令和の学級崩壊は“静かに荒れる” 床に寝ころび、廊下をウロウロ…「多様性」の名で混乱する教育現場
現在の公立小学校では“静かな荒れ”と呼ばれる新しい形態の学級崩壊が広まっている。
【漫画】どこまでが個性? 「授業中に立ち歩く」「化粧」「遅刻・欠席」……教育現場で起きている、静かな荒れと教員の休職問題とは――。
昔の学級崩壊は、一部のやんちゃな子がわざと騒ぎを起こして授業を妨害することによって引き起こされるものだった。
だが、現在の学級崩壊は違う。物静かで目立たないような子が、何の目的もなく教室内を歩き回ったり、無言で外へ行ってしまったりといった現象が起きているのだ。
大阪の小学校に勤める教員は次のように話す。
「今や、学校の教室では、児童が授業を聞かずに教室の床に寝ころんだり、廊下をウロウロしたりするのが当たり前の光景になっています。一時代前のように、教員が厳しく注意をするとか、保護者を呼び出して指導することができなくなっている。それをすると、保護者や学校側から『生徒の主体性を認めていない』と逆に注意されてしまうのです。これが普通になってしまうと、他の子まで勝手なことをしはじめて収拾がつかなくなるのが、今の学級崩壊の特徴です」

授業中に床に寝ころぶとか、廊下を徘徊するなど、まるで保育園や幼稚園の光景のように思えるが、それが全国の小中学校で起きているのだ。
「コミックバンチKai」に連載中の漫画『教育虐待―子供を壊す「教育熱心」な親たち』では、この“静かな荒れ”の正体を深く掘り下げ、一般読者だけでなく、現役教員からも大きな反響を起こした。
改めて、現代ならではの学級崩壊の現状と要因について考えたい。
「極端に言えばエイリアン」
親の中には、子供が通う学校の授業参観などで教室の異様な光景を見たことのある人は少なくないだろう。
教室を立ち歩いて出ていく子の他にも、授業中に1人でガリガリと音を立てて工作をしている子、タブレットで動画視聴をしている子、急に奇声を上げる子、人形をかわいがっている子……。
今の“静かな荒れ”は、かつてのヤンキー(不良)が起こす校内暴力のような荒々しいものではない。子供たちが個々の動機によって、授業とはまったく無関係の言動をすることによって起きているのだ。
現役の教員の声をいくつか紹介したい。
「昔の問題児は、正面から向き合えば、わかり合えることがありましたけど、今の子は違います。発達障害があるのかなというような子や、外国ルーツのまったくライフスタイルの違うような子が、何を意味するか分からないような言動をくり返すのです。クラスで1〜2人ならまだしも、これが4人、5人となると手が付けられません」
「今の子は、極端に言えばエイリアンだよ。こちらの常識がまったく通じないから、何を言ってもわかり合えない。立ち歩くなと言っても『なんで?』と答え、授業中に床に寝ころぶなと言っても『だって眠いもん』と答える。反抗しているわけじゃなく、本音を言っているだけなの。それでこっちが周りに迷惑だと説明しても、『ふーん』と言ってどこかへ行ってしまう。指導のしようがないんです」
むろん、こうした子供全員に障害があったり、ボーダーであったり、外国にルーツがあったりするわけではない。ごく普通の家庭に生まれ育っていても、そういう行動をする子は一定数いる。
教員不足の一因にも?
学校での教員の評価の指標の一つは、学級経営が成功しているかどうかだ。
“静かな荒れ”によって授業に差し障りが生じれば、管理職や保護者から教師失格の烙印を押されかねない。それがきっかけになって、教員が精神を病むことも少なくない。
全国で教員不足が深刻な問題になっているが、その一因が教員の精神疾患による病気休暇や休職だ。精神疾患によって学校から離れる教員の数は年間に7,000人以上、1カ月以上の病気休暇を含めば13,000人以上になる。
漫画『教育虐待』の取材で話を聞いたスクールカウンセラーの女性は次のように言う。
「教員がメンタルの不調を訴える最大の原因は、〈児童生徒への対応の困難〉です。対応困難な子供に対して適切な対処ができないうちに、他の子たちにまで悪影響が広がっていって学級崩壊が起こる。そしてそのストレスから心を病んで学校に来られなくなってしまうのです」
授業中に勝手に徘徊する子供がいるのなら、教員が厳しく指導すれば済む話だろうと思う人もいるかもしれない。
だが、今の時代にそれをすれば批判の的になりかねない。保護者から「体罰だ」「管理が過ぎる」「子供の自由意志を奪っている」とクレームが出るのだ。
どういうプロセスでそうなるのか。漫画の取材で聞いた例を紹介したい。
注意されても聞く耳持たず…厳しく指導すると
ある小学校の5年生のクラスに、授業中に勝手に歩き回る子供が複数いた。何度注意されても、みんなまったく聞く耳を持たずに同じことをくり返す。
一人の子は発達特性が明らかに強い子だったが、他の子たちは決してそういうわけではなかった。むしろ、発達特性の強い子を真似して好き勝手をしているように見えた。
ある日、教員がその子たちを個別に指導室に呼び出して厳しく注意した。このままでは授業が進まないので、もし席にすわっていられないのなら、別室登校にすることも考える、と。
翌日以降、その子たちの保護者からのクレームが相次いで入った。
ある親はこう言った。
「うちの子は、主体的な考えの持ち主です。立ち歩くのだって探求の一つでしょう。それを大きな声を上げて制限するなんて、先生は子供の主体性を否定するつもりですか」
別の親は次のように言った。
「息子はちょっと発達の特性が強いんです。だから、じっとしていられない。それを否定するのは、障害のある子は学校に来るなと言っているのと同じです」
管理職からはもう少し対応を考えるようにと注意された。そうこうするうちに、“静かな荒れ”は学級崩壊を引き起こした。
先生はストレスから休職に追いやられた。
背景に「多様性のはき違え」
この事例からわかるように、下手に注意をすれば、教員の側が保護者からの批判の矢を浴びることになる。なぜなのか。
今の学校でキャッチフレーズのように飛び交うのが「多様性」という言葉だ。もう少し細かくいえば、「多文化共生」「みんなちがって、みんないい」「主体性の尊重」「子供の権利」といった言葉である。
たしかに、子供に限らず、大人の社会においても多様性は非常に大きな課題となっている。
いろいろな特性や文化を持つ人たちが、同じ空間で生きていくには、お互いの違いを理解し、相手を尊重し、力を合わせていかなければならない。学校教育の中で、それを大切にし、実践させるのは決して間違いではない。
しかしながら、それと子供が勝手に気ままに行動するのを許すのとではまったく別の話だ。
仮に子供たちの個人的な行動が授業の妨げになったり、他のクラスメイトたちに不快感を与えたりしていれば、「共生」でも「権利」でもない。尊重されるべき主体性でもない。それは、単なる迷惑行為に過ぎないのである。
ところが、社会には多様性の意味をはき違えている人たちが一定数おり、その声が必要以上に大きくなっている。そのため、教員は本来するべき指導ができなくなってしまっているのだ。
結果として“静かな荒れ”の拡大を食い止めることができず、学級崩壊が起こる。
責任を教員に押し付けるべきではない
学校の“静かな荒れ”の中で生きる教員の苦悩と打開策とは何か。それについては、漫画『教育虐待』を参考にしてほしい。
ここで押さえておきたいのは、学校でこうした状況が生まれた責任を教員に押し付けるのは酷だということだ。むろん、子供の責任でもない。
現代社会で多様性が重要なキーワードであることは間違いない。しかし、それを教育現場に課しているのは、教育委員会、あるいはその上にいる官僚や取り巻きの有識者だ。
本来、もし学校に多様性を求めるのならば、その定義を明確にし、共生の方法を提示するべきだ。一つの教室の中で、どうすれば発達特性の強い子や、海外ルーツの子、それに様々な事情を抱えた子たちが共存できるのかを示すということである。
だが、彼らはそれをせずに、口先だけで耳当たりの良い「多様性」というフレーズを叫んでいるだけなのだ。だから、保護者も好きなように解釈して子供の言動を正当化する。
これでは教員が学級経営に行き詰るのは仕方のないことだ。
教員不足が深刻な問題となっている今、多様性のあり方についての議論はもっと深くなされるべきではないだろうか。
石井光太(いしい こうた)
1977年、東京生まれ。2021年『こどもホスピスの奇跡』で新潮ドキュメント賞を受賞。主な著書に『遺体 震災、津波の果てに』『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』『教育虐待 子供を壊す「教育熱心」な親たち』など。『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。マララ・ユスフザイさんの国連演説から考える』など児童書も多い。『ルポ スマホ育児が子供を壊す』(新潮社)はロングセラーとなっている。
デイリー新潮編集部
