地主の生殖器が切り取られ食用に…文化大革命で何が起きていたのか「近年明るみになった直視にたえない事実」
※本稿は、楊海英『未完の中国文化大革命』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■日本に広まった中国の演劇『白毛女』
1940年代、中国共産党がまだ延安に割拠していた頃に『白毛女』という革命的演劇が初めて上演された。江青が主導して演じられた作品であり、現在でもユーチューブなどで中国のオリジナル上演はもちろん、日本でバレエ化・映画化されたバージョンなど、無数に映像を見つけることができる。

『白毛女』のあらすじは次のようなものだ。
貧農の娘・喜児(シーアル)が、地主の黄世仁(あだ名は「南方を制する」という意味の「南覇天」)によってレイプされてしまう。喜児には、八路軍兵士の王大春という許婚(いいなずけ)がいた。
黄世仁は喜児を妾(めかけ)にしようとするが、喜児は抵抗して山寺に逃げ込む。そして数年間、隠れているあいだに彼女の髪はすっかり白くなり、地元では「あの寺には白髪の妖怪がいる」という噂が広がる。
こうした妖怪伝説はおそらく以前から中国各地にあったもので、それを江青が革命的ストーリーに仕立て直した。要するに、搾取する地主階級が搾取される貧農の娘を犯す、婚約者は八路軍の兵士であり、地元に戻って悪徳地主を処刑、晴れて結婚する。虐げられていた貧農が立ち上がった農民として革命に参加する、というわけだ。

この『白毛女』という演劇が映画として日本に伝わり、さらに松山バレエ団がバレエ作品にアレンジして演じた。これが戦後日本の社会主義を志向する文化的・精神的・社会的土壌の中で広がり、逆輸入されて中国でもポピュラーになっていった。
松山バレエ団は1948年、清水正夫と松山樹子(みきこ)により創設された。松山は周恩来に憧れ、1950年代に何度も訪中しており、その都度、周恩来から厚遇を受けている。
1958年には松山バレエ団の『白毛女』が北京で最も格の高い舞台で毎晩のように上演され、北京においては他の京劇の上演がストップするほどの独占状態になった。
■北京の人が感激した松山バレエ団の上演
外国の芸術文化に飢えていた北京の人びとは松山バレエ団の上演を見て感動し、その洗練された踊りと魂を強く揺さぶる音楽に感激した。
当時の中国でも、ソ連の芸術を取り込むという狙いからバレエの普及が始まっていたが、まだまだ成熟しておらず、ソ連との仲も次第に悪くなり始めていた。自然と、日本の松山バレエ団が主導的地位を占めるようになった。
このように『白毛女』の主役である白髪の女は、古い中国の妖怪伝説に登場する鬼「死人」から華麗に変身し、悪徳地主を打倒して革命家として立ち上がる「階級闘争の主人公」へと磨き上げられていった。
搾取階級への深い恨みに根差し、権力の打倒のためには残虐な暴力を肯定し、謳歌さえするイメージまであからさまに描き出している。
まさに「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の考え方を反映した革命的演劇(様板戯(ようはんぎ))、文化大革命芸術のシンボルとして、伝説の妖怪が革命のヒロインとして近代中国に再び登場を果たしたのである。
松山バレエ団の活躍を見て、自分も立派な芸術を生み出さなければならない、と考えた江青の指導下、上海市舞踏学校においてオペラ『白毛女』が上演された。政府の後押しもあって全国的にヒットしたこのオペラが、やがて文化大革命芸術の模範になっていく。

私自身、子どもの頃にラジオでオペラ版『白毛女』を繰り返し耳にし、今でも歌詞をほとんど覚えているほどである。そしてときおり、うっかり革命現代劇の歌を歌ってしまうくらい、文化大革命の毒素は私の脳裏にも沈殿している。
地方では映画版『白毛女』が大ヒットした。1967年夏、毛が『白毛女』を観賞し、礼賛する。その様子は日本語雑誌『人民中国』(1967年9月号)に写真入りで伝えられている。
■造反派紅衛兵のせいにする
毛は、それまで「死人部」「帝王将相部」「才子佳人部」と批判していた中共中央宣伝部の革命化が、宣伝部長・陸定一や北京市長・彭真の打倒によって成功したことに満足した。一見すると文字通りの「文化革命」であるが、やがて暴力を伴う大きなうねりへと変質していく。
当時、『白毛女』をはじめとする8つの革命劇が誕生し、全国に定着していた。さらに日本や北朝鮮、社会主義各国などへ広がっていった。背景には北京に滞在していた日本の左派芸術家と文化人による熱心な芸術指導があり、日本の報道も大きな影響を及ぼした。
たとえば中国は「地主の荘園」を再現し、搾取の塑像を展示したことを日本が報道して国際化した。収租院の塑像について、日本青年関東代表団の石崎泉が「日本には社会主義中国のような素晴らしい芸術的環境がない」と言葉を惜しまずに礼賛している。こうした点でも、文化大革命と日本の連動が顕著に見られる。
そしてこの展開が、毛沢東が理想とする「死人から生きている人間、労働人民の農村の文化大革命」へと発展、改善していく。
つまり『白毛女』が扱っていた、地主が農民をレイプし、立ち上がった人民がその反革命的な地主を処刑して主人公になる、というストーリーの骨格、言い換えれば毛が思い描いていた空想のドラマが、全国で革命として実現していくことになる。
■芸術の戦闘力、プロパガンダの力
これこそがまさに芸術の戦闘力、プロパガンダの力であり、その力はソ連や東欧諸国以上に中国の農村で猛威を振るうことになった。
当時の中国の農民は識字率が低いため、分かりやすい演劇が農民の動員に大きな役割を果たしたということだ。
以下、中国農村における直視に耐えない暴力の事例を紹介していこう。注意してほしいのは、これらはとりわけ特殊なものを意図して拾ったわけではなく、近年明るみに出た文化大革命研究の現地調査と第一次資料に基づく典型的事例だということだ。
まず、1つ目の事例である。譚合成著『公元1967年湖南道県文化大革命大虐殺記録』に記されたものだ。1967年8月2日午前、湖南省道県楊家人民公社家家村生産大隊の党書記・家書姣が命令を下し、地主の子・家生尭ら7人の地主がその場で絞殺された。
9月1日にはさらに人の地主が惨殺され、人民公社全体で533人が殺害されたといわれている。ただ、一つの人民公社に実際これほどの数の「搾取階級」がいるわけはなく、そもそも地主は既に土地改革・鎮反運動でほぼ消滅しているのが実態だった。
加えて、「かつての地主の子弟たちが反乱を起こそうと考えていたので殺した」という証言も出てくるが、この子弟らも現実には勢いを増した農民たちが怖く、そういった反乱を起こそうとしていたとは考えづらい。
つまり事実は、村人同士の対立が原因で、自分の意見に合わない農民を地主と認定し殺害していたということである。農民たちは「毛主席が地主を殺せと言っているので、そのとおりにした」と主張しつづけた。
ちなみにこの湖南省道県という土地は、文化大革命期における虐殺の地として広く知られている。この湖南省の事例が「革命」として、隣の広西チワン族自治区に伝わっていく。そこで生まれるのが「食人」だ。

■殺害された「搾取階級」8万9810人
2つ目の事例は、アメリカに亡命した文化大革命研究者・家義(ていぎ)が著した大部『紅色記念碑』が伝えるもので、湖南省に接する広西チワン族自治区で発生した事実である。
1967年1月3日早朝3時、同自治区全州県東山区三江(さんこう)人民公社の民兵隊長・黄天輝の指揮で、地主の子弟とされる7人が崖の上から突き落とされ、あるいは棒で叩き殺された。
そこには乳幼児も複数含まれていた。これがまさに隣の湖南省道県をモデルとした「地主一掃運動」だった。
3つ目の事例も、広西チワン族自治区におけるものだ。暁明(ぎょうめい)著『広西文化大革命痛史鉤沈』によると、文化大革命中に同自治区全体で8万9810人が殺害され、その多くが「搾取階級」とされた人びとであったという。
つまりこれも搾取階級である地主を撲滅しようという目的のもと、一般の人民を度を越した虐殺に駆り立てた事例というわけだ。
1968年3月9日、同自治区霊山県檀圩に住む若い女性で地主出身の陳振廉が、南寧地区無産階級革命派聯合指揮部のボス・陳宝声によって衆人環視の中、裸にされ、リンチされたあげくに刀で斬首された。
■切り取られ、食用にされた生殖器
4つ目は、同じく暁明の『広西文化大革命痛史鉤沈』が伝える事例である。1968年7月、広西チワン族自治区の武宣県通衢区で地主・甘大作の生殖器が切り取られ、食用にされた。まだ生きているうちに切り取って食べようとしたことから、甘は「おれを殺してから食ってくれ」と叫んだという。
じつはこの地域だけでも、計526人が食人の被害に遭っている。文化大革命の後、広西チワン族自治区全体で4万7671人が食人行為をしたかどで処分を受けた。ちなみにこの数字は政府の調査によるもので、実際に一体どれほどの人が食べられたかは分かっていない。
「広西の食人」は湖南省道県の虐殺と並び全国的に有名であり、のちの1980年代には大きな問題となったが、結局のところは政府に抑え込まれて深くタッチされることがなく、全容は判明していない。

「搾取階級を革命的群衆が食べて恨みを晴らす。搾取階級に手柔らかくしてはならぬ」と説明されるものの、実際のところは搾取・被搾取関係にはない村人同士の争いに過ぎないと指摘されている。
その蛮行が革命の名の下に隠され、一時、市場では人体のさまざまな部位が食肉として売買されていたとも報告されている。
これらの蛮行も振れば文化大革命芸術として広められた既述の『白毛女』や、毛沢東が1927年に書いた地主打倒の考え方および暴力的な実践方法を示す論文『湖南農民運動考査報告』にまでたどり着くため、深い追及がなされなかったということである。
■「よい人間が悪い人間を殺すのは革命的」
5つ目の事例は、家光路(ていこうろ)著『文化大革命武闘』に記されている。
1966年8月3日深夜、北京郊外大興県大辛荘郷で、高福興と胡徳福らに率いられた貧下中農協会のメンバーたちが村民を集め、上は8歳から下は赤ん坊まで106人を処刑し、刀で斬っては井戸に放り込んだ。
先に青少年を処刑し、残りの女性はレイプしてから殺害したという。やはり隣人同士の間で起きた虐殺だが、公安部長・謝富治(しやふじ)による「悪い人間がよい人間を殺すのは悪いが、よい人間が悪い人間を殺すのは革命的な行為である。革命的群衆の行動は止めない」という趣旨の発言と扇動が源といわれている。
私があえて以上の残酷な事例を取り上げたのは、中国政府はこれらの事件を紅衛兵、とりわけ造反派紅衛兵のせいにしようとしたからだ。
留意したいのは、たとえ虐殺が公安部長の発言に触発されたものだったとしても、あるいは政府が造反派の責任にすり替えようとしたとしても、より重要な点は別にある、という点だ。
それは、毛沢東と江青が文化・芸術を使って無学の農村社会の中国人農民たちに搾取階級への憎しみを植え付けた、ということである。そして搾取階級が相手であれば何をしてもよいという思想・洗脳教育が過熱し、紹介したような事例に発展したということである。
■文化の名の下に扇動された暴力
本稿のまとめとして、中国的暴力の特徴に再度、言及しておく。いま見てきた数々の暴力は、やはり文化の名の下に扇動され、醸成されてきたものだ。

言慧珠のようなモンゴル人貴族出身の伝統的京劇俳優を舞台から追い出し、中国の古い歴史ストーリーを京劇の脚本から削除し、多くの芸術家たちを死に追いやった江青夫人は、毛沢東の思想を受け継いで真新しい革命演劇を創り上げた。
その演劇も同じく毛の指示どおりつくられた、階級闘争論に基づく演劇である。その意味で江青は、たしかに文化の旗手の役割を見事に果たしたわけだ。
実際、階級闘争論は演劇のかたちで無学かつ識字率の低い農村に伝播し、宣伝力を発揮した。革命にきわめて大きな影響を与えた毛の『湖南農民運動考査報告』どおりの革命理論が浸透し、農民たちの実践により実現したことになる。
また農山村だけでなく、知識界・文芸界からも階級の敵が一掃された。1966年1月1日の国慶節から、京劇『白毛女』は江青の指示で北京京劇団が担当し、中国各地で公演を実施しはじめた。『白毛女』は全国的なヒット作になった。いわば官製ブームである。
ここから1年にわたり、人民は8つの現代革命劇しか見られなかった。そしてこの中国流プロパガンダが国境を越えて日本の左派芸術と結合し、全世界に伝播していく。欧米でも、サルトルなどのニュー・レフト(新左翼)知識人が絶賛し、一般市民にも大きな影響をもたらした。地主階級はすでに消滅していた
しかしながら、事実として毛沢東が反革命分子のレッテルを貼った地主階級はすでに1940年代以降に衰退し、1966年にはほぼ消滅していたと考えられる。にもかかわらず「地主を殺せ」「子弟も復讐を防ぐために殺せ」と訴えるのは、もはや空論にすぎない。
そもそも当時、地主の子弟たちには、毛の考え方に突き動かされる農民に復讐するような力は残っていない。実態はむしろ、意見の異なる農民同士の殺戮を正当化する論理として毛沢東思想が使われたと見るべきだろう。
研究者たちも、むしろ漢族が漢族を殺戮した中国的ジェノサイドは、国家が設定した「階級」という枠組みで発動されたもの、いわば国家政策によるジェノサイドだと考えている。
そして、加害者も被害者も毛沢東信者の一般の中国人であるところに驚嘆すべき特徴があるといえる。
言い換えれば、この種の中国的暴力は少数民族地域では発生しなかった。少数民族が受けた被害も、もっぱら中国人民すなわち漢民族からのものだった。
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楊 海英(よう・かいえい)
静岡大学教授/文化人類学者
1964年、南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)出身。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。1989年に来日。国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文学博士。2000年に帰化し、2006年から現職。司馬遼太郎賞や正論新風賞などを受賞。著書に『逆転の大中国史』『独裁の中国現代史』など。
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(静岡大学教授/文化人類学者 楊 海英)
