第一次世界大戦を経てロシアから独立したポーランド。しかし、すぐにロシアとの戦争が勃発し、極寒の地シベリアには多くのポーランド人の孤児がとり残されます。彼らの救済に乗り出したのが、当時の日本赤十字社でした。その顛末を描いた物語が、無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』で紹介されています。

【参考記事】多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話



『子どもの心に光を灯す日本の偉人の物語』白駒妃登美・著 致知出版社

日本人が、古くから大切にしてきたものの中に、「惻隠(そくいん)の情」があります。しばしば「思いやりの心」と訳されますが、惻隠の情と思いやりの心は、まったく同じというわけではありません。

思いやりの心を持つことは、もちろん大事ですが、困っている人を見たら、放っておけない、つい手を差し伸べてしまった……。そんな、やむにやまれぬ思い、行動を伴う思いやりが、「惻隠の情」なのです。先人たちが大切に育んできた美徳を、当時は、幼い子どもたちまで共有していたんですね。

看護婦をしていた松澤フミさんという若い女性は、腸チフスにかかった子どものそばを、片時も離れませんでした。当時、腸チフスは、罹ったら最後、十中八九、死に至るといわれていました。

「この子は、もう助からない。それなら、せめて私の胸の中で死なせてあげたい」と、フミさんはいっていたそうです。

彼女の献身的な看護を受け、その子は奇跡的に回復しました。でも……。松澤フミさんは、このときの看病がもとで、腸チフスに感染し、亡くなったのです。

また、こんなポーランドの女の子の回想もあります。

ひどい皮膚病にかかっていた私は、全身に薬を塗られ、ミイラのように白い布に包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると、布から出ている私の鼻にキスをして、微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました。

日本に到着したとき、子どもたちは、みな青白く痩せこけていました。内臓の病気や皮膚病を患っていたり、栄養失調になっていたり……。

そんな彼らが、ひと夏を日本で過ごし、人々の愛情に包まれ、まるで別人のように元気をみなぎらせていったのです。

それは大変に喜ばしいことではありましたが、しかし、それは同時に、子どもちが故国ポーランドに帰る日が近づいていることを意味していました。

誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に……。

子どもたちは、そんなふうに感じてくれていたそうです。

そして、お別れの日。送られるポーランドの子どもたちも、見送る日本人も、涙、涙、涙……。

765名に及ぶポーランドの子どもたちは、故国ポーランドに向けて、順次旅立っていきました。

子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、一人ひとり毛布を首まで掛けては、子どもたちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。

「もしお父さんが生きていれば、お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ」

と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。

この子たちは、帰国後、孤児院に収容され、それぞれの人生をたくましく生き抜いていくことになります。

たったひと夏の経験でしたが、日本人から受けた愛情が、彼らの生きる力になったことでしょう。

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出典元:まぐまぐニュース!