宮内庁の公式インスタグラムより

写真拡大

自民党が先の総選挙で圧勝したことによって、いわゆる「旧宮家」の皇籍復帰案の実現可能性がこの上なく高まった。高市首相が目標に掲げる皇室典範改正は、そう遠からず実現することになるのではないか。

ところでその現皇室典範は、第6条において次のように定めている。

「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする」

あくまでもこの条文に従うのであれば旧宮家の男系男子は、法律によって直接復帰する場合はもちろん、養子縁組で復帰する場合でも、天皇から三世以下の「王」と位置付けられる可能性が高い。

悠仁親王殿下にもしも男子がおいでにならなければ、傍系皇族である王がその次の天皇になると予想できるわけだが、王という身位は昭和22(1947)年10月以来、約80年間にわたって不在が続いている。これは皇室史上、最長の空白期間であるという。

「王の不在期間の新記録は、日々、更新され続けているが、この事実を認識している人は、きわめて少ないであろう」――赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、2020年)。

それゆえに現代人にとって、王を意識する機会は皆無に等しい。そこで戦後の国会議事録を読み解いてみたところ、皇室の一員としては頼りない王の立場が浮き彫りになった――。

王は事実上「皇籍離脱の前段階」

皇室経済法は王の歳費について、親王の「十分の七に相当する額」と定めている。同じ男性皇族間でもこのように格差があるのは、憲法改正担当大臣だった金森徳次郎氏によれば、王は即位する可能性が親王よりも低いからだという。

「皇位継承の順位に非常に近接したる方に対しましては、その点を考えて金額を多からしめなければならない、しかしそれよりも非常に遠い方につきましては、みづからその経済等を自主的にお考えになり得る場面も自然多くなつて来るものと考えられまする」(衆議院皇室典範案委員会、昭和21年12月12日)

一見もっともな理屈のように思えるが、親王がおらず王が皇位継承者とみなされる状況であっても、王の歳費が増額されることはない。この一点だけでも、弾力性に欠ける制度であると言わねばなるまい。

なお、親王の範囲については、旧皇室典範では四世までとされていたのだが、現皇室典範では先述のように二世までと範囲が狭められた。その理由については次のように説明されている。

「皇位を御継承になることについて密接に関係のある方は二代である、四代ではないという暗示を出しておきました、その気持はこの典範の中に現われておるのであります」(衆議院皇室典範案委員会、昭和21年12月11日)

さらに付け加えると、金森氏は一週間後の18日には、親王の範囲を狭めたのは「皇位の継承が何等の断絶なくなだらかに行はれて行きまする一面」などを考慮した結果であるとも述べている。

新たな皇室制度が設計された当時、王が皇位継承者になる事態はほとんど想定されなかった。王はもちろん皇位継承資格を持つものの、現実的には「皇籍離脱の前段階」程度の存在にしか捉えられていなかったのである。

典範改正なら「親王の範囲」も再検討すべし

以上のことから、たとえお迎えした時点では王であるとしても、ゆくゆくは親王として処遇することが望ましい。そのためには、歴代天皇の孫までという親王・内親王の範囲についても再検討すべきではないだろうか。

そもそも論として、現在の皇室典範は、一般国民のみならず皇室にも影響を及ぼしている「少子化」という深刻な社会問題をまるで想定していない。

現皇室典範が制定された昭和22年当時、合計特殊出生率は4.54もあり、時の昭和天皇には6名もの皇子女がおいでになった。親王・内親王の範囲を「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫」までとする規定は、そのような時代の産物であることも考慮すべきであろう。

現典範が親王を二世までとしているのは、四世まででは「広すぎる」という考えのもとに、皇兄弟・皇子のみを親王とする継嗣令(律令時代)と旧皇室典範との中間を取った「折衷的なる規定」であり、採用されてからの歴史はけっして長くない。

親王の範囲は、歴史的にみても一定ではなかった。だからこそ、二世までという規定を金科玉条とすることなく、社会情勢の変化に合わせて柔軟に対応すべきだろう。旧典範と現典範との折衷として、新たに三世までとすることを考えてもよいのではないだろうか。

皇族数確保に向けての議論は、 あくまでも「皇位継承の問題とは切り離した上で」行われるものとされている。これを単なる建前とはせず、明治19(1886)年を最後に行われなくなった「親王宣下」の復活など、さまざまな方策を広く検討してもらいたい。

文/中原鼎 内外タイムス