《18歳で「母」の代役》町亞聖「弟は進学を諦めた」ケアラー家族、自己犠牲の連鎖「これ以上望んではいけない」
「大学に行けただけで贅沢。これ以上は望んではいけない」。18歳で母の介護と家族の世話を担うことになった町亞聖さんは、浪人を経て進学した当時をそう振り返ります。一方で、高校生になった弟は進学を断念。調査では、ヤングケアラーの半数以上が進学に苦労や影響を感じており、経済的不安も深刻です。「生まれる順番が違えば」…。今も教室に1人はいる、逃げられないケアラー家族の現実です。
【写真】車椅子生活のお母さんを支え合った、町さん3きょうだい「絆の深さが伝わる」1枚(3枚目/全8枚)
長女の責任感で「きょうだいの前では泣かない」
── くも膜下出血の手術後に脳梗塞を併発し、一時は心肺停止の状態になったお母さんの代わりに、当時高校3年生で18歳だった町さんが家事やきょうだいの世話をすることになったそうですね。
町さん:弟は中3で妹はまだ小6でした。父は朝早くに仕事に行き、仕事が終わると入院中の母につきっきり。学業に加え、家のことはすべて私が担うことに。でも、「長女の私が弱音を吐いたら、弟と妹はさらに不安になってしまう」と、きょうだいの前では絶対に泣かないと決めていました。
「町さんは優秀だったから、大学にも行けて、家のこともできたんですね」と言われることもあるのですが、事実はまったく違います。たしかに学校の勉強は得意でしたが、教科書にはご飯の作り方も、医療費の手続きの方法も書いてありませんでした。調理の前に野菜を洗うことすら知らず、味噌汁に虫が浮いたこともあったぐらい。家事については何もできない状態からのスタートでした。
── 長女という責任感が突き動かした面はありますか?
町さん:あったと思います。やっぱり中学生と小学生だった弟妹には多くを頼めないので、私がやるしかありません。実際は母が元気になる夢を見て泣きながら起きることが何度もありました。ですが、泣いていても状況は何にも変わらないんです。この理不尽な状況は、病気になった母のせいでもないし、もちろん私の責任でもない。誰のせいでもないなら、泣くのをやめようって。若くして物事を達観していたと思います。
母の容体が安定しない時期も、きょうだいには「大丈夫だよ」と声をかけました。もちろん、大丈夫かなんてわからないし、私も母が死んじゃうんじゃないかとずっと不安でした。でも、ふたりがいてくれたから歯を食いしばってでも前を向こうと思えました。
唯一、私たちきょうだいを支えてくれた人は母の親友だった山田のおばちゃんでした。いつも気にかけてくれて、山盛りの唐揚げを作って食べさせてくれたこともありました。おばちゃんひとりでも、その存在は大きかったです。
浪人生活を経て奨学金で大学へ「これ以上を望んではいけない」
── 大学は奨学金で通ったと聞きました。
町さん:高3の3学期の始業式に母の病気が発覚し、容態が安定する前に卒業式を迎えました。先生や同級生は、母が倒れたことまでは知っていましたが、詳しく事情を説明できないまま卒業することになって。その年は受験どころではなかったのですが、父からどうしても大学に行ってほしいと言われていたので、浪人することにしたんです。
母の容態が安定してから、担任の先生に報告に行くと奨学金の話をされました。手続きには高校の成績が必要だったそうで、「また学校においで」と言ってくれて。当時の私は、大人ぶって、なんでも自分でできるという感じで生きていたのですが、やっぱり子どもですね。奨学金の手続きについて何も知らなかったんです。先生には感謝しています。
── 1年の浪人生活を経て見事、大学に合格。右半身の麻痺と、言語障害の後遺症を抱え、車椅子での生活を余儀なくされたお母さんを自宅で介護しながら大学生活を送ったと伺いました。同級生は、キャンパスライフを謳歌しているときだったと思います。
町さん:楽しそうな友達を見ると羨ましくて仕方なかったのですが、羨んでも仕方ありません。自分の苦労話をしても理解してもらえないので、人にも打ち明けず抱え込んで。経済的な事情から弟が進学を諦めているので、「私は大学に行けただけ贅沢。それ以上を望んではいけない」と思っていました。
「生まれる順番が違っていたら」進学を諦めた弟
── 弟さんはどんな進路を歩んだのですか。
町さん:弟は、高3の進路を決めるタイミングで、誰にも相談せず消防士になることを決めました。私には、「もう願書も出したし、試験に受かったら決まるから」という報告だけ。でも、あとから「本当は大学に行きたかった?」と聞いた際に「そりゃそうさ」と、ひとこと言ったんです。私もまだ社会人になっておらず、家計は厳しい状況が続いていました。妹の制服の支払いを「翌月まで待ってほしい」という話をしていたのを弟が聞いて、大学に行きたいとは言えないと進学を断念してくれたんです。
母が倒れるタイミングが違っていたら、生まれる順番が違っていたら、弟の進路も変わっていたかもしれません。弟はその後、勉強をして救急隊として救命の現場でも働いていました。やりがいを持って今も仕事を続けています。弟のように経済的な問題から将来の選択肢を制限されてしまうヤングケアラーは少なくありません。自分より家族のためという気持ちが大きくて、自分のことを後回しにしてしまうんです。
── 国の調査でも、ヤングケアラーが進路の選択肢を制限されるケースは多く、家族の世話をしている大学3年生に実施した調査では、半数以上が進学の際に苦労や影響があり、学費など経済的な不安を抱いている割合が多いそうです。ちなみに、妹さんはどうされたんですか。
町さん:妹には、学生時代に家のことや母の介護よりも、部活や友達関係を大切にしてほしいと伝えました。「私が学生の間は家のことは全部やるから。お母さんが車椅子で生活しているからって、自分のやりたいことを制限しなくていいからね」と。
というのも、私が働くようになったら、妹には絶対に家のことを手伝ってもらわなければならないことが分かっていたからです。「そのときは戦力になってほしい」とも伝えていました。私が就職したときは、まだ妹は高校2年生でした。ただ嬉しい誤算は、アナウンサーの仕事は30年前からフレックス制で、自分の担当番組が終われば帰宅することができたので、私も変わらずに家事をすることができたんです。妹とは食事作りを当番制で分担しましたし、弟もできることをして、きょうだいで支え合えたことは大きかったです。
妹はその後、福祉系の短大に行くのですが、介護の仕事ではなく一般企業に勤めました。私はそれで良かったと思っているんです。自分の経験を活かして介護や看護などケアの仕事を選択するヤングケアラーはたくさんいます。私も伝え手の生涯のテーマを医療と介護と決めていますし、もしアナウンサーになっていなかったら福祉の仕事をしようと思っていました。
ですが妹のように小さな頃から介護が日常だったヤングケアラーが、まったく違う業界に飛び込むという選択も大事だと考えています。ケアの経験にとらわれることなく、なりたい自分になってほしいからです。社会の中にいろいろなロールモデルが存在すれば、それが未来への希望になるかなと。無理に自分の体験を語る必要はありませんが、知ってもらうためには当事者の声が必要ですので、身近なところでヤングケアラーを知るきっかけを作ってくれたらと思います。
ヤングケアラーは声をあげにくい
── 国や自治体の調査では、クラスに1~2人の割合でヤングケアラーの子どもがいるそうです。経済的な不安や、「家族のため」という自己犠牲の精神によって将来にも影響を及ぼしているそうなのですが、私たちができることはあるのでしょうか。
町さん:ヤングケアラーには支援が必要なタイミングが絶対あります。特に進学や進路決定の際には大人の伴走が必要です。今はSNSがあるから自分で簡単に何でも調べられると思いがちですが、やはり子どもは子どもであり、見えている世界も生きている世界も非常に狭いです。私もそうでした。奨学金などの制度に関しては学校の先生が助言をしてくださいました。
ただ、学校だけではどうしても支援に限界があります。ヤングケアラーは困りごとを抱えている家族への支援も必要となりますが、先生が直接家事や経済的な支援をすることはできませんので、気になる生徒がいれば子ども家庭センターやソーシャルワーカーなど、地域の専門職に繋げてほしいです。
専門職ではなくても、地域の中に助けてくれる大人や頼れる大人がいてくれたらと思います。家庭の問題だからと学校や友達には相談できず、事情を隠している場合もあります。「もしかしてあの子、そうかな」と気になったときには見て見ぬふりをせず、何気ない挨拶でかまいませんので、声をかけてください。一人ひとりがアンテナを立てればヤングケアラーの存在に絶対に気づくはず。私たちが母の親友の、山田のおばちゃんに助けてもらったように、今度は私が誰かのために行動できる大人でありたいと思っています。
取材・文:内橋明日香 写真:町亞聖

