そのように、時代のなかで翻弄される男の姿を映し出すことは、屈折したナルシシズムの一種であるように感じられる。

■40作目となる『クライ・マッチョ』と初監督作品との共通点

そんなイーストウッドは、本作『クライ・マッチョ』でも描かれるように、女性に振り回され痛めつけられる存在を、進んで演じてもいる。

それは、三島由紀夫がたくましい男性の肉体に矢が刺さる絵画に恍惚を感じ、メル・ギブソンが監督として、キリストへの拷問を描くことに執着したように、やはり男性的なナルシシズムの発露であると分析することもできるだろう。

イーストウッドの初監督・主演作『恐怖のメロディ』(1971年)は、主人公の男性が悪質なストーカーと化した女性に苦しめられ続ける映画だった。

ここで描かれる、魅力的な男性の危機は、正当防衛としての「鉄拳制裁」によって、ある種のカタルシスとともに決着がついてしまうこととなる。

この事実は、イーストウッドが初期から、男性の主体的なあり方と美学を描き、それが社会の倫理観との軋轢を引き起こしているという、まさに現在大きな関心が集まっているジェンダーと男性性をめぐるテーマに、マッチョな男性側からの視点を含みながらフォーカスしてきたことを示している。

■イーストウッド自身もまた、変化する時代のなかで翻弄されている

過去に市長を務めたこともあるイーストウッドは、政治的には穏健な保守派の立場をとっているということもあり、異なる人種同士の結束や共闘が描かれた『アウトロー』(1976年)や『インビクタス / 負けざる者たち』(2009年)など、多様性や差別の是正に関心が向いている監督作や、女性の困難な現実における葛藤を描いた『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)、『チェンジリング』(2008年)を撮っている事実もある。

とはいえ、注意深くそれらの作品を見ると、そこで描かれたり、あるいは底流に潜んでいたりするものが、これまでイーストウッドが体現してきた男性の美学の変奏ではないのかと思える瞬間が少なくない。

そんな作家性を持つイーストウッドが、近年のハリウッドにおける劇的な変化のスピードに対応するのに苦労しているのは、当然といえるかもしれない。

実際、事実を基にした『アメリカン・スナイパー』(2014年)では、創作部分でイラクについての偏見を煽るような誇張された描写が物議を醸したり(*3)、『リチャード・ジュエル』(2019年)に至っては、実在の女性をモデルにした登場人物の描き方について訴訟を起こされる事態となり(*4)、アメリカでの興行収入に影響するなど、過去なら許容されていたかもしれない表現の一部が、近年のアメリカ社会のなかで看過されづらくなってきているのである。

このような状況に異議を唱える者も少なくない。イーストウッド監督は、とくに日本の映画評論において神格化されている向きもあり、政治的志向による作品への批判を、芸術的な面から受け入れられないとする意見も多く見られる。

ただ留意しておきたいのは、アメリカで同様の批判にさらされているのはイーストウッドだけではないということだ。

作品が現実の社会の偏見を煽ったり、個人を傷つける要素があるのだとすれば、その点において、巨匠であっても容赦なく批判を浴びせるアメリカ社会の反応は、むしろ健康的だ。そしてその事実は、アメリカ社会にとって、それらの問題がより切実なものだと考えられている証左でもあろう。

■かつての「男らしさ」が通用しないなか、1970年代を生きる時代錯誤のカウボーイを演じる

本作『クライ・マッチョ』の興味深い点は、家父長的な価値観を否定する現在のアメリカ映画界の視点に配慮したうえで、イーストウッドが「イーストウッド像」を振り返るものとなっているところだ。それはさらに、「クライ・マッチョ」というタイトルそのままに、これまでの理想的な男性像が通用しなくなっているという、現在のイーストウッドにとっての悲痛さを含んだ状況をも物語る。