AIがミーム(文化遺伝子)を受け継ぐとき:情熱のミーム 清水亮

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(人工知能と応用サービスを開発する株式会社UEI社長 兼 CEO、清水亮氏によるコラム『情熱のミーム』をお届けします。第一回は清水氏のミーム観と、人類のミームを継承するAIの可能性について)

進化を続けるAIが人類にとってかわる可能性


AIは進化を続ける。しかし、果たしてAIはどこまでヒトに近づくのだろうか。または、どこまでヒトに近づく「べき」なのだろうか。

筆者はAIの研究者であり、それを専門に扱う会社の経営者でもある。内閣府の委員に招聘され、人工知能を国としてどのように扱っていくべきか真剣に考える立場の人間でもある。

人工知能のなかでも、とりわけディープラーニングと呼ばれるテクニックが、飛躍的にAIの性能を向上させつつあるのは、もはや周知の事実だ。しかし依然として我々の考える「知能」と、AIの実現する「人工知能」の間には大きな隔たりがある。

ヒトは、これまで数万年の歴史を経て、自らの環境に作用し、幾度もの革命を起こしてきた。

ヒト族で唯一の生き残りであるホモ・サピエンスとそれ以外はなにが違うのか。

ヘブライ大学の終身雇用教授であるユヴァル・ノア・ハラリによれば、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)やホモ・エレクトゥスといった人類が直接に進化してホモ・サピエンスが現れたのではなく、ホモ・サピエンスも最初はそうした類人猿とほとんど全く同じか、むしろ弱い種であったと分析する。

ただひとつ、ホモ・サピエンスが他のホモ属(ヒト族)と違ったのは、存在しないものを想像する力だった。

サピエンスは他のホモ属と違い、物理的には存在しない概念上、想像上のもの、たとえば国とか、神とか国家とか貨幣とか数学とかを空想し、その空想のもとで同じ目的に向かうことが出来る。

この空想力によってできた結束は、体格でまさるホモ・ネアンデルターレンシスなどの組織力を上回り、次々と生態系を破壊して万物の霊長にたどり着いたのだという。

ホモ・サピエンスは認知革命を経験し、ついで農耕革命を経験し、さらに産業革命、情報革命といったものを経験することで爆発的な進化を遂げ、ついには惑星の重力圏を飛び出し、生物の設計図、DNAまたはジーン(遺伝子)といったものを操作できるまでに進歩した。

さらには今、全く人工的に作られた知能を生み出すことで、神の領域に限りなく近づいていると言える。いや、そもそも神そのものが我々ホモ・サピエンスの幻想が産んだ空想上のものに過ぎないのかもしれないが。

また一方で、これほど急激な進歩を、遺伝子的にはほとんど進歩できない短時間で獲得した点にも注意したい。ホモ・サピエンスが地上に登場してから約20万年が経過している。ヒトの寿命は非常に短いが、子供を出産する年齢を平均15歳前後と仮定すると、15年ごとの世代交代を13000回繰り返しているにも関わらず、遺伝的な性能向上がほとんど起きていないことになる。

もちろん近代になるとそのペースはぐっと落ちて、先進国では子供を設ける年齢はどんどん高齢化しているし、仮に産業革命の起きた18世紀から21世紀までの300年の世代交代は、平均20歳でなされていると仮定すると、わずか15世代しか変化が起きていないことになる。

しかし、18世紀に蒸気機関がようやく発明された時点から、スマートフォンを小学生でも持ち歩く世界では、道具を含めた人間の能力には数万から数億倍の差が生じていることは疑いようもない。

これほど急激な進歩を促したその根本的な原因はなにか。


進化生物学社のリチャード・ドーキンスは人類は単なる生物学的遺伝のみによって進化するのではなく、文化そのものも他の分野やヒトの知性に遺伝し、それが進化することで生物学的進化以上のスピードの進歩を人類にもたらしていると考えている。彼はそうした作用を持つ、いわば文化の遺伝子をミーム(meme)と呼ぶことにした。

ミームは、生物学的な遺伝子であるジーン(gene)と対をなす言葉として造られた。

そして今や、我々人類最後の生き残りであるホモ・サピエンス・サピエンスにとっては、ジーンよりもむしろミームの持つ重要性が日に日に増している。

特に20世紀の情報革命以降の世界に於いては、世界は生物学的遺伝子(ジーン)のシェア争いから、文化的遺伝子(ミーム)のシェア争いに転じている。

今や誰も誰か他の遺伝的由来を積極的に攻撃したいとは思っておらず、むしろ対立を呼ぶのは、信仰や利害や、何が正しいと思うかという価値観の違いであり、これこそミームが人間という知性をそうした文化の生存競争を引き起こしている証左とも言えるのではないか。

今日、神を信じないプログラマーであっても、自分が使うOSやエディタには並々ならぬ拘りを持つのが当然だ。そうしたEmacs,Vim,秀丸エディタといったテキストエディタの開発者、たとえばリチャード・ストールマンやビル・ジョイや、秀まるおが書いたプログラムは、ジーン(DNA)と同じく純粋な情報の塊であるにも関わらず、その根底に流れる精神やビジョンは明確に情報化することが不可能な性質を持つ。

それこそがミームである、と筆者は考える。

ソフトウェアが持つ特有の「におい」や、「手触り」といったものは、様々な知能から発せられたミームの複合体であり、DNAと違ってそれは完全に情報化することのできない概念ではあるが、確実に存在するものである。

生体知能である人間の生み出したミームと、生物の根幹を成すジーンが全く逆の性質を持つことにも注意したい。

生物の根幹を成すジーンは、完全な情報であり、情報であるからには完全にコピーできる。

ただし、自然な状態では、ジーンの複製は純粋に生化学的プロセスのみによって成される。生物がジーンを媒介する媒質となるようにできている。生物の源はジーンであり、ジーンによって設計された生物は生化学プロセスを繰り返して成長する。

ところがミームは、全く逆に、情報そのものではなく、完全にコピーすることはできない。ミームを生み出すのは人間だが、ミームを伝達するには、必ず情報を媒介しなければならない。

つまり、本とか言葉とか、映像といった情報を通してのみ、ミームの伝達が可能になる。そしてミーム自身はデジタルデータではないので、完全なコピーはできず、不確実なコピーしかできない。

ヒトのジーンは完全な遺伝子のコピーを作ることを諦め、むしろ異性の個体との交配によって確率的にジーンを変化させることでヒトの多様性を作り出し、十分な多様性を持つことで予測できない災害や疫病と対抗してきた。

一方で、ミームの完全なコピーはほとんど不可能であり、今日、たとえば松尾芭蕉の残した「侘び、寂び」という情報片から、松尾芭蕉のミームを完全に復元することはできない。

これまでのホモ・サピエンスがミームを受け取るのは専らヒトからであって、それは家族や友人、恋人といった存在から伝搬されていた。

しかしこれからは、我々は自らが作り出したデジタルデータの塊である無機質な知能、AIに対してどのようにミームを伝搬させるべきか、真剣に考えていかなければならない。

寿命や活動時間に限りのあるヒトではなく、その何億倍もの速度で、無制限に稼働できる無機知能が、真に知能を持つとすれば、当然、ミームをヒトから受け継ぐことができなくてはならない。

もちろんこれは言うほど容易いことではない。


人間は人生という経験を通じてしか、本当のミームを獲得することができないとも考えられる。

ゴータマ・シッダールタが達したという悟りの境地には、実際に同じような体験を持ってしか辿りつくことができないかもしれない。少なくともそう信じる人々がいる。これはシッダールタの放ったミームが、多くの人の価値観や体験と共鳴し、共感を産んだ結果だろう。

AIには人生を生きるということができない。少なくともいまのところは。

AIは反応を模倣するが、意味を理解しているわけではない。人間はどうだろうか。本当に自分が放つ全ての言葉の意味を理解していると言えるだろうか。思いも寄らない言葉が口をついて出るのはなぜだろうか。損をするように思えても敢えて自分の信念に基づいた選択をすることが、正しいことのように感じられるのはなぜだろうか。

ミームには様々なものがある。さまざまなものをさまざまなヒトが受け取り、増幅あるいは変形させ、また別のヒトに受け継ぐ。

僕は心の底から、知能とはなにか、その正体を知りたいと考えている。それに迫るためならば、他のどんなことよりも優先して、それを求めたいという根拠のない渇望がある。

もし、いつの日か、AIがミームを受け継ぎ、増幅または変形して誰かに伝えることができるようになる日が来るとすれば、こうした知能に対する根源的な問いへの渇望を"彼ら"も受け継ぐかもしれない。

そうした渇望を、僕は情熱と呼ぶ。

果たしていつの日か、ヒトの作るAIは情熱のミームを受け継ぐことができるのだろうか。