謎のチェス指し人形「ターク」』『チューリング 情報時代のパイオニア』〈以上、NTT出版〉『テクニウム』〈みすず書房〉など多数。

服部桂(以下HK) パソコンやインターネットが一般化したここ数十年、テクノロジーという言葉は、われわれの生活により大きな影響を与えていると思います。それ以前にテクノロジーは、世間では何か専門家の扱う特殊な領域のように考えられていましたが、いまではスマートフォンやネットのサーヴィスを介して、一般の人のライフスタイルの一部にさえなっています。ケリーさんはわたしと同じ年代ですが、もともとテクノロジーをどう見ていましたか?

ケヴィン・ケリー(以下KK) そもそも『テクニウム』を書くきっかけになったのは、わたしの人生をずっと悩ませてきた、ある種の困惑がきっかけでした。

わたしは1952年生まれの戦後すぐの世代ですが、例にもれず若い思春期のころはヒッピーのような生活をしていました。大学を中退して、ベトナム戦争からも距離を置き、写真家のコミューンで暮らしていました。そこではいろいろなものを共有し寝食もともにする共同生活を送り、つまり世間でいわれるカウンターカルチャー的な生き方を実地に経験していたのです。

カウンターカルチャーは、戦前生まれのわれわれの両親の世代がもつ重厚長大な工業社会の文化に対抗して起きたもので、そこではテクノロジーは避けるべきもので、距離を置き最小限のものしかもたず使わないという、シンプルなライフスタイルが主流でしたね。

HK われわれが青春時代を過ごした60年代は、ベトナム戦争が拡大し、アポロ計画で月に行こうと宇宙開発が進み、一方でロックの流行などの新しい若者文化が生まれ、戦後の復興によって景気が良くもなっていました。アメリカの当時の風潮として、戦争のために大型のコンピューターが使われていたため、学生運動がテクノロジー関係者を標的にしていたとも伝えられていますが。

KK 当時は大学に行かないと自動的に徴兵される時代でした。わたしの世代は高校を卒業するころに、抽選方式で徴兵の候補が選択されていました。幸いにもわたしはそれから漏れていましたが、戦争はわたしの世代に大きな影を落としていました。

確かにテクノロジーは戦争が必要とする兵器をつくるために使われ、反対運動も起きましたが、それらが同一視されていたわけではなく、戦争自体はテクノロジーが意味するものを示す何かの兆候だったと思います。当時の感覚としては、テクノロジーを生み出す工業社会と大会社が存在していて、それらが共犯関係のように結び付いて巨大な組織ができ、それは非常に官僚的な動きをするシステムを形成している抑圧的なものに見えました。そしてそこからテクノロジーによって生み出されるものは、固くて冷たくて、個人の生き方とは相いれないものだと思えました。

ところが高校生活の終わりごろに、スチュアート・ブランドが68年に創刊した『ホール・アース・カタログ』という雑誌に出合いました。このカタログは、抑圧的な大きなものに対して象徴的な主張をしている初の出版物で、こうした大きなシステムの外にあって大組織のためではない、個人が使えて何かを実現することのできる(エルンスト・シューマッハなどが提唱した)「適正なテクノロジー」(appropriate technology)ともいうべき道具やメディアを紹介していたのです。

ともかくわたしの育った環境では、基本的にテクノロジーは反抗して避けるべきものでしたが、それに適切で良い面があるということを発見して、一体どういうことなのかと戸惑いました。カタログには家をつくったり自然エネルギーを利用したりするための、当時のハイテクともいうべきさまざまな道具がいくつも紹介されており、ヒッピー的な生き方にぴったり当てはまる本で、こうした道具を使うことで自分でも何かができるという実感を初めてもったことを記憶しています。

インドのラージャスターンにて、1975年頃。

HK それ以前の時期には、テクノロジーというものに興味はなかったのですか?

KK 父親は気象学の研究者で、天気予報のために初期のコンピューターを使う経験もしていました。その影響があったのかどうかはわかりませんが、高校時代は数学や科学が好きで、すべての科目を取りました。成績が良かったわけではなく、宿題もきちんとこなしていない出来の悪い生徒でしたが、いつも教室の一番前の席に座って、ずっと質問をし続けていました。

それに小さいころからアートも好きでした。しょっちゅう絵を描いたり工作したりしていて、格好はいいけど役に立たないものをいろいろつくっていました。自家の地下に自分専用の“自然博物館”を開設して、鳥の羽がどう動いているのか、ダークライトの塗料は紫外線でなぜ光るのか、などを解説した展示をつくったり、化学実験をする場所も用意したりして、いろいろな化合物をつくって遊んでいました。

そこで将来はマサチューセッツ工科大学(MIT)に行って科学者になるのか、それともアーティストになるのかと迷っていたんです。当時は写真がブームになりつつあり、一眼レフカメラが市場に出回り始めていました。ちょうど、父の友人が日本からペンタックスの一眼レフカメラを買ってきてくれたので、写真を撮るようになりました。

写真というのは現像するのに化学の知識も必要だし、光学などの科学の素養とアート的な感性の両方を必要とする自分にぴったりな分野だと思いました。そこで写真家の集団と交流をもつようになり、大型カメラを使って大判の写真の引き伸ばしなども手掛け、アート的な表現にも挑戦しました。特にアンセル・アダムスなどの雄大な風景写真などに感銘を受け、いろんな写真集を漁ったものです。

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カシミールにあるヒマラヤにて、1976年頃。

詩人ウォルト・ホイットマンの『草の葉』を読んで旅に出る

HK わたしが最初にケリーさんの名前を知ったのは、80年代、『ホール・アース・レヴュー』という雑誌の編集長としてですが、同時に写真家としてアジアの写真集も出している聞き、どういう人なのかと、とても興味を惹かれました。

KK そうだったんですか。実はこうした写真家との活動を続けていくうちに、大学にいてもしようがないと思うようになり退学してしまい、その夏の期間に海岸の近くで家を借りて、そこで古典的な本を一日1冊のペースで読破してみようと思い立ったんです。朝起きてから、食事中もベッドに入ってからも、ずっと読み続けることにしました。

そうやって読んだ本のなかに、アメリカの19世紀の詩人ウォルト・ホイットマンの『草の葉』(1855)があり、なぜかものすごい衝撃を受けました。彼が各地をさまよって書いた自由詩は、まるで当時のアメリカの風景を撮った写真のように生き生きした描写で、雄大な風景が目に浮かび、農夫や炭鉱労働者の姿の描写はジャーナリスティックで、当時のニュース映像を見ているようでした。わたしはその時点で本を読むのを止め、カメラを持ってどこか遠くの外国に旅したいという強い衝動に駆られました。ホイットマンがつかんだような、スピリットやパワーをどうにかして写真で表現したいと思ったんです。

ちょうどそのころ、高校時代の親友が台湾に中国語を勉強しに行って手紙を送ってきて、すごくいいところだから来ないかと誘ってきました。そういえば父親の友人も日本にいるし、アジアに行って写真誌の契約カメラマンとして写真を撮ってみたいと思いました。

手持ちの資金がなかったので、半年ほど写真のコミューンでバイトをして、71年の暮れに溜まったいくばくかの貯えを手にそのまま旅立ちました。わたしの出発が遅れたので友人とは台北で1週間しか一緒に過ごせませんでしたが、自転車でいろいろなところを回りました。その後に南に下って、高雄で安い船便を見つけて、何日かかかって大阪まで行って父の友人のアパートに潜り込んで関西を旅したんです。

ネパール、エベレストのベースキャンプにて、弟のブライアンとともに。1976年頃。

わたしの青春時代はあまり旅行する習慣はなく、高校生になるまで外食もしたこともなく、ずっとニューイングランドに育ち、箸の使い方も知らないままでした。それで初めて訪れた外国が台湾だったので、すごくびっくりしたのを覚えています。しかし、とてもすばらしいところだと感激したことも確かです。台湾の農村では人々は道端で働いていたし、家も開けっ放しでプライヴァシーもなく、中まで入って人々がどのように働いて生活しているのかをつぶさに観察することができました。

その後、フィリピン、韓国、ビルマやタイ、インドにも足を延ばして旅を続け、いろいろな写真を撮り続けました。そうした国々には、初めて見る誰もほとんど注意して見たことのないさまざまな風物や習慣が息づいていて、もし誰かが記録しなかったらそれらは永遠に失われてしまうように思えました。

結局、何度か旅行を続け、帰ってきたときは30代になっていましたが、写真家として働くべきかについては正直なところ迷っていました。写真は面白いけれど、撮る相手の場所に侵入して、押し付けがましい方法で表現するメディアである点が好きになれず、プロとして続けることには迷いがあったのです。高校時代には新聞や雑誌もつくったことがあり、写真の技能も生かして、自分が大きな影響を受けた『ホール・アース・カタログ』で編集者としての仕事をしたいと思いました。

そこでまず、旅行の経験を元にして、ヒマラヤを旅する方法についてこの雑誌に寄稿しました。それからは、旅行関係の本の書評なども書くようになり、こうしたことをベースに活動するようになりました。

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サンフランシスコからニューヨークに向け、自転車で米大陸横断に旅立つ、1979年頃。

オンラインの世界に開眼する

HK わたしはMITのメディアラボの研究員をしていましたが、その研究所について最初に書かれた『メディアラボ──メディアの未来を創造する超・頭脳集団の挑戦』(福武書店、1988)の著者が、あのスチュアート・ブランドであることに驚きました。そこであまりよく知らなかったホール・アース関連のことを調べ始め、『ホール・アース・レヴュー』も発見しました。

KK なるほど、そのころから注目してもらっていたんですね。それではわたしがホール・アースに雇われるようになった経緯をお話ししましょう。

ひょんなことから、友人の編集者にニューヨーク工科大学が運営する初期のパソコン通信方式のオンラインシステム(EIES・Electronic Information Exchange System)のアカウントをもらうことになりました。それを使ってみると、そこには行ったことのないどこかの外国を旅しているような世界が開けたのです。テクノロジーのつくる世界でこんなことが起きているのにびっくりしました。オンラインのシステムで、いろいろ寄稿したり意見交換をしているうちに、文章を書いたり編集したりする技能が磨かれてきて、初めてきちんと自分の主張を書いて人々に伝えることができる場を発見したと思えるようになりました。

そのうちにオンラインで活発に発言しているわたしに目を付けた『ホール・アース・カタログ』創始者のスチュアート・ブランドが、ソフトウェアのカタログ雑誌を出すのでそこで働かないかとメールを送ってきたんです。きっとわたしは“世界初のオンラインでリクルートされた編集者”だと思いますね。

オンラインの世界は、まさに若いころに感じたテクノロジーへの疑念をひっくり返すようなもので、『ホール・アース・カタログ』のいう「適正なテクノロジー」そのものでした。それはまるでヒッピーのライフスタイルそのものが実現されている場で、生活とテクノロジーが両立しているし、人間の間尺にあっていて、最初からソーシャルな機能もありました。

スチュアート・ブランドは、当時出たばかりのパソコンは『ホール・アース・カタログ』が取り上げるべき道具だと思っていましたが、それを使うためのソフトの品質がピンからキリまであって、どれが良いものなのかを評価するメディアがないことに不満をもっていたようです。

そこでわたしは、ワープロや表計算ソフトなどの使い勝手を公平に比較して書評のように書くよう頼まれました。ちょうどスチュアートは、書籍プロデューサーとして有名なジョン・ブロックマンから、新しい分野を扱う雑誌を出すための多額の出資を受けたばかりで、わたしに白羽の矢が立ったということだったんです。それこそ、わたしが当時最もやりたい仕事そのものだったので、渡りに船と引き受け、東海岸から西海岸へと飛びました。

そして『ホール・アース・ソフトウェア・カタログ』(1984〜85)という雑誌の編集者を始めたわけですが、これが後に『コエボリューション・クオータリー』(1974〜1975)という雑誌と一緒になって、『ホール・アース・レヴュー』(1985〜2003)という雑誌になり、そちらの編集も手掛けることになりました。同時に、『ホール・アース・エッセンシャル』(1986)や『シグナル』(1988)などの、デジタル版の『ホール・アース・カタログ』ともいうべき出版物も出しました。

『ホール・アース・レヴュー』誌、ハッカー会議、WELL、サイバーソン

HK パソコンが出始めた時期に、有名な「ハッカー会議」も手掛けていましたね。わたしも何度か招待されましたが、結局行ける機会がなくていまでも残念に思っています。

KK それはそれは。84年に出たスティーヴン・レヴィーの『ハッカーズ』(1987、工学社)という本を読んで、コンピューターの世界で新しい種類の人々が存在していることがわかって面白いと思ったんです。彼らはお互いの存在に気付いていないかもしれない。それなら一緒に集めて話し合ったら面白いことになるんじゃないかと思い、最初の大型コンピューターのパイオニアから戦後のエンジニア、コンピューターでゲームをするまでの三世代のハッカーたちに声をかけて会議を開いたらどうかと、スチュアート・ブランドに提案しました。

すると彼は、翌日にそれはいいかもしれないと言い始め、自分の妻に声をかけて開催の準備が進みました。『ハッカーズ』に描かれている人々や、彼らの知り合いなどに声をかけてもらって、会議は結局84年にカリフォルニアのマリン郡で開かれることになりました。

彼らは、ハイパーテキストなどの概念を考えた伝説のテッド・ネルソンなどの業界の有名人に会えてうれしがっていました。この会議は単発で考えていましたが、その後にこれに参加したハッカーたちが継続してやりたいという声が上がり、86年から毎年招待制で開かれるようになりました。

HK その後は、オンラインのシステムのWELLの運営にも加わっていましたね。

KK そうです。インドで働いていたラリー・ブリリアントというアメリカ人の医師がスチュアートに、自分が属している盲人をサポートする団体のために、ニューヨーク工科大学などで実験しているオンラインのサーヴィスを使いたいが、できればビジネスにもしたいと提案してきたんです。そうして彼が資金を集めてDEC社のミニコンVAXを調達してきたので、85年からわれわれがそれを使ったシステムの運用をすることになりました。

わたしはそこの運営委員となりましたが、最初はまるで白紙状態で何のコンテンツもないし、どうやっていいかもわからず、プログラミングができそうな人を募集しました。まだこういう分野のノウハウをもっている人も少なかったので、時給10ドルというかなりの好条件で募集をかけました。するとテネシー州で共産主義のコミューンを営み、その運用のために無線ネットワークを使っていたエンジニアが2人やってきました。彼らは技術ばかりか、新しいメディアのソーシャルな使い方にも経験があったので、WELLはうまく回るようになりました。

HK 90年には「サイバーソン」というヴァーチャルリアリティーの会議を開きましたね。わたしも日本の現状をプレゼンするために参加し、その後、この分野の取材もして本を書いたので、非常に思い出深い会議でした。とても西海岸的なノリの会議で、テクノロジーばかりか、その背景にあるカルチャーも十分に味わえるものでした。

KK そうでした。そこで初めてお会いしたんですよね。この会議も80年代の終わりにヴァーチャル・リアリティーが盛んになり始めたので、ハッカー会議と同じ発想で関係者を集めて会議を開催することを考えたものです。まだ新しいアイデアだったので、誰も使った人がいない状態でした。

想像だけで論議しても意味がないので、いろいろなヴァーチャルリアリティーの機器やソフトを展示し、24時間試したり話し合ったりできるような場をつくるろうということになり、サイバーなマラソンという意味で、「サイバーソン」という名称にし、サンフランシスコの映画スタジオを借りて開催しました。これにはウィリアム・ギブスンやブルース・スターリングなどの有名なSF作家も来て大盛況でした。この席でギブスンが「未来はすでに来ているが、まだ公平に分配されていない」という有名な言葉を初めて使ったんですよ。

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ニュージャージー州ウェストフィールドにある両親の家で、アジアで撮影してきた写真を整理するケリー、1979年頃。

テクノロジーは人間と機械が協調してコントロールするもの

HK その後、人工生命などの新しい分野を題材にした、『アウト・オブ・コントロール』(1994、邦題:「複雑系」を超えて)を書かれましたね。わたしはすでにスティーヴン・レヴィーの『人工生命』(1996、朝日新聞社)の翻訳をしていて、自分でも人工生命会議に取材に行って本も書いていました。ケリーさんが『ホール・アース・レヴュー』に書かれた記事も読んでいて、わたしの興味と重なる部分が多くて目が離せない人だなと思っていました。そしてこの本の監訳させてもらうことになり、その分野のもつ意味をさらに広い観点から扱ったすばらしい本だと感動したことを覚えています。

KK そうでしたね。もとはといえば87年頃に、まだ小さかったインターネットのコミュニティーで、ニューメキシコ州のロスアラモスで「人工生命」(Artificial Life)という名前の会議が行われるという案内が回ってきたんです。

もともと会議などというものには参加者として出たことがなかったのですが、聞いたこともない面白そうな集まりに思えて申し込みました。行ってみるとジャーナリストはわたしと『カオス』(1991、新潮社)の著者のジェームズ・グリックだけでしたが、進化生物学者のリチャード・ドーキンスなどすごい人々が集まっていました。しかし運営は手づくり状態で、ホテルも用意されてなかったので、少し離れた場所でキャンプすることになりました。

会議自体の内容は、前代未聞の話の連続だったので、講演が終わるごとにそれらの概要をWELLにアップしたところ、ものすごい反響がありました。そこで同じものを『ホール・アース・レヴュー』にも掲載することにしたんです。するとそれを読んだブロックマンが、これはまとめて本にすべきだといってきたので、初めて本を書くことになりました。そして執筆に集中するために『ホール・アース・レヴュー』の編集は休むことにしました。

HK それは、人工生命という考え方やテクノロジーに共感を覚えたからですか? 「アウト・オブ・コントロール」という題で、テクノロジーが進むと人間のコントロールが及ばなくなり、人間は何も手が下せなくなるという主張が書かれていたと思うのですが。

KK そのときは、「生命を模倣する機械」という境界領域を扱ったアイデアに魅了されていましたが、テクノロジーをどうすべきか、という点や、社会的影響や生命倫理のような道徳的側面に対しては敢えて距離を置いていました。この本も『テクニウム』同様に、テクノロジーの目を通してテクノロジーの自己中心的な振る舞いを論じるものでしたが、特にその結果がどうなるか、テクノロジーを良いものとも悪いものとも考えてはいませんでした。

わたしの考えでは、人間と機械が協調してコントロールするという意味で、書名は「共コントロール」(Co-control)とすべきだと主張していましたが、出版社が譲らなかったのです。多分、そのせいで読者にきちんと内容が伝わらなかったのではないかと思います。

未来からの手紙としての『WIRED』の創刊

HK そういう考えは、インターネットの普及といっしょに変わっていったということですか。

KK インターネット自体というより、誰もが簡単にネットを使えるようになったウェブの普及に大きな意味があると思いますね。

当時は『WIRED』の立ち上げにも関わっていましたが、『WIRED』のデジタル版もつくることになって、『HOTWIRED』という名前のウェブサイトをつくることになりました。

わたしにはまだウェブのもつ力が分かっておらず、『HOTWIRED』の立ち上げを手伝った、ホール・アースの仲間で友人のハワード・ラインゴールドが担当していたのですが、彼とは意見が合わなかったんです。彼はインターネットは完全にボトムアップの世界で、利用者がゼロからつくり上げていくものだと主張しましたが、わたしはもっと全体を編集したりコントロールしたりするデザインがないと破綻すると思っていたんです。

ハワードの主張はまさに“アウト・オブ・コントロール”という路線でしたが、わたしはハイブリッドなかたちとして“共コントロール”が実際には必要だと思っていました。しかしウィキペディアの例を見ればわかると思いますが、当時はハワードの言っていたことの方が正しかったんですね。

しかしウィキでさえ、現在は記事を止めたりポリシーを変更したりしないといけない状態になっています。つまり、新しいことを始める際は、完全にボトムアップで行うのが正しくて、中長期的に全体の質を担保していくには、トップダウン的な編集やキュレーションも必要になるということではないでしょうか。

HK 92年頃にあなたから『WIRED』という雑誌をつくるるので「オタク」を特集するから手伝ってくれという連絡が来て、何の雑誌だかまるで見当がつかず面食らったことを覚えています。この雑誌に関わるようになったのはどうしてですか。

KK 『ホール・アース・レヴュー』の編集をしていた頃に、アムステルダムから書評用に『ランゲージ・テクノロジー』という雑誌を送ってきてくれた人がいました。それはコンピューターを使った言語の自動翻訳を扱っている雑誌でしたが、中身はそうした業界の退屈な話題を超えた広がりがあって、おまけにすごくかっこいいデザインでした。それから少しして、わたしの書評を読んで、雑誌の編集者のルイス・ロゼットとジェーン・メトカルフがオフィスにお礼を言いにやって来たんです。雑誌の名前は『エレクトリック・ワード』に変わっており、出版社がこれをもっと業界向けの実用的な雑誌にしないと廃刊にすると言い出し、彼らはもっと別のアイデアで違う雑誌を始めたいのでアムステルダムに来ないかと誘われました。

わたしはそれを出すのはアムステルダムでは無理だから、あなたたちがサンフランシスコに来てやればいいと提案しました。すると彼らは結局こちらに越してきて、WELLを使っていろいろ会議を催したりして準備を始めていました。当時のわたしは本も書いていたし、まだ手伝う気はなかったんです。

最初の『WIRED』編集部はサンフランシスコのダウンタウンSOMA地区にあった。右側の窓際のデスクがケリーの席だった。

すると彼らが半年ほどしてまたやって来て、新規なアイデアを論議するTEDという会議でMITのメディアラボのニコラス・ネグロポンテ所長に会ったら出資してくれることになったと言い、新しい雑誌のテスト版を持ってきました。その内容がすごくよかったので、ホール・アースや本の執筆などで忙しかったのですが、結局は立ち上げのために編集的な立場で関われるならと思い、後で他の人に交代するという条件で手伝うことにしたんです。

HK 『WIRED』の創刊号はとてもインパクトがあり、これぞデジタル時代の雑誌だという印象をもちましたが、とてもはっきりした編集方針を打ち出していましたね。(マーシャル・)マクルーハンまで出ていてびっくりしましたが。

KK ルイス・ロゼットたちと雑誌をどうするかいろいろ論議して決めたのは、「未来からやってきた手紙のように見える」というスタイルで編集するという方針でした。いろいろな話題を、細々した中味や理由を説明するのではなく、なにか未来を感じさせるスタイルをもっていて、読者が自分もそれに関わってみたいと思わせるような形で情報を提示していくというやり方です。そしてそこに有名なメディア学者のマーシャル・マクルーハンのヴィジョンを加えました。

それから半年して創刊号の記者会見が始まる2時間前に、ルイス・ロゼットがマクルーハンをどう説明しようかと相談して来たので、わたしはとっさに彼の役割を「守護聖人」と呼んだらどうかと提案しました。とてもカトリック的なノリで多くの人には意味不明でしょうが、マクルーハンはカトリックに改宗しているし、わたしもいまはプロテスタントだがカトリックの家庭で育ったからという理由で面白いと提案したんです。

HK 『WIRED』やウェブの体験を通して、『アウト・オブ・コントロール』以降の状況を本にしようと考え始めたんでしょうか。

KK 『アウト・オブ・コントロール』は、『タイム』と『フォーチュン』に短い書評が出ただけで、思ったほど世間から反応がなく、あまり売れることもなかったのでちょっとがっかりしていました。

少数のディープなファンはいたことは確かで、これはすごい本だと絶賛してくれてはいたものの、当時はまだインターネットが十分に立ち上がっておらず、人々はテクノロジーというもの自体には大して関心をいだいていなかったのだと思います。テクノロジーはまだクールではなかったんですね。実際にはビジネス関係者が多く反応してきて、その後4年はずっとニューエコノミーの講演をしていたので、それをまとめて本にすることになりました。

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ニューヨーク州北部のオテゴでは養蜂も手がけた、1981年頃。

『テクニウム』はどうやって書かれたか

HK そこで次に『テクニウム』を書くことになる流れを教えてください。

KK いろいろデジタル関係の記事も書くようになって、次の本を書きたいとは思ってはいましたが、『WIRED』の編集で手一杯の状態でした。ところが『WIRED』がコンデナストに売却されることになり、どうも大企業のために働くことはヒッピー上がりの自分には向いていないと思ったので辞めることにしました。

そこでやはり、小さいころからずっと疑問に思っていた、テクノロジーを好きだが認められないアンビヴァレントな感情をどうにかしないといけないという思いと、テクノロジーの本当の意味について書かないといけないという感情が抑えられなくなりました。これはとても重要な問題に思えたからです。しかし、どういう結論になるのかまるで予想もついていなかったし、何から始めていいかも見当もつかない状況でした。

まずはそういう本を書いてくれそうな筆者を探してみようと、関心のありそうな人にもちかけてみましたが、誰も乗ってこなかったんです。そこで自分の考えをいろんな人に話しては、意見を求めてみようと考えました。ある程度の課題を思いつくと、それを知っていそうな人にぶつけてみたりしましたが、あまり色よい返事は返ってこなかったですね。多くの場合、だいたいの人はわたしの疑問を、そんな考えは間違っていると拒否したり関心をもたなかったりしました。

しかしそれを続けていると、次の年には最初拒絶していた人の何人かが賛同してくれるようになり、どんどんその数が増えていったので、ある時点で自分で一冊にまとめられそうな予感がしました。それらすべてをいい考えだと思っていたのは、結局は自分だけだったので、自分で書くしかないという気になったんです。そこで、やっと立ち上がり始めたブログを使って、「テクニウム」という名前で少しずつ書いたものを公開して読者のコメントをもらうことにしました。

HK 「テクニウム」という名称はどうやって付けたんですか。

KK それがどうも思い出せません。もともと新しい言葉を勝手につくるのは好きではなかったんですが、新しい概念をいうには従来の言葉は意味が狭くて使えないと感じていました。

英語の「テクノロジー」という言葉に相当するフランス語の「テクニーク」(technique)という言葉が一番近いと思いましたが、フランス語を使うのは嫌だし、英語に近いラテン語的な名前を付けたかったんです。ある日に意を決して、一日中いろんな候補を挙げてグーグルでチェックしたり、消去法で絞り込んだりしていくうちに残った言葉がこれだったので、ベストな言葉とはいえないかもしれません。

いろいろ集まった意見を元に、2003年にブロックマンに企画提案書を出して契約を結びました。それに書いた本の仮タイトルは「聖なるテクノロジー」(Holy Technology)でした。これは実は、テクニウムという言葉の対抗候補でもあったわけです。

しかし結局、こういう題では宗教書と間違われてしまいます。実際に本のなかで神について書いた部分は最後の章にある2段落しかないし、もともとこの仮のタイトルは当初は結論が分からなかったので、変えるつもりではいたので、最終的には『テクノロジーの望むもの』(原題:What Technology Wants)としました。邦訳のタイトルは『テクニウム』ですが、装丁もコンパクトで優美なデザインの本に仕上がっており、とても気に入っています。

『テクニウム──テクノロジーはどこへ向かうのか?』
ケヴィン・ケリー = 著 服部桂 = 訳〈みすず書房〉
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人類は石器からコンピューターに至るまで、さまざまなテクノロジーを生み出してきた。これらに通底する普遍的な法則、そしてテクノロジーの本質とは、いったい何なのだろう? 現代のテクノロジーが向かう情報化、非物質化への流れを踏まえつつ、生命における生態系と同等なものとして、テクノロジーの活動空間を〈テクニウム〉と定義し、そこでのテクノロジーの振る舞いを、複雑性、多様性、自由、美、感受性、構造性、遍在性などの概念で読み解く。PHOTO BY KOUTAROU WASHIZAKI

HK 執筆を始めたころと、実際に書きあがってからでは、本の内容は変わりましたか。

KK かなり変わりました。最初はテクノロジーについてどう扱っていいかが分からなかったんですが、結局は書き終わると、テクノロジーは避けられないものであるという決定論者になった自分がいました。

実はこの本を書くのには大変なエネルギーを使っていて、契約書ができてから7年もかかっていて、その間は書いた原稿をブログに少しずつアップする仕事しかせず、ブログメディア『Boing Boing』の書評など、面白い仕事を頼まれましたが、すべて断ってきたんです。最初は『アウト・オブ・コントロール』のようにテクノロジーの進化と生命の進化の似ている部分についての考察を発表しては深めていましたが、それから先はどういう方向で結論を導くのかまるで見当がついていませんでした。

本を書いてかなりたって終盤になってから、生命と情報の等価性についての論までは書いていましたが、それ以前の宇宙の始まりからエネルギーが物質に転化するまでの流れをテクノロジー的に説明しなくてはいけないと考えるようになりました。もし最初からそういう方向性が見えていたら、本のタイトルも「宇宙的テクノロジー」(Cosmic Technology)というようなものになっていたかもしれません。

ただ、宇宙論や素粒子論などまで話が及ぶと専門知識も必要だし、抽象的でSFのような話になると誰もついてこられなくなるのではないかと心配になりました。しかし、エネルギーが物質に転化してさらに情報に移行していくという話をある機会に講演会でしてみたところ、聴衆がけっこうこの話を面白がってくれたので、こうした流れをきちんと組み込むことにしました。もっと最初から理路整然と論理を組み立てて執筆に臨む本もあるかもしれませんが、この本はこういう紆余曲折をたどってできた産物なんです。

HK 訳者のわたしとしては、とても示唆に富む本だと引き込まれて読んでしまいましたが、この本の扱う話題は広範で、この分野に詳しくない人は全体像を摑むのが難しいかもしれないと思う点もありました。そこで、ケリーさんとしては、本当は何を主張したい本なのかをご自身の言葉でまとめていただくと読者にわかりやすいと思うのですが。

KK そうですね。この本には少なくとも3冊の異なる本の内容が詰め込まれているので、読むのはそれほど簡単ではないでしょうし、また一言で要約するのは難しいかもしれません。

ひとつ言うべきこととしては、テクノロジーはこの宇宙のポジティヴな力で、それによってより多くの可能性が開け選択肢が増える、ということ。だから、うまく付き合って取り込んでいかなくてはならない。人間が生まれるはるか以前からある人間を超えた存在で、宇宙の誕生から始まり、生命の進化や文明の誕生を通してずっと働いるとても長い流れであり、われわれがそれに関わって何かを創造する行為はこの長い歴史の一部に参加しているということ。テクノロジーを良くして生命としての可能性や選択肢を増やすことは、ある意味、聖なる行為であり、少なくとも道徳的に正しい行為といえるということです。

HK 「聖なる」という言葉はかなりキリスト教的な見方だと思えるし、ある人はそれがテクノロジーを優先して、神を否定しているように感じるかもしれませんね。

KK わたしがキリスト教世界で育ったせいもあるから、そういう言い方になるかもしれませんが、もっと一般的に表現するなら「スピリチュアル」な力と表現してもいいでしょうね。

神の定義については、わたしはスチュアート・ブランドの言う、「神は人間を自分に似た姿に創造したとされており、われわれはそのイメージを引き継ぐ存在として習熟しないといけない」という考え方に賛成しています。

つまりわたしの解釈ではキリスト教的には、われわれがロボットなどのテクノロジーで生み出すものはわれわれの似姿(にすがた)であり、われわれはテクノロジーと対するときに、神が人間に対するように、テクノロジーに対して神という立場で接し、親が子どもに対するように振る舞わなくてはならないということです。われわれがすべきことは、いかにして良い神になるかを学ぶことではないでしょうか。

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70年代、アジアを旅するときに使っていたバックパック。自分の名前のイニシャル“KK”が描かれている。

今後100年の人類の最大の課題

HK 日本人から見ると、アメリカの西海岸で活躍している人々は、テクノロジーに対してとても楽観的に思えます。現在の日本では、東日本大震災での原発事故で、原子力に対して批判的な意見が多く、テクノロジーに対してもまだ否定的な印象をもつ人が多いような気がしますが。

KK:正直な感想をいうと、日本人は原子力エネルギーに対し、きちんとした証拠がないまま敏感になりすぎていると感じます。実際の死者の数を見ても、これまで炭鉱の落盤事故で死んだ人の数には遠く及んではいません。原子力に対する現在の反感はあまり論理的ではなくて、むしろ感情的なものだと思います。

ヨーロッパで遺伝子組み換え食品に対して起きている反対運動でも同じようなことが起きています。こうした状況は短期的なもので、もっと長期的な視点から論理的に論議すべきだと思います。

原子力について現在起きている問題は、一般人が大変なものだと恐れて政府が運用し、誰も近寄れないような巨大なシステムに委ねてしまい、全体が不透明でアクセス不能なものになってしまっていることです。そうしたことはすべて、結局は安全性やテクノロジーの受容に関して逆の効果しか生じないものなのです。

こうしたシステムは、透明でオープンでアクセス可能にした方がいいでしょう。例えば、小型で地域に根差し誰でもがアクセスできオープンに公開された原発ができれば、もっと違うかたちで制御することができて安全性も確保できるし、より住民にも受け入れられるものができるはずです。

テクノロジー自体は必然的に避けられないが、その性格は変えることができることに注意すべきでしょう。現在の巨大で官僚的なシステムの恐ろしい性格は、どうしてそうなったのか分かりませんが、良い方向に変えていくことはできるはずだと信じます。

HK これからの未来を考えていくのにあたって、まず現在の情報化の象徴ともなっている、インターネットがどうなっていくのかについて考えてみないといけないと思いますが。

KK 『WIRED』が始まった20年ほど前の時代を考えてみると、インターネットは「より良いテレビ」のイメージで捉えられていました。しかしそれは現実には違っていて、ウェブのように多くのアイデアをつなぐものになりました。これから20年先を考えると、「より良いウェブ」という発想になるかもしれませんが、それもまた間違っているでしょう。

実際に現在起きていることは、すべてがコンピューター処理できるデータに読み替えられ、それがビッグデータという言葉に象徴されるように、さまざまな形に分類され体系化され新たに組み合わされ、ひところよく論議された、意味を扱うことのできる「セマンティックウェブ」のような姿になっていっていることです。

わたしはそれをコンピューター科学者のダニー・ヒリスが唱えているように、すべての言葉は、人工知能などによって、主語、動詞、述語というデータ構造に展開され、これにその言説を誰がどちらに向けて語ったかという“4番目の要素”が加わりデータベース化される、と考えます。パターンや暗黙知にあたるデータ化が難しいものも新しいテクノロジーによって取り込まれ、それらすべてが同じクラウド的なデータ構造のなかで従来の言語データと一緒に取り扱われ、コンピューターがその中から人工知能的な技法によって知の構図を読み取っていくという世界観です。

HK いまはグーグルで働いているレイモンド・カーツワイルなどのコンピューター学者が、「シンギュラリティー」という言葉で、これからコンピューターが進歩して20〜30年ほどで人間の脳の力を超えると唱えて、人類とコンピューターの競合関係を懸念する声が上がっていますが。

KK 人工知能(AI)がこれからもっと進化して、いろいろなもののデータ化が進めば、20年経ったころには街の外観は変わらなくても、すべてのものがネット化され、コンピューターで自動運転する車や新型の移動装置があふれているでしょうね。だが現在注目されているバイオエンジニアリングは、その期間ではあまり大きな進歩はしていないと思います。

先のことはあまり分かりませんが、現在言えることは、ネットによっていろいろなデータをすべて追跡する機能がどんどん高まっている、ということ。環境や健康に関係するほとんどすべての細かいデータを観測して追跡することが可能になるでしょう。国家というものはまだなくなっておらず、こうしたテクノロジーでより強力になっているかもしれないし、アメリカと中国は二大国としてお互いの相違を調整していくために新しいテクノロジーを必要とするでしょう。

100年も経てば、人工知能がどこにでも応用されるようになって、産業革命が起きたときのような大きな変化があるかもしれませんが、それは劇的な変化とはいえないでしょうね。むしろわれわれが、遺伝子を自由に操できるようになったときに、本質的な大きな変化が起きるのではないでしょうか。しかし劇的な変化というのは、起こっている最中には見えず、それが過去になって初めて認識できるのだと思いますね。

HK マクルーハンは活字印刷というテクノロジーが近代を開始し、その次に来た電子テクノロジーは人間が活字印刷によって捨て去った中世の文化に逆戻りすると説いていましたが。

KK そういう考えもあるとは思いますが、わたしはそうは思いません。テクノロジーによって人間はある意味、もっと文明化して人間らしくなっていくのではないでしょうか。そのとき問題になるのは、「人間性とは何か」ということです。

人間性という言葉に明確な定義はなく、これまでの時代のなかで育まれてきただけです。しかし人間はこれからもテクノロジーによって自己をキュレーションして、エンジニアリングして磨いていくだろうし、そうした活動を通して機械にはできないことは何かを考えることで、人間とは何かという新しい定義を追い求めていくことが、今後100年の最大の人類の課題になるのではないでしょうか。

その先にあるのは、たったひとつの答えではないでしょう。人の数だけの固定的でない定義が許容され、それらが議会でもトークショーでもすべての人間の最大の中心的な関心事としてさまざまな形で論議されていくのではないでしょうか。

現在はそうした希望をもって、テクニウムの次の姿をまた考察しており、来年にはこの本をさらにパワーアップした『解き放たれたテクニウム』という本を出そうと考えているので注目してください。

『テクニウム』を超えて──ケヴィン・ケリーの語るカウンターカルチャーから人工知能まで〈インプレスR&D〉
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『テクニウム』の訳者、服部桂が、ケヴィン・ケリー来日の際に対談し引き出した、大著のルーツやケリーが描く将来の展望を全収録。本記事はその一部であり、さらに来日講演の内容や解説などを収めた、『テクニウム』をさらに深く理解するための一冊。Amazon Kindleストア、楽天koboイーブックストア、Apple iBookstore、紀伊國屋書店 Kinoppyなどで手に入る電子書籍版(EPUB3/Kindle Format8)のほか、印刷書籍(A5判/モノクロ/本文80ページ)がAmazon.co.jp、三省堂書店オンデマンドなどで販売されている。

ケヴィン・ケリー、雑誌『WIRED』VOL.15にも登場
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隔月刊化第1号となる本号では、新たにはじまった連載「MEET THE LEGENT」において、本記事のケヴィン・ケリーが登場。その他、新連載として「WIRED X」「ぼくらのグランドチャレンジ」がスタート。特集は、デザインをフィーチャー。最新のスマートプロダクトからビッグデータやコミュニティ、言語や感情、さらにはジョナサン・アイヴの貴重なインタヴューまで、広がり続けるデザインの最前線を、25の最新事例から概観する総力特集。特集の詳しい内容はこちら。

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