60年前に連載開始『巨人の星』の爆発的ヒットには「東名高速道路の開通」が影響していた…その知られざる関係
60年に一度の「火」の年に誕生した物語
2026年は60年に一度巡ってくる「丙午(ひのえうま)」の年です。丙午は、十干の「丙」と十二支の「午」がともに陰陽五行の「陽の火」を表し、丙午の年は火事が多いと恐れられました。また江戸時代、「天和の大火」を起こしてはりつけとなった「八百屋お七」が丙午生まれであったとされ、以後この年に生まれた女性は気性が激しく夫を蹴り殺す、などという迷信が流布します。今から60年前の1966(昭和41)年にもこの迷信は残っていて、前後の年に比べてこの1年だけ出生率が25%も下がったのでした。
そんな1966年4月、目に炎を宿した一人の少年が「真っ赤に燃える王者のしるし」を目指す熱血マンガが誕生しました。『巨人の星』が「週刊少年マガジン」5月15日特大号から連載を開始したのです。
『巨人の星』を読んだりアニメを観たことがないという人でも、「大リーグボール養成ギプス」「消える魔球」などの名称はご存じでしょうし、星飛雄馬の絵は目にしたことがあるかと思います。昭和の社会にあまりにも大きな影響を与えたこともあって、マンガについての研究で『巨人の星』が出てこないものはないといっても過言ではないでしょう。
「野球マンガの金字塔」と言われる『巨人の星』は、原作・梶原一騎、作画・川崎のぼるという二人の偉大なクリエイターによって生み出されました。その創作秘話は、ご本人によって度々語られており、それを紹介するだけでページ数が尽きてしまいます。ここでは、「マガジン」の3人の編集者が社史資料で明かしているエピソードを軸にお話ししていきたいと思います。
社長の詰問から急遽、その企画は始まった
『巨人の星』を知らない方のために、まず、なるべく駆け足で内容紹介をいたしましょう。
かつて、巨人軍で正三塁手の座をつかみかけながら、太平洋戦争での負傷により選手生命を絶たれてしまった男がいました。その名は星一徹(ほし・いってつ)。一徹の息子・星飛雄馬(ほし・ひゅうま)は父に導かれ、幼い頃から「巨人入団」を目指して激しい投球トレーニングに励みます。一徹は飛雄馬に大リーグボール養成ギプスを装着させ、来る日も来る日も自宅長屋の壁に空いた穴にボールを通す練習をさせました。卓越した筋肉と針の穴を通すようなコントロールを身につけた飛雄馬は、ある日、不良チームのボスにして大企業・花形モータースの御曹司である天才バッターの花形満(はながた・みつる)に勝負を挑まれ、彼を打ち取ります。
そして弱小野球部しかない星雲高校に進んだ飛雄馬は、生涯の友となる伴宙太(ばん・ちゅうた)と出会い、バッテリーを組んで甲子園に出場。しかし決勝で再び相まみえることになった花形に今度は敗れてしまうのです。
準優勝に飽き足らぬ飛雄馬は高校を中退し、巨人の入団テストを受けて合格。川上哲治監督の永久欠番16を譲られるもプロの手厳しい洗礼を受ける中、共に巨人に入団した伴と力を合わせて“魔球”の「大リーグボール1号」を編み出すのでした……。
さて、ここで『巨人の星』誕生前夜の講談社に舞台を移します。
社内で行われた新年度方針会議で、来期1966(昭和41)年の「少年マガジン」編集方針案を聞いた野間省一社長は、編集部員たちに鋭い質問を浴びせました。
「新年度の連載マンガリストの中に野球マンガがラインナップされていないが、これはどうしてか。このプロ野球全盛時代に、少年誌に野球マンガがないということは考えられないが……」
返答に詰まっている内田勝「マガジン」編集長を見て、上司の椎橋久局長が咄嗟にフォローします。「おっしゃるとおりです。現在、すごい野球マンガを企画中ですので」。そして会議終了後、マンガ担当チーフだった宮原照夫副編集長をつかまえると、局長は「すごい野球マンガは君がつくれ!」と厳命したのでした。
後に第4代編集長となる宮原氏の著書には、その“すごい野球マンガ”構想の経緯が記されています。局長の指令を受けた時、彼が読んでいたのは「ベーブ・ルース」の伝記でした。
打者ベーブルースを投手に置き換え、一歳からボールを持たされ、野球に運命づけられた人物でどうか。ベーブ・ルースは小さい時から、ボールやバットを持たされていたと伝記にはあった。/父親の特訓よろしきを得て、五歳で見事な直球を、一〇歳で威力あるカーブを、十五歳で七色の変化球を操る少年投手。巨人軍に入団させるが、身体の小さいハンデを、どう克服するかが最大の試練となる。少年は夢断ちがたく、やがて「小さな巨人」の伝説を残してアメリカ大リーグへ……。野球の本場で〈大リーグボール〉を編み出し、身体的ハンディを克服して活躍する、という主人公像をつくり上げた。/なぜ大リーグかといえば、一九三四(昭和九)年に来日した大リーグ選抜チーム相手に快投を演じ将来を嘱望されながら、惜しくも太平洋戦争で帰らぬ人となった沢村栄治のことが脳裏に焼きついていたからである。(宮原照夫著『実録! 少年マガジン編集奮闘記』より)
そして宮原氏の上司にあたる内田勝編集長もまた、彼なりの考え方をもっていました。
同時創刊するも「サンデー」に負けっぱなし
「週刊少年マガジン」は、1959(昭和34)年3月17日、小学館の「少年サンデー」と同じ日に創刊されています。しかし創刊はしたものの、「マガジン」はずるずると部数を落として、「サンデー」に水をあけられていきました。
そんななか、1965(昭和40)年に第3代編集長に就任したのが、まだ30歳になったばかりの内田氏です。彼は社史資料でこう語っています。
マンガを読んでいなかった活字世代の僕は、どうも子どもっぽい絵のマンガが苦手で読めない。ただそのころ、貸本劇画というのがアンダーグラウンドで広まっていた。実際に貸本屋に行ってみたら、中学・高校を卒業して工場で働いたり、オリンピックの建設現場で働いたりしていたような、まさに高度経済成長を支えた連中がしきりにそれを読んでいたんです。その劇画を読んでみたら、マンガ嫌いだった僕でも面白く読めた。(「講談社70年史資料」より)
内田編集長の回想を裏付けるような写真が講談社の写真資料室に保存されていました。「活字文化の栄ゆる国」というタイトルがついた一連の写真で、(昭和34年受入)と説明があります。この年は「マガジン」が創刊された年です。この頃の日本人が労働の合間や学業の息抜きに、活字をむさぼるように読んでいた姿がカメラで切り取られており、その中には貸本屋の店頭風景もあるのです。
内田編集長は「かつて『少年倶楽部』が小説で一世を風靡したように、『少年マガジン』はリアルな人間ドラマを描いていけばイケるはずだ。それには劇画がポイントなんだ」と考えたのでした。
一徹が、花形が、左門が、それぞれの読者を掴んだ
こうして内田&宮原コンビがたどりついた「マガジン」の“劇画”作品第一弾が『巨人の星』でした。宮原氏が思い描いた父と息子の相克というテーマを原作者・梶原一騎さんが見事な人生劇場に仕立て上げます。その原作構想に力を得た二人の編集者は、貸本漫画出身ですでに「サンデー」で連載をもっていた漫画家・川崎のぼるさんを口説きに口説いて、ついに「マガジン」に引っ張ってくることに成功したのです。
『巨人の星』連載は「マガジン」を一気にブーストさせます。連載開始前、1965(昭和40)年の「マガジン」の平均発行部数は40万部弱、対して「サンデー」は55万部でした。ところが「マガジン」は1966(昭和41)年中に部数を倍増させ、1967(昭和42)年新年号で100万部を突破したのです。後年、宮原氏は、こう述懐しています。
昭和41年に『巨人の星』が始まりまして、「マガジン」は、非常に読者の幅を広げたんです。当時は、父親が子どもの教育に関わらなくなり、“教育ママ”という言葉ができた頃です。お母さんが子どもの教育に熱心で、塾であるとか(受験勉強)の方向にだんだん家庭教育が偏っていった。ですが、『巨人の星』の中では星一徹が野球を通じて息子の飛雄馬にスパルタ教育をたたき込む。30代から40代の父親族は、自分たちがやりたいけれどもできなかったことをする星一徹の目を通して『巨人の星』を見たんです。一方、女性読者も非常に増えたんですけれども、これは飛雄馬のライバル・花形満が人気を集めたからでした。それから飛雄馬のもう一人のライバル・左門豊作(さもん・ほうさく)の存在があります。左門は両親を早くに亡くし、6人の弟妹を一身に引き受けて面倒を見ているという苦労型のキャラクターだったのですが、これが大学生に大変に受けまして、大学生は左門豊作を通じて『巨人の星』を見ていくようになりました。
結果として物語の中に出てくる人物それぞれが多様な層をつかんでいく。そういう計算外の効果が出てきて、年齢、性別を超越した読者をつかむことになったわけです。(前出「70年史」資料より要約)
東名高速が「雑誌スタンド」を生んだ
『巨人の星』の読者層の「父親、女性、大学生」という宮原氏の読者層の指摘には、さらに先があります。当時、マガジン編集部員だった田中利雄氏(後に「テレビマガジン」初代編集長)の証言です。
『巨人の星』を連載している頃、発売日の前日になると、深夜、電話が守衛のところにかかってくるんです。“『巨人の星』の“魔球の秘密を教えろ”と。しょうがなく私が電話に出て「明日は発売日だから、読んでくれ」と返答したんですが、「いや、その前に教えろ」と言いはるんです。いちばん多かったのは、東名高速道を走っている陸送のトラックの運転手でした。ある人などは「音羽(の首都高出口)で降りて、講談社へ押しかけるぞ」と(笑)。それくらい熱心なファンがいました。(「講談社100年史ヒアリング」より)
なぜそのような電話がかかってきたのでしょう? じつはこれにもちゃんと理由があったのです。内田編集長は、後年、このように解説しています。
「少年マガジン」の短期間における部数急増の原因は、もちろん編集部なり寄稿家の漫画家の方達ががんばったこともあるんですが、あまり知られていない話で非常に重要だと思うのが、名神、東名高速が開通した、これが背景にあるんです。(前出・70年史資料より)
それまですべての雑誌は、国鉄(現JR)の特運(雑誌特別運賃)とよばれる輸送システムを使って貨物列車で全国に運んでいました。まだ民営化される前の国鉄は融通が利かず、駅での荷積みも非効率だったため、雑誌は本来の発売日から関西地区では3日遅れ、九州や北海道では1週間遅れで発売という状態が当たり前だったのです。しかし高速道路が開通したことにより、高速を利用したトラック輸送が急増し、貨物便に比べて関西地方では約2日、九州地方ならば4日から5日も早く荷物が届くようになりました。ですがせっかく早く着いても、取次から書店へという流通システムでは、貨物便の日程に縛られて書店に雑誌を流すことができなかったのです。
内田氏は続けます。
そこで東海・名古屋地区の頭のいい人がスタンド販売というのを発明したんですよ。お風呂屋さん、八百屋さん、薬屋さんといった書店でない場所のあちこちにスタンドを並べ、トラック便で着いた雑誌を置くという従来の流通経路とは違う新しい販路を開拓したんです。
ところが当初、大人ものの活字雑誌や週刊誌のほとんどは、そんなところに置いたら品位に関わるという理由で、スタンド販売を嫌がったそうです。それを聞きつけた販売の高橋五郎部長が「面白い。それは雑誌流通面で画期的な試みだと思います。講談社が率先して『少年マガジン』と『少女フレンド』をスタンドで売ってもらうことにします」と応じた。それで「マガジン」の流通網は一気に拡大し、150万部への道が開けたんです。
この話を高橋さんから後年聞いて、時代の流れというのが、われわれマスコミ産業に従事しているものにとっていかに大事なのかと痛切に感じました。(70年史資料および内田氏自著『「奇」の発想』より抜粋)
なんと、今でもコンビニなどでおなじみの雑誌スタンドは、高速道路の誕生とともに生まれ、それがひいては「マガジン」を、そして『巨人の星』の売り上げを伸ばしたのでした。
東名高速全線開通の週に、第二部が始まった
たしかに『巨人の星』連載開始の前年、1965(昭和40)年に日本で初めての高速、名神高速道路が開通しています。東名高速は1968(昭和44)年5月26日に全線開通し、東京と関西を結ぶ東海道の大動脈が完成しました。この週に発売された『少年マガジン』1968年6月8日号の表紙には、「『巨人の星』第二部どうどう登場!」のキャッチが踊っています。
第二部では、大リーグボール1号をひっさげて川上巨人の4連覇に貢献した星飛雄馬に対し、中日ドラゴンズのコーチとなった星一徹が息子の行く手に立ち塞がります。一徹は元カージナルスの強打者オズマに「大リーグボール打倒ギプス」を装着させて特訓し、ついに飛雄馬の大リーグボール1号を攻略してしまいます。飛雄馬は打ちひしがれながらも、再び立ち上がり、「大リーグボール2号」を編み出しました。それが、最も有名となった“消える魔球”です。
なるほど、これは魔球の秘密を知りたくなったことでしょう。トラックドライバーたちは、内田編集長が明かしたとおり、「マガジン」を満載して東名高速を運転していましたから、朝、目的地に到着すればさっそく雑誌を手にしたはずです。とはいえ果たして積み荷の中の『巨人の星』の続きはどうなっているのか、運転中にも気になって仕方ない!……そんなドライバーたちが裏表紙に載っている代表電話番号にかけてきた、というのが真相だったようです。
令和の現代、リアルは物語を追い抜いたのか
大リーグボール2号は、阪神で活躍する花形に打たれ、そして飛雄馬は大リーグボール3号を考えつきます。しかしこの魔球は飛雄馬の肉体を蝕む諸刃の剣でした。中日にトレードされた盟友・伴宙太と、彼を指導する一徹に立ち向かった飛雄馬は、勝負には勝ったものの左腕を壊して再起不能となってしまいます。悲劇的なラストで『巨人の星』がエンディングを迎えたのは、1971(昭和46)年1月17日号でのことでした。
『巨人の星』のエンディングから3年半後、1974(昭和49)年10月12日、中日ドラゴンズがついにセ・リーグ優勝を果たし、巨人のV9時代は幕を閉じます。V10を逸した2日後、長嶋茂雄の引退試合が行われました。
「ベーブ・ルース伝」を読んで『巨人の星』の基本構想を練った宮原氏は、2005年刊の前出・自著の中で〈大リーグは時期尚早、この物語のリアリティに水をさす恐れがあるとの指摘があり、そしてワタシ自身もまだ少し早過ぎるかなと断念した〉と明かしていました。『巨人の星』から半世紀を経て、大リーグはメジャーリーグと呼ばれるようになり、そして“ベーブ・ルースの再来”大谷翔平選手が日本から登場し、日本代表が世界一の座につくまでになりました。
「週刊少年マガジン」の2026年4月28日発売号では、野球マンガ『スルガメテオ』が巻頭カラーを飾ります。うなりをあげる速球は、令和の時代も読者の心を掴んで離しません。
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