祖母・喜代子さんからの手紙。便箋2枚につづられていた

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 <このおばあちゃんの手紙は二十五年後に届きます>。

 東日本大震災の津波で亡くなった岩手県宮古市の柿崎喜代子さん(当時80歳)が四半世紀前に書いた手紙が今月、孫の男性のもとに届いた。3月に開封されたタイムカプセルに収められていたもので、将来に心を寄せる言葉がつづられていた。男性は「震災で果たせなかったお別れができた」と語った。(広瀬航太郎)

 そんな、まさか――。川崎市のミュージシャン、柿崎幸史(たかふみ)さん(38)は今月1日、喜代子さんからの手紙が盛岡市の実家に届いたと母から電話で伝えられ、驚きで言葉を失った。

 手紙は便箋2枚につづられ、喜代子さんは2001年2月に書いたとみられる。同年3月、宮古市などの実行委員会が「25年後のメッセージ」としてタイムカプセルに入れる手紙を住民から募集し、喜代子さんも当時13歳だった幸史さんへの手紙を託していた。

 <二十五年後の幸君の姿を見たいですが そんなには生きられません><よい孫を持って よかったと思っています>。母が電話越しに読み上げる喜代子さんの言葉に涙が止まらなかった。

 学校の教員を務め、退職後も自宅で不登校児の学習支援などを行っていた喜代子さん。自身の教え子に自慢話をするほど孫を愛していた。

 <ピアノの発表会 楽しみに待っていますよ>。3歳でピアノを始めた幸史さんの成長を見届けようと、演奏会のたびに車で2時間以上かけて盛岡市まで駆けつけてくれた。

 大学卒業が迫った頃、プロのミュージシャンを目指すと伝えると、「食べていけない」と反対された。11年1月、喜代子さんに改めて決意を語ると、「音楽の道でもしっかり生きるのよ」と認めてくれた。それが祖母との最後の会話となった。

 同年3月11日、喜代子さんが暮らす宮古市田老地区を17メートルの津波が襲い、防潮堤を破壊して集落を流した。喜代子さんは約1週間後、隣家のがれきの中から遺体で見つかった。

 安置所で無言の対面を果たした幸史さんは、涙をぐっとこらえた。「津波に被災していない俺なんかが泣いちゃいけない」。いつしか、悲しみとともに喜代子さんとの思い出も心の奥底に沈めてしまっていた。

 音楽の道は喜代子さんが懸念した通り苦労の連続だったが、次第にドラムの腕前や作曲が評価されるようになり、プロとして国内外で活躍している。宮古市も含む被災地で演奏を披露し、子どもたちを元気づける活動も続けている。

 喜代子さんからの手紙が届いたのは、企画したコンサートの準備で多忙を極めていた時だった。

 <社会に出たら 一生懸命頑張って 他人を思いやる やさしい心をいつまでも持っていて下さいね>

 手紙の言葉にはっとした。仕事に必死になるあまり、仲間のささいなミスに怒るなど、活動を支えてくれることへの感謝を忘れていたことに気づかされた。「『ちゃんとやれ』とたしなめられた気がした」

 <幸君へ さようなら さようなら>。この結びの言葉に、15年前にできなかったお別れの言葉をもらえたと感じた。「音楽家としてみなに喜んでもらえる活動をすることが、おばあちゃんへの恩返しになる」。祖母からの手紙で思いを新たにしている。