「父を軽蔑していました」…60年前、資産4億円の母と結婚して一生働かなくていい富裕層になった父。“父が無職”の家庭で育った60歳長男が選んだ〈自分なりの生き方〉
親がどう働き、家族とどう接してきたか。その記憶は、良くも悪くも子どもの「働き方」や「家族観」に大きな影響を与えるものです。母親との結婚を機に富裕層になった父親。労働の必要がなくなったことから、息子には「働く背中」をみせたことがありません。そんな背中をみて育った息子が選んだ生き方とは? 今回は、FPの川淵ゆかりさんのもとへ寄せられたAさんの相談事例から、親の生き方が子におよぼす影響を考えます。※プライバシー保護の観点から、相談者の個人情報および相談内容を一部変更しています。
「働かない父」が恥ずかしかった少年時代
Aさんは、双子の兄として生まれました。実家は、母方の祖父がアパート経営のほか、土地をいくつも遺した資産家です。現在の価値に換算すれば4億円を下らない資産であり、その家賃収入や土地の賃料などだけで家族5人(Aさん・弟・父・母・祖母)の生活が十分に成り立つ環境にありました。
Aさんの父親は、婿養子でした。かつては海外で働いていたそうですが、結婚後すぐに双子のAさんたちが生まれると日本へ帰国。妻とともに祖父から引き継いだアパート経営や土地の管理を行うようになります。父親の生活の軸は、家事や子育てに置いていました。
そのため、Aさんにとって両親がいつも家にいる光景は、ごく当たり前のことでした。しかし、成長とともにその「当たり前」は深いコンプレックスへと変わります。
「Aくんのお父さんはなんの仕事をしているの?」小学校低学年のころ、クラスメイトにそう尋ねられても、Aさんは答えることができなかったことをよく覚えています。「アパート経営だよ」とでも答えられればよかったのですが、当時の彼には“父親が働いている”ようにはみえなかったのです。
さらに、同居しているAさんの母方の祖母がときどき零す「あんたたちのお父さんはいいねえ。仕事を辞めて毎日あんたたちと遊んでいるじゃないか」という皮肉。これも、Aさんに“父親はいつも遊んでいる”というイメージを植え付ける一因となりました。そんなとき、Aさんの母親はいつも「お父さんはいい人よ。優しいし、しっかりしていますよ」と夫をかばっていました。
またこのとき、Aさんは「父を立てる母の姿」こそが理想の夫婦像であると、無意識のうちに脳裏に焼き付けていったのです。
授業参観に一人だけ交じる「父親」への嫌悪感
Aさんの母親は、若いころから足が悪く、人目に触れるのを嫌っていました。そのため、入学式や卒業式、運動会といった学校行事に出席するのは、常に父親。Aさんが特に嫌だったのは、授業参観日です。ほかの生徒は母親が来るなか、父親が一人交ざっている光景。家に帰って母親に「なんで来てくれなかったんだよ!」と喚き散らしたことも一度や二度ではありません。働かない父親を恥ずかしく思い、次第に軽蔑するようになっていきました。
一方の、双子の弟は父親と仲良くしていました。しかしAさんは「自分の家は特殊なのではないか?」という違和感を拭えずにいました。教育熱心な父親に対しても、“遊んでるくせに、口だけは出すオヤジ”と毛嫌いするように。その反発心から、高校生のころは一時不良グループと付き合って停学寸前にまでなったこともあります。
そんな彼を瀬戸際で救ったのは、両親や祖母の言葉ではなく、事情を知る幼馴染の親友の存在でした。おかげで落ちるところまで落ちることはなく、その際「俺は、父のようには絶対にならない。自分の力だけで稼いで生きていく」と決意したそうです。
「父のようにはなりたくない」
父親への嫌悪感から逃れるように、Aさんは大学入学とともに上京しました。卒業後はそのまま都内で就職・結婚し、家庭を持ちます。
「父のように“家の金で生きる男”にはなりたくない」。その一心でした。Aさんは「実家が裕福=自分は努力していないと思われる」という強いコンプレックスを抱えており、その反動で「働くこと」に過度な価値を置くようになりました。さらに、Aさんにとって家事や育児をすることは「稼げない男の敗北」の象徴であり、だからこそ、自分は絶対に台所には立たないと決めていたのです。
授かった一人息子には「自分が働く姿をしっかりみせておきたい」という思いが、Aさんを必要以上に働かせました。残業や付き合いで平日は遅くなり、休日も仕事やゴルフで家庭は妻に任せきり。50歳になり、順調に出世コースに乗っていたAさんでしたが、家庭内では、些細なことからよく夫婦喧嘩をするようになっていました。
ある夜、酔って帰宅したAさんは、夜食を用意する妻や高校生の息子の態度に大声で説教を始めました。すると、息子は母親をかばって立ち上がります。
「母さんはパートで一日中立ちっぱなしで仕事してるんだよ。父さんはデスクワークで部下に仕事させてそのあと飲んで帰ってきて、皿一つ洗わないでなに偉そうなこといってるんだよ!」
Aさんも酔った勢いで応戦しました。「そんな安い時給のパート仕事なんか辞めてしまえ! どうせ大した仕事じゃないんだろう」。Aさんにとって、仕事とは「家族を養うための高額な対価」であり、実家に潤沢な資産があり、自分の給与も高い以上、妻の低賃金労働には価値を見いだせなかったのです。妻はオロオロと2人のやりとりをみていましたが、妻の心に、この夫の言葉が深く突き刺さったことをAさんは気づきもしませんでした。
Aさんは息子と喧嘩するたびに不満を募らせました。
「俺の母さんは、稼ぎのない父さんをいつも立派だと立てて、かばっていた。なのに、なぜ十分な金を稼いでいる俺に対し、この嫁は母さんのように尽くしてくれないんだろう。なぜ感謝してくれないんだろう」
Aさんは、母が父をかばっていたのは「父がそこにいてくれたから」だということに、思い至ることはありませんでした。
孤独のなか、病室で知った「父の背中」の正体
その後、妻から離婚を申し出られ、息子も大学進学とともに家を出ていきました。一人ぼっちになったAさんのもとへ、追い打ちをかけるように実家で暮らす弟から「父、危篤」の連絡が入ります。
入院先の病院で、もうすでに意識がなくなった父親と二人きりになったとき。Aさんの口から不意にこぼれたのは、幼いころの思い出でした。
「子どものころ、延々と一緒にキャッチボールで遊んでくれたよね。やろうよ、というと嫌がらずに絶対遊んでくれた。双子の世話で大変だったのにね。自転車の乗り方も、父さんが教えてくれた。……俺の息子は、知らないあいだに自転車に乗れるようになっていたよ。そういうところなんだろうね」
父親の葬儀には、驚くほど多くの人が集まりました。誰もがその人柄を偲ぶなか、古い友人の一人が双子のAさんらに、泣きながらこう語ってくれたのです。
「お父さんは、海外でも本当に優秀だったんだ。だけど、足の悪い奥さん一人じゃ双子の世話は大変だから、ってすっぱり辞めたんだ。当時の日本で男が家庭に入るのは偏見を持つ人も多くて。“財産狙い”みたいにいわれたこともあって、可哀そうな時期もあったよ。義理の親父さんの不動産の管理も大変だったはずだが、顔には出さず、一生懸命に家族を守っていた。あんたたちみたいな立派な息子に恵まれて幸せな人生だったと思うよ」
現在、60歳で定年退職を迎えたAさんは実家に戻り、弟が建てた小さなマンションの一室で一人で静かに暮らしています。
父が亡くなったことで、相続が発生しました。母方の実家から引き継がれた不動産資産や現預金は、Aさんと弟のあいだで均等に相続されました。しかし、Aさんは相続した資産を「自由に使えるお金」とは感じていません。実家の不動産管理は弟が事業として引き継いでおり、Aさんとしては自分の相続分を勝手に売却して現金化するなどという発想には到底至らないからです。そこには、かつて「実家の金で生きる」ことを軽蔑し、自分の稼ぎのみを誇りとしてきたAさんのプライドがありました。
現職時代に大声で笑い、大声で怒鳴り散らしていたときとは別人のようです。最近は、地域の子ども食堂でボランティアをしています。それが、離ればなれになってしまった息子への贖罪なのかはわかりません。その姿は、亡くなった優しい父親と重なるものがありました。
人生の最後に残るもの
人生の資産には、金融資産だけでなく、家族関係・健康・地域とのつながりといった“無形資産”が存在します。Aさんは人的資本を仕事に集中投下した結果、家族という無形資産を債務超過にしてしまいました。対照的に父親は、祖父から受け継いだ金融資産を基盤に、家族の幸福度を高める方向へ人的資本を再配分していました。Aさんが「家の金で生きている」と軽蔑していた父こそ、実は一家の総資産を最適化していたのです。
定年後に残るのは、通帳の数字だけではありません。孤独という“みえない赤字”を抱えてしまえば、どれだけ貯蓄があっても人生の満足度は上がりません。Aさんが子ども食堂でボランティアを始めたのは、失った家族という資産の代わりに、地域社会へ人的資本を再投資する行動です。人生後半の豊かさは、金融資産と無形資産のバランスによって決まります。
川淵 ゆかり
川淵ゆかり事務所
代表
