長崎県下に今でもわずかに存在する「カクレキリシタン」。その事実を知ると、多くの人が「信仰の自由がある現代日本で、なぜ今でも隠れているのですか?」と疑問を抱く。

【画像】組織解散後も個人で正月にカクレの神様を祀っている

 しかし、当事者たちは「自分たちは逃げも隠れもしていない」と語る。いったいどういうことなのか。宗教学者の宮崎賢太郎氏による『潜伏キリシタン 知られざる信仰世界』(角川新書)の一部を抜粋。彼らの知られざる実態を抜粋する。

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なぜ今もカクレキリシタンはいるのか

 カクレキリシタンは今でも長崎県下にだけ、それも本当にわずかになってしまったが存在する。この事実を知った人たちは異口同音に、「この平和な日本で、なぜ今でも隠れてキリスト教を信仰しているのですか」という質問を発する。今でも隠れているという思い込みによる質問である。

 このような誤解を与えている元凶は、「隠れキリシタン」という言葉自体にあるので、今後は使用しないようにすべきである。江戸時代の禁教期の信徒を「潜伏キリシタン」、明治以降の禁教令が解除された後の信徒を「カクレキリシタン」と二分すれば、キリシタン史の理解がかなりすっきりとしてくる。


日本におけるキリスト教史(図版作成 小林美和子)

 筆者が聞き取り調査の際に、「あなた方カクレキリシタンは……」と尋ねたところ、「自分たちは何も悪いことはしておらず、逃げも隠れもしていない。そんな呼び方はやめてくれ」といわれたこともあった。もっともなことである。実態にぴったりとした名称に変えるのが望ましいのはいうまでもない。しかし、すでに市民権を得ている「カクレキリシタン」という呼び方をいまさら変更するのは思いのほか困難であり、さらなる混乱を引き起こすことにもなりかねない。

 カクレが存在するすべての地区で共通する名称があれば問題はないのだが、各地区で呼び方が異なっている。生月地方では「旧キリシタン」、「古キリシタン」など、平戸島の根獅子では「辻の神様」、長崎・外海地方では「旧キリシタン」、「昔キリシタン」など、五島地方では「元帳」、「古帳」といったぐあいである。

 世間にその存在が広く知られるようになった今、全地区を総称する場合、どうしても統一した名称が必要となってくる。そこで外部の研究者たちは、「納戸神」、「離れキリシタン」、「隠れキリシタン」といった名前で呼ぶようになったが、最も広く用いられたのが、「隠れキリシタン」という名称であった。

海外でも非常に注目されている「カクレキリシタン」

 今では当事者たちもその名前で呼ばれることにもすっかり慣れ、ほとんど抵抗なく平気でその名称を使っている。ただし、「KAKURE」という部分を文字で書き表す場合、漢字、平仮名、片仮名の三種類が可能だが、筆者は少しでも隠れているという印象を与えないために、音だけを示す片仮名で「カクレキリシタン」と表記することを提唱している。「かくれキリシタン」という表記も存在するが、平仮名と片仮名をつなげて一語とするのは異例な用法であり不自然である。

 最近では、カクレキリシタンは海外でも非常に注目されており、とりわけ欧米のキリスト教圏の人々の関心の高さは特筆に値する。筆者が知る限り、イギリスのターンブル氏(Stephen Turnbull)、コンゴ民主共和国のムンシ氏(Roger Vanzila Munsi)、スウェーデンのペラ氏(Kristian Pella)がカクレキリシタンで博士号を取得している。欧米の新聞社やテレビ局の取材も少なくない。

 今でもカクレキリシタンがいることを知った人の次の質問は、「何人くらい信者がいるのか」というものである。これがまた難問である。どのような人をカクレと呼んでいいのかという、はっきりとした線引きが困難だからである。

 現在では組織が解散してしまったところがほとんどであるが、解散しても個人的にカクレの神様を祀り続けている人は少なからずいる。祀るといっても、たいていは年に一回ないしは数回、お正月や、神様の命日などに、昔からの風習としてお供えをし、覚えている人は簡単なオラショを唱える程度である。

 カクレの神様への信仰そのものが残っているというよりは、これまで、家の神様のひとつとして長年祀ってきたものであるから、慣習としてやめるわけにもいかず、続けているというのが実態である。そのことをのぞけば、ごくふつうの仏教徒と何ら変わるところはない。このような人たちを今でもカクレキリシタンの信仰を守り続けている人として信者数に加えるのは、形式上も実質上も適切とはいえない。

 筆者は、カクレキリシタン信徒数に加えることができるのは、今でもカクレの信仰組織が残っている地区で、その組織の一員として認知されている人に限定するのが妥当と考えている。筆者が長崎県下でカクレキリシタンの調査を開始した昭和60年代の初め頃には、この基準に当てはまるのは、県下一円で400〜500軒程度、人数にして1500〜2000人程度であったが、現在では多く見積っても120軒弱、厳密にいえば80軒程度である。

出臼(デウス)、肥料(フィイリョ)とは?

 カクレキリシタンには、名前にキリシタンという文字がついてはいるが、本質的にキリスト教と認められる要素はない。彼らはキリスト教とはなにかという、根本的なことからしてほとんど何も伝えられてこなかった。キリストやマリアについては、そういった神がいるということ以外、まったくといっていいほど何も聞かされてこなかったのであるから、知らないのも当然である。

 たしかに彼らが唱えているオラショの言葉の中に、イエスのことがゼズス、ジェジュス、ジゾーウス、あるいは御身様(イエス)がヲンメサマ、ヲミシロサマなどとなまって出てくる。サンタマリアは、マルヤ(丸や)やハンタマルヤ(丸屋)などという名前で出てくる。

 しかし、名前は唱えていても、それがどのような存在なのかはわかっていないのであるから、オラショを通してキリストやマリアに対する信仰が守り伝えられてきたとみることはできない。

 230年の潜伏時代を経て呪文化してしまうのは自然のなりゆきである。潜伏時代にはオラショは暗記し、口伝で伝承されてきたが、伝えられたのは言葉の音だけで、言葉の意味はほとんどといってよいほど伝えられてこなかった。伝えようにも、宣教師が生き残っていたキリシタン時代の頃からして、民衆層はほとんどオラショの意味を理解できていなかったのである。

 口伝で伝えられてきたオラショは、おそらく大正時代か昭和の初め頃から備忘のために筆写されるようになったのではないかと思われる。耳で聞いたオラショの言葉を、そのまま片仮名や平仮名だけで書き写したものもある。それでは読んでもほとんど意味が理解できないので、筆写する際に、少しでも意味が通るよう、できるだけ漢字を当ててみようという努力がなされた。その当てられた漢字をみることによって、音だけで伝えられてきた意味不明な祈りの言葉が、どのような意味を持つと想像しながら唱えていたものか、その一端をうかがい知ることができて大変興味深い。

 例えば父なる神であるデウス(Deus)には「出臼」という漢字が当てられている。神の子たるキリストを意味するフィイリョ(Filho)にはなんと「肥料」を。サンタマリアには「三太丸屋」、洗礼を意味するバウチズモ(Bautismo)には「場移り島」、聖体を意味するエウカリスチア(Eucharistia)には「八日の七夜」、霊魂を意味するアニマ(Anima)には「兄魔」や「有馬」を、十字架のクルス(Cruz)には「黒須」、「黒瀬」といった漢字を当てている(生月島山田地区の手書きオラショノートより)。

 父なる神「デウス」のことをほんの少しでも理解していたら、「出臼」という漢字を当てることは絶対にしなかったであろうし、ましてやキリストを意味する「フィイリョ」に「肥料」はありえない。オラショの言葉を耳で聞く限り、450年以上前に宣教師たちが教えたものと、さほど大きく変わってはおらず、何の祈りであるかは、原典を知っている現代のわれわれにはほぼ推察できるものが多い。

オラショは真の信仰伝承の証明となるか

 カクレキリシタンの人々がオラショを唱えるのを聞くと、キリシタン信仰が今日まで伝えられてきた、まぎれもない証拠として感銘を受ける。しかし、それが真の信仰伝承の証明となるには、オラショの言葉の意味をある程度までしっかりと理解して唱えていたことが明らかにされねばならない。現代のひろい知識を持ったわれわれに理解できるからといって、彼らも同じように理解できていたものとつい思い込んでしまいがちである。過去のものを現代の尺度ではかろうとはしていないか、細心の注意が求められる。

 日本にやってきた外国人が着物を着て、スシが大好きという外面的なことだけで、内面まですっかり日本人らしくなったとみなすことはできないのと同様、十字架を首から下げ、オラショを唱え、十字の印を切っているからといって、それだけで敬虔なクリスチャンになったとみなすのは早計といわざるをえない。

彼らが拝んでいたのは「マリア」でも「キリスト」でもなかった…“カクレキリシタン”が200年以上守り抜いた“信仰の正体”〉へ続く

(宮崎 賢太郎/Webオリジナル(外部転載))