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10年前の熊本地震で被災した旧熊本市民病院では、入院患者310人全員が転院、退院を余儀なくされました。

【写真を見る】「最後までうちで治療すべきだった」 耐震不足の病院が守れなかった命 工事延期した市長の「後悔」 青森で同じケースも 熊本地震10年【熊本市民病院・後編】

さらに別の影響もありました。

地震への備えが不十分だと病院はどうなるのか、改めて考えます。

<前編はこちら>関連記事から
「なぜ娘を救えなかったのか」災害関連死に向き合う母親たち 熊本地震10年【熊本市民病院・前編】

国道沿いに広がる巨大な空き地。旧熊本市民病院の跡地です。

10年前の熊本地震で国の耐震基準を満たしていなかった病棟が損壊し、入院患者310人が転院、退院を余儀なくされましたが、通院していた患者も行き場を失い、通常の治療が受けられなくなりました。

その一人が当時16歳だった松粼胡桃さんです。

生まれつき心臓に病気を抱え、重度の身体障害があった胡桃さん。

体調が悪くなった時に頼っていたのが熊本市民病院でした。

「パソコンの特注マウスを操作しているシーン、ここまで伝えたかっただね」

特別仕様のパソコンを使って、自らの思いを表現していた胡桃さん。

酸素の吸入や痰の吸引など、医療的ケアが必要でした。

熊本地震の1か月後、治療のため熊本市民病院を訪れたときの事でした。

入院病棟は使えないまま

胡桃ちゃんの母・松粼久美子さん「本来ならね、胡桃ちゃん。入院させて治療してあげたいって。でもそれができなくて申し訳ないって、主治医が私にも胡桃にも何度も謝られた」

無事だった建物を使って外来診療は再開されましたが、患者が入院できる病棟は使えないままでした。

地震から3か月後、胡桃さんは自宅で呼吸困難を起こし、別の病院に運ばれましたが体調は悪化するばかりでした。

胡桃ちゃんの母・松粼久美子さん「本当は本来の主治医に治療してほしかったし、市民病院に帰りたかった」

十分な治療が受けられず、地震5か月後の9月16日に亡くなった胡桃さんは、災害関連死に認定されました。

胡桃さんの自宅には、15歳の誕生日に熊本市民病院のスタッフから贈られたバースデーカードが、今でも大切に残されています。

そこにメッセージを寄せていたのが胡桃さんの主治医で地震当時、小児循環器内科の部長だった八浪浩一医師(66)です。

2026年4月2日、熊本市民病院。

熊本市民病院 八浪浩一医師「調子が悪くなった時はこちらに連絡してもらって、必ず対応する。うちで必ず診るという気持ちで、私たちはやってきたつもり」

地震後、担当している患者を十分に治療できなくなり、医師たちも苦しんでいました。

熊本市民病院 八浪浩一医師「赤ちゃんの時からずっと診ている患者ですし、最後までうちで治療すべき患者さん達だった。うちでやったからどれくらい頑張れたかは分からないが、患者さんも望んでいたし、私たちも震災がなければ、最後まで診療していた」

なぜ熊本市民病院の耐震化は進まなかったか。

地震の1年前に「着工延期」

熊本地震の前に示された完成予想図では、熊本市民病院は当初、現地で建て替えられる予定でした。

熊本市大西一史市長「今、着工GO!に関しては病院経営が破綻してしまう恐れがあるので一旦延期する」

建設費が当初予定の133億円を大幅に上回る209億円となったため、熊本地震の1年前に着工を延期したのです。

病院の現地建て替えに向けて、奔走していたのが当時の院長で、現在は顧問の髙田明医師(71)でした。

地震当時の熊本市民病院 院長 髙田明医師「建て替えを計画している最中に大きな地震が起きたのは非常に痛恨だった」

2度の大きな揺れで、壁や柱に亀裂が入り、医療に必要な水を貯めていた受水槽も壊れ、病院としての機能を失いました。

現存病棟が倒壊する恐れも出たため、当時の髙田院長は本震発生4時間半後の午前6時、入院患者全員の転院、退院を決断をします。

当時の熊本市民病院 院長 髙田明医師「苦渋の決断だったし、こういう災害の時に一番必要な医療を提供しないといけないのに、自分たちがそれができないというのは非常に辛い思いだった」

病院が機能停止に陥り、患者たちは行き場を失いました。

熊本市民病院の建て替えを先送りした熊本市の大西一史市長(58)は…

「私の責任がきわめて大きい」

熊本市 大西一史 市長「市民病院が大変な状況になったと。あの時に耐震化を優先して着工していたら、ひょっとしたら。耐震化をしない状態の中で地震被害にあってしまったのは私の責任が極めて大きい」

あの時の判断を悔いていました。

熊本市 大西一史 市長「最悪を想定していれば、もっと色んな手だてができたのではないか。病院の経営とかを一生懸命考えることも重要だが、命を守る、市民の命を守ることを考えると、最悪のことを考えながら優先順位をつけて間違いないようにしろと、当時の自分には言いたいですね」

地震から3年半後、熊本市民病院は新たな場所に移転、再建されました。

免震構造に加え、受水槽も耐震性能を高め、断水したときは地下水を利用できるようにしました。

当時はなかったヘリポートも作り、次の災害では「受け入れる側」となることを目指しています。

地震当時の熊本市民病院 院長 髙田明医師「思いがけない災害が起こることは、肝に銘じる必要がある。それに対する準備なり、訓練なり、手順なり、地域との連携であったり、協力だったりを考えておく必要があると強く思う」

熊本地震以降、全国的にも病院の耐震化は進みました。

災害時に、けが人を受け入れる災害拠点病院の耐震化率は96%になりましたが、病院全体の耐震化率は80%止まりです。

未だ耐震化に課題を抱えています。

◆災害拠点病院の耐震化率◆ 05年43.3%、10年66.2%、15年84.8%、20年93.6%、23年96.0%
◆病院の耐震化率◆ 05年36.4%、10年56.7%、15年69.4%、20年77.3%、23年80.5%(厚生労働省調べ)

熊本の教訓は生かされたのか

去年12月、青森県沖を震源とする最大震度6強の地震では、青森県むつ市の「むつ総合病院」が被災し、30人を超える入院患者が転院を余儀なくされました。

新病棟の建設に向けた計画があったものの、資材高騰のあおりなどで、白紙撤回されていたのです。

熊本地震で、熊本市民病院から県外の病院に転院を余儀なくされ、災害関連死に認定された当時4歳の宮粼花梨ちゃん。

母親のさくらさん(47)は青森県でのニュースを見てショックを受けたと言います。

宮粼さくらさん「一瞬、熊本市民病院のこと見てるのかなって思ったぐらいだったので。でも、ああいうところは多分たくさんあると思うんです。それをそうならないようにするためには、多分もっと、病院だけで考えることじゃ決してないので、それはもう国かもしれないしね」

新しくなった熊本市民病院の一角には花壇があります。

宮粼さくらさん「これから5月頭にかけて次々と咲く時期ですね」

さくらさんは、命の大切さと教訓を伝えたいと、この花壇でフランスギクを育てています。

宮粼さくらさん「まさか自分の身にそんなことが起きるなんてって思っていなかったので。でもこうやって経験してみると、いつ誰に起こってもおかしくないことだとよく分かる。けれど、それを想像するのも難しいのもよくわかる。自分ごと化するのはとても大変。だけど、それをすることがすごく大事なことといいうのが、この10年過ごしてきて思うので」

「病院の耐震化が進み、自分達と同じ思いをする人を少しでも減らしたい」

それがさくらさん達の願いです。

<前編はこちら>
▼「なぜ娘を救えなかったのか」災害関連死に向き合う母親たち 熊本地震10年【熊本市民病院・前編】