斉藤ナミ「とうとう、私も嫉妬される側に!成功することは誰かの反感を買うことと同義なのだ」
noteが主催する「創作大賞2023」で幻冬舎賞を受賞した斉藤ナミさん。SNSを中心にコミカルな文体で人気を集めています。「愛されたい」が私のすべて。自己愛まみれの奮闘記、『褒めてくれてもいいんですよ?』を上梓した斉藤さんによる連載「嫉妬マニア」第26回は「〈嫉妬の専門家〉を自称していながらいざその矢印が向けられると、ギャフン!だった」です
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前回「宗教2世の私は、母をまっすぐ愛せない。かつて私を〈愛のむち〉で打ち据えたあの手はすっかり老いて」はこちら
私が嫉妬される側に
「私はナミさんに嫉妬してます」
あるトークイベントに出演したときのこと。イベント後のサイン会で順番が回ってきて、私と対峙した彼女は、第一声でそう言った。
「そ、そうなんですね……」
私は引きつった笑顔で狼狽した。まさか、そんなことを面と向かって言われるなんて。
そのイベントは私の出版記念で、承認欲求や嫉妬など自分の内面のドロドロした感情についてさらけ出していた。私が本音を話したからこそ、彼女も自分の中の毒を吐き出さずにはいられなかったのかもしれない。
「嫉妬の専門家」なんて自称しておきながら、いざその矢印が自分に向けられると、ギャフン! だった。
動揺する私の脳裏には、思い当たる節があった。
彼女とはちょうど同時期に同じような媒体でエッセイを書いており、ここ数年間はお互いの作品をSNSで褒め合うような関係だった。けれど、私は彼女より一年早く出版に至り、次第にタイムラインでの交流も少なくなっていった。
そりゃあ彼女からすれば、同じ場所で走っていた私が先にスポットライトを浴びて、檀上から「嫉妬とは」なんて高説を垂れていたら、悔しくて仕方ないだろう。なんで自分じゃなくてあいつなんだ……と思われていたこと間違いなしだ。
もし私だったら相手の出版記念イベントなどに行けるかどうか自信がない。SNSもミュートかブロックしてしまうかも。
とうとう、私も嫉妬される側になったのだ。
成功することは誰かの反感を買うことと同義
本当はいつかこういう日が来ることを察知していた。だからこそ私はマメに「不幸の偽装工作」をしてきたのだ。
朝一番で牛乳を盛大に床にこぼした画像。死ぬほどブスに写っている顔。友達がいなくて一人でアフタヌーンティーに挑戦して惨めな思いをしたこと。それらのいわゆる「自虐ネタ」をSNSに放流しながら、私の脳内には「しめしめ。これなら私の株は下がる(かつ面白い)。」という下品な計算が走る。
私は日々こうして自分を滑稽に見せ、嫉妬の対象から逸れるように努力している。向けられるかもしれない悪意に先行して「自慢していると思われたくない」と自分を縮めて見せるのだ。
なぜそこまで怯えるのか。
遡れば6年前。あるエッセイのコンテストで優勝したことをきっかけに、創作仲間たちが一斉に私のもとを去った記憶がある。
SNSで「めちゃくちゃ笑った!」と作品が拡散され、大物ライターから「第二のさくらももこなんじゃ……」とまで言われて有頂天だった私は、
「文章下手すぎ。どこが面白いの?」
「インフルエンサーに媚びを売ってる。卑怯。」
「人を傷つける文章。ネットから消えろ。」
という知人たちの言葉に深く傷つき、一度は書くことを辞め、生きる意味まで見失い、6キロ痩せた。
あのとき私は学んだ。成功することは誰かの反感を買うことと同義なのだと。

(写真:AdobePhotoStock)
登っても登ってもまだ登らなければならない
コメディエッセイストとして、読者を少しでも笑わせたいというサービス精神は嘘じゃない。けれどその裏側には、笑われることで「こいつは自分より下だ」と思わせ、相手の嫉妬心を無害化しようとする、ずる賢い私も常に張り付いている。
「私はそんなに優秀ではないです。脅威じゃないですよ」と相手のふところに滑り込もうとしているのだ。
また、どれだけ企画書がボツになり、アクセス数が振るわず、「もうやめたい」と筆を投げ出したくなったか、そんな泥臭い過程も積極的にこぼしている。
「こんなにさらけ出していますよ」とアピールするため。そして「私は棚からぼた餅でここにいるわけではない。これだけ傷つき、這いずり回って、ようやく少しだけうまくいっている」と免罪符を得るためだ。
嫉妬されないための努力に余念がない。そうでもしないと安心して評価を受け取れない。みじめな自虐、さらけだし、血の滲むような努力の形跡を鎧にして、なんとか嫉妬の矢をかわし続けてきたつもりだ。
しかし実態はどうだ。少しずつ読まれるようになったって、私は相変わらずこんなにも必死に自分の欠損や承認欲求と戦っている。
登っても登ってもまだ上に登らなければならない。一度、他人からの評価や承認という麻薬を打たれてしまったら最後、次はさらに大きな数字を、さらに高い評価を、と思ってしまうのだ。

(写真:AdobePhotoStock)
前回より少しでも数字が下がれば「もうダメだ、私なんて誰からも必要とされてない」と落ち込み、絶望を感じる。どこまで行っても満足できない。この依存症に終わりはない。
こちらはズタボロで這いずりまわっているつもりなのに、周りからは余裕で軽々とこなしているようにでも見えるのかもしれない。そこに成功者の余裕なんて一ミリも存在しないのに。
自虐という盾で顔を隠しながら、体は必死に前へ前へと這いずっている。このねじれた強欲さこそが私という人間の正体なのだ。
冒頭の彼女が大ブレイク
そうこうしているうちに、冒頭の彼女がなんと大ブレイクした。今では私の数倍もすごいエッセイストになった。
本も売れまくっており、日本中から大注目されている。完全に逆転したタイムライン。もちろん今では私が彼女に猛烈に嫉妬している。ぐぬぬぬ。悔しい。
やはり、嫉妬の正体は「自分もそこへ行ける」という可能性の証明書だ。彼女はそれを証明した。
ほらね。「嫉妬マニア」の言う通り!(最大限の強がり)
彼女は今頃、私を上から見下して勝ち誇っているんだろうか?
いや、そんなわけない。
私を抜き去った彼女もきっと、さらに上に登りたい、そこから決してずり落ちないように、と踏ん張ることしか考えていないはずだ。
彼女も、あの人も、その人も。みんなそれぞれ自分の人生を走るのに必死なんだ。誰も私のことなんて見ていない。

(写真:AdobePhotoStock)
登りつめた人でさえ、嫉妬の炎から逃げられない
先日、映画『爆弾』の演技が話題となり、日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞した佐藤二朗さんのスピーチを観た。あれほど名実ともに認められた人なのに「嫉妬して、悔しくて、日本映画を見られない時期があった」という話をしていた。
あんなに登りつめた人でさえ、嫉妬の炎から逃げられないのだ。
「余裕しゃくしゃくで下を見下す成功者」なんてこの世のどこにも存在しないのかもしれない。
わかっているのに、ねじれてしまう。
どうしても、上にいる人は私を見下して「あー絶景だなあ。それに比べてあんたは……プププ」と嘲笑っているように感じてしまう。なぜ下から見上げると、こうも余裕そうに見えるのだろうか?
私の自虐工作だって、とっくにみんなに見透かされているかもしれない。「ほら。私はこんなに惨めで、ダメな人間なんですよ」と不幸を差し出すその手つきに「だから私を嫌わないで。愛して」という卑屈な下心がベッタリと張り付いていることを。
そうまでして守りたい「愛される私」は、結局いつも誰かと比較して震えているだけだ。
きっと私の工作も、成功も、他人にとっては一瞬のノイズに過ぎない。何やってんだろう、私は……。自分だけが人間として未熟で、嫉妬深くて、愚かな人間な気がしてくる。
嫌われたくない。でも認められたい。二兎を必死で追う強欲な姿こそが、何より滑稽で無様な姿であることを、読者は冷ややかに見抜いていて哀れに思っているかもしれない。
それでも、結局は誰かを嫉妬させるような発信を止められないし、この「書かずにはいられない」という病は、もう治しようがない。
自意識をパンパンに膨らませ続けることに少し虚しさを感じ始めているけれど、すぐに引き戻され、また次の原稿を書き始めている。
