引退後「借金の無心」で強盗殺人を犯した青学のエース、明治大学の練習を見学して「プロ入り」を決めた取手二高の主将…1984年ドラフト2位の面々
プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第5回「1984年のドラフト会議」(後編)
【前編を読む】「高校生投手5人」が1位指名されるも鳴かず飛ばず…1984年ドラフト会議で出世頭になった「打者の名前」
打高投低のなか活躍した唯一の投手
1984年度のプロ野球ドラフト会議において、夏の甲子園を制した取手二高の石田文樹と吉田剛は、高い前評判の割に1巡目で名前が呼ばれることはなかった。
あれから42年が経ち、11月で還暦を迎える吉田剛は「1位指名がないことはわかってたよ」とにべもない。
「一番熱心だった西武のスカウトが、あらかじめ『2位で行くからな』って言うてた。こっちとしては『ああ、そうですか』って感じ。別に不満なんかない。『そんなもんかな』っていうのもあるし、あの年は広沢さんとか大卒の選手が多かったん違う?」
吉田も言うように、西武ライオンズは11月6日に球団事務所でスカウト会議を開き「1位広沢」をここで確認している。当時の西武ライオンズの一塁手はベテランの片平晋作だが、仮に広沢克己の交渉権を引き当てたら、片平を負担の少ない指名打者に回して、広沢にレギュラーポジションを与えるプランがあった。「歴史にifはない」と言うが、もし、ここで西武が広沢を入団させていたら、翌年、清原和博を1位指名することはなかったのかもしれない。
「プロのスカウトが『2位で』って言うんやから何も不思議なことはない。ただ『そんなに簡単に入れるもんかな』って半信半疑ではあったけど」(吉田剛)
2巡目が始まった。阪神と大洋と日本ハムが新日鉄大分の内野手・日野善朗を指名し、抽選の結果、またも大洋が交渉権を獲得。クジ運の強いところを見せつけたが、1位指名の竹田と同様に、2位指名の日野もプロで活躍することはなかった。
1巡目で指名が見送られた青学のエース・小川博は、阪急とロッテが指名し、抽選の結果、ロッテが交渉権を得た。打高投低となったこの年の新人の中で、小川博は活躍した数少ない投手の一人である。
サイドスローから繰り出すシンカーを武器に、1年目から先発ローテーション入りした小川は、88年は10勝9敗、両リーグ最多となる204奪三振。オールスターゲームにも選ばれ、伝説の「10・19」ではダブルヘッダー第1試合に先発登板している。
92年の現役引退後は、一軍と二軍のトレーニングコーチ、球団職員を務めたが、多額の借金を抱えていたこともあり解雇。産業廃棄物の会社に再就職するも、2004年11月18日、借金の無心のため勤務先の会長宅を訪ね、これを断った家政婦を殺害。強盗殺人容疑で逮捕され無期懲役の判決が言い渡される。現在は千葉刑務所に服役している。
2巡目の単独指名の選手には、正田耕三(広島)、湯上谷宏(南海→ダイエー)、秦真司(ヤクルト→日本ハム→千葉ロッテ)といった、その後、球界で長く活躍する野手が目立つ。3巡目では宮本和知(巨人)、和田豊(阪神)、熊野輝光(阪急→オリックス→巨人)、山崎慎太郎(近鉄→ダイエー→広島→オリックス)といった面々が指名され、それぞれ主力選手として息の長い活躍を見せた。
吉田剛も西武の単独指名になるかと思われたが、相思相愛の関係に割り込んだのが近鉄だった。しかも抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得する。
このとき、吉田剛の指名を強く主張したのが、木庭教と並ぶ名スカウトとして球史に名を残す河西俊雄だった。もとは内野手として南海ホークスと阪神タイガースに在籍。戦後間もない1946年から3年連続で盗塁王にも輝いた「球界の生き字引」とも言うべき存在である。
現役引退後、阪神二軍監督を経てスカウトに転身した河西は、藤田平、江夏豊、掛布雅之、山本和行らを発掘し、近鉄移籍後も大石大二郎、金村義明、小野和義といった主力選手を見出した。高卒と若く、走攻守揃った吉田剛は、河西好みの選手だったのだ。
「4年間がもったいない」
指名直後、学校を訪ねたスポーツ紙の取材に対し、17歳の吉田剛は「ちょっと遠いけど野球をするならどこでも一緒。やるっきゃないですね」(『スポーツニッポン』1984年11月21日付)とはにかみながら述べている。
事実上の入団宣言とも言えるが、吉田の入団交渉はここから二転三転する。翌日、吉田の自宅に西武のスカウトから連絡があったのだ。
「いいか、近鉄には行くな。大学で4年間頑張るんだ。そうしたら4年後、必ず指名するから」
言うなれば「囲い込み」で、そこから、吉田剛は一転して「入団拒否」の姿勢を露わにする。
「西武のスカウトにそう言われたら『やっぱり、西武がいいか』ってなったんよ。関東だし、母親も『大阪は遠い』って言うし、学校は最初から大学進学に賛成だったし。ただでさえ、推薦入学の話が山ほどあったから『とりあえず、大学の練習でも見に行くか』ってなったわけ」
このとき、吉田が見学に行ったのが明治大学野球部の練習だった。しかし、これが吉田の運命を変える。
「こんなこと言っては申し訳ないけど、正直言って、レベルが高いとは思わんかった。『ここで4年間過ごすのはきついなあ』って結構、悩んだよね。おそらくだけど、当時の東京六大学のレベルは決して高くなかったと思う。それを目の当たりにしたから『4年間がもったいない』って思って、すぐ近鉄に返事することに決めた。後悔? 全然ない」
「大人になった今となっては、よくわかるんだけど、大学で4年間頑張ったからって、西武が指名してくれる保証はどこにもないからね。だから、ベストの選択だったと思う。しかし、人生ってわからへんもんやで。これで俺の人生は変わったんよ。だって、近鉄が指名してなかったら、こうして大阪に40年以上住み続けることはなかったし、こんな風に新地で店をやることなんか絶対なかったわけだから」
そう言うと、皮肉そうに口許を緩めた。]
一方の石田文樹は「プロ拒否」もあってか、3巡目になっても、4巡目になっても名前が呼ばれることはなく、結局、すべての球団は石田の指名を見送った。
「吉田が2位で指名されたし、ちょっぴり寂しい気もします。でも、早大一本で考えていたし、これでスッキリしました」(石田文樹のコメント/『日刊スポーツ』1984年11月21日付)
このとき、石田文樹と吉田剛の二人が下した決定は、翌1985年のドラフト会議に、幾許かの影響を与えたのかもしれない。
【毎週水曜日更新】5月13日配信の第6回に続く
