『ウィキッド 永遠の約束』©Universal Studios. All Rights Reserved.

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 今、日本で起きている『ウィキッド』の盛り上がりには、目を見張るものがある。前編『ウィキッド ふたりの魔女』は日本で累計興行収入35億円を突破し(※1)、後編『ウィキッド 永遠の約束』も公開3週で15億円を超えるヒットとなった(※2)。劇団四季版も2007年の日本初演以来ロングランを重ね、日本における『ウィキッド』の浸透ぶりはすでに十分証明されていると言っていい。

参考:『ウィキッド 永遠の約束』舞台版との決定的な違いとは? 映像で暴かれた“2人の共謀”

 だが、ここで改めて考えたいのは、その土台にある『オズの魔法使い』が、日本ではアメリカほど共有された物語ではないという点である。

『オズの魔法使い』はどのように受け継がれてきたか

 『桃太郎』『浦島太郎』のような日本昔話や、ディズニーを通じて親しまれてきた童話に比べると、『オズの魔法使い』はタイトルやドロシーの名こそ知られていても、かかしやブリキ男、黄色いレンガの道まで含めた物語の輪郭をすぐ説明できる人は、そこまで多くないのではないか。だからこそ、『オズの魔法使い』の文脈を前提にした『ウィキッド』がここまで広く届いたことには、本作ならではの強さがあることの証明でもあるように思う。

 もっとも、『ウィキッド』を語るときには、どの版を指しているのかを丁寧に分けておく必要がある。出発点はL・フランク・ボームによる1900年の児童文学『オズのふしぎな魔法使い』で、その後1939年のMGM映画が決定版的なイメージを広めた。さらに1995年にはグレゴリー・マグワイアが“西の悪い魔女”の側から世界を見直す小説『Wicked』を書き、2003年のブロードウェイミュージカル、そして今回の映画2部作へとつながっていく。

 そして『オズ』の物語は、ときに細部の揺れや食い違いを含んだまま受け継がれてきた。たとえばドロシーの靴は、ボームの原作では銀色だが、1939年の映画では有名なルビーの靴へと変えられている。そうしたずれもまた、『ウィキッド』という作品の背景にある豊かな混線の一部である。つまり現在広く知られている『ウィキッド』は、ひとつの原作からまっすぐ伸びた作品というより、複数の版の“オズ”を経由しながら育ってきた物語だと言っていい。

 その土台にある『オズの魔法使い』は、竜巻に飛ばされた少女ドロシーが、オズの国で仲間たちと出会い、エメラルドの都を目指す物語である。脳が欲しいかかし、心が欲しいブリキ男、勇気が欲しいライオンは、それぞれ自分に欠けていると思い込んでいるものを求めて旅をする。だが、その道のりの中で、彼らが探していたものはすでに自分の内側にあったことが明らかになっていく。

 家に帰りたいドロシーもまた同じで、この物語には「自分に足りないと思っていたものは、すでに自分の中にある」という感覚が通っている。さらには、偉大な魔法使いだと思われていたオズが、実は虚像をまとったただの人間だったという展開も含め、この物語は権威やイメージの危うさまで抱え込んでいる。アメリカで『ウィキッド』の反転が強く機能するのは、こうした寓話性が長く共有されてきたからでもある。

“オズ文脈”の翻訳・受容における難しさ

 ただ、冒頭で触れたとおり、日本ではこの“オズの物語の文脈”がアメリカほど浸透していない。実際に、劇団四季版『ウィキッド』のパンフレットでも、「“オズ”が身近にあるアメリカ人と違い、果たしてどれだけの日本人が、散りばめられたオズの要素一つひとつに反応し、最後にすべて回収された時の爽快感を楽しむことができるだろうか。人間の本質を描いたその部分は魅力である反面、翻訳では描き切れない複雑で繊細な表現のため、日本語版(舞台)ではかなり演出で補う必要があった」と記されている。海外で高い人気を保ってきたこの作品が、日本では別の課題と向き合ってきたことがうかがえる。

 海外の観客のように、一つひとつの引用や反転に即座に反応できるとは限らない。だからこそ日本で『ウィキッド』が届くためには、元ネタを知っていることによる快感だけではなく、それを知らなくても受け取れる物語の強さが必要だった。そして実際、今回の映画版の成功は、そのハードルを越えていくだけの強度が備わっていたことの証明でもあるように思う。

 前後編を通して、映画版の見せ場は、まずエルファバとグリンダの関係性そのものに置かれている。孤独で誤解されやすいエルファバと、愛される術を身につけたグリンダ。反発しながら近づき、理解し合えそうでありながら、立場と選択の違いによって決定的に離れていく。前編が強かったのは、この2人のドラマが『オズ』の知識の有無とは別に、友情や憧れ、嫉妬、喪失の物語としてしっかり成立していたからだろう。後編はより『オズの魔法使い』本編へと接近しながらも、「この2人はどうなってしまうのか?」が気になる構造に変わりはない。

 そのうえで後編の巧さは、「カンザスから来た少女」の登場や「黄色いレンガの道」の開通式などを通して、物語の輪郭が少しずつ『オズの魔法使い』へと重なっていくところだ。しかも映画は、固有名詞や設定を説明的に並べるのではなく、人物の配置や画面の情報量によって、その重なりを感覚的に伝えていく。ドロシー本人を前面に押し出しすぎなくても、今起きている出来事が、やがてドロシーたちの旅が始まる世界へと続いていくことはわかる。このさじ加減がうまい。

ブリキ男誕生の衝撃 そして、その流れの中で特に印象的なのが、魔法をかけられたボックがブリキ男へと変わっていく一連のシーンだろう。ここで映画は、心臓を失い、身体そのものを別のものへ変えられてしまう恐ろしさを、不穏な場面の運びによって先に観客へ味わわせるのである。閉ざされた部屋の中で何が起きているのかはすぐには見えず、彼が苦しむ気配だけが先に伝わってくる。扉が開いたときには、もう元には戻れない。その見せ方は、「ブリキ男の成り立ち」を知識としてなぞるというより、ひとりの人物が取り返しのつかないかたちで変えられてしまったという衝撃を、まず身体感覚として受け取らせるものだった。ここには、他の媒体にはない映像ならではの怖さがある。

 一方で、映画がすべてを均等にわかりやすくしているわけでもない。ボックがやがてブリキ男として現れていく流れは比較的受け取りやすいが、フィエロがかかしになっていたことまで、完全初見で明確に受け取れる観客はそこまで多くないだろう。何が起きたのかは掴み切れなくても、「とにかく彼は生きていた」と受け止めた観客も少なくなかったはずだ。

 だが、この映画はそうした理解の差を抱えたままでも、感情の流れでは観客を置いていかない。そして『ウィキッド 永遠の約束』が日本でも届いた理由は、まさにこの二層の作りにあるのだと思う。

 『オズ』を熟知していなくても、エルファバとグリンダの切実な物語として胸を打つ。その一方で、元ネタを知っていれば何が起きるかを知っているからこそ、映画がそれをどのような画として、どのような感情の運びで見せるのかにも注目したくなる。入口は広く、奥行きは深い。その設計の確かさこそが、『ウィキッド』が日本でも受け入れられた大きな理由だったのではないだろうか。

 『ウィキッド 永遠の約束』は原作を持つ作品ではあるが、古典をそのまま映像化した作品というより、古典的な物語の系譜を別の角度から更新し直した作品として見るほうが近いのかもしれない。最近では『超かぐや姫!』が、古典や昔話をそのままなぞるのではなく、現代の感性や別ジャンルの文法で大胆に組み替えた作品として話題になったが、『ウィキッド』もまた、広く知られた物語の枠組みを借りながら、現代の観客に届く物語として新しく息づかせている作品だと言えるのではないだろうか。

参照※1. https://wicked-movie.jp/news/in55/※2. https://wicked-movie.jp/news/in89/(文=すなくじら)