「繊細さについて」 [著]スヴェンヤ・フラスペーラー

 かねてからの疑問があった。文明化を通じて人類は野蛮さを遠ざけ、共感の能力や繊細な感受性を育んできた。ところがそれは現代に至って、人々がいわば「自らを傷つきやすくするトレーニング」を積んでいる状況を招いていないか。繊細さの高まりは、何かにつけてすぐに被害者意識を募らせる脆弱(ぜいじゃく)な個人を生み出し、公的な対話や協力の土台を掘り崩しているのではないか。
 似た疑問をもつ人が多かったのか、ドイツで話題と議論を呼んだという本書は、心理学や社会学、そして哲学でセンシビリティがどう捉えられてきたのかをたどる。その両義性は著しい。フロイトのトラウマの概念がトリガー(心理的な引き金)に結びつき、それが配慮されればされるほど、社会は痛みに対する恐怖を抱え込む。感受性が創造性につながる一方で、他者との距離に慎重になり孤独も生まれる。トクヴィルが指摘するように、世の中が平等に近づくと人々は残る不正に過敏になる。
 こうした過度の繊細さに対置されるのが強靱(きょうじん)さ(レジリエンス)だ。序盤で著者はレヴィナスとニーチェの間で戦わされる架空の対話を描き出し、この対比を見事に浮き彫りにしている。レヴィナスは自己を守り、傷つきやすさを感受する繊細さを、ニーチェは自己を鍛え、困難に立ち向かう強靱さを代表する。だが、全編を通じて著者が提示しようとするのは、どちらか一方を絶対視することの不当さと、両者の調和を目指す視点である。共感を美化しすぎれば原始的な生への衝動が強靱さの鍵であることを見失うが、危機を克服する力が内に抱える傷や弱さから生まれることも意識せよ、というように。実に魅力的に聞こえる。
 もっとも、思想史という性格上、具体的な方策を示しているわけではないし、ニーチェの毒をどう薬に変えるのかも課題だろう。だが、議論を始めるための確かな出発点がここにはある。
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Svenja Flaßpöhler 1975年ドイツ・ミュンスター生まれ。哲学者・著述家。ジェンダーや公共圏をめぐる論考がある。
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稲葉瑛志・鈴木啓峻訳