「真珠湾攻撃」に参加し、終戦まで生き延びた攻撃機搭乗員が戦後に語った「昭和16年12月8日」

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太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍軍人の「戦後」をシリーズで振り返る。

苛烈な戦争を生き延びた彼らは、どのような戦後を過ごしたのか。今回は、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、フィリピン戦などに参加、戦後は東京電力に勤めた吉野治男氏を紹介する。

ミッドウェー海戦からの奇跡の生還

「成田空港の建設にあたっては激しい反対運動が起きて、過激派と機動隊の衝突が繰り返されました。私は開港の前年、昭和52(1977)年まで東京電力の成田営業所長を務めましたが、反対派の拠点となる団結小屋への電力供給を止めろ、と当局が圧力をかけてくる。しかし私ら東京電力ですから、『電気料金を払う人は皆、お客だ』と突っぱねたんです。『その代わり、機動隊の放水が始まったら、危険だからそのときだけ電気を切ります』と。いま思えば、空港公団はほんとうにろくでもなかった。主義主張には賛同しないが、反対派のほうにむしろ優れた人物がいました……」

と、吉野治男は語った。平成13(2001)年春のことである。私は、講談社の総合月刊誌「現代」の企画で「真珠湾攻撃60年」の取材のため、千葉県長生郡の吉野方を訪ねていた。

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊は、空母の搭載機をもってハワイ・真珠湾を奇襲。米太平洋艦隊の主力を壊滅させ、2時間前に開始された日本陸軍によるマレー半島コタバル上陸も合わせ、ここに太平洋戦争の火ぶたが切られた。真珠湾攻撃に参加した飛行機搭乗員は765名(故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。平成13年時点で、そのうち36名の健在が確認でき、私が最初に訪ねたのが吉野だった。冒頭の言葉は、私も末期の成田闘争を取材したことがあり、特に印象に残ったものだ。

吉野は大正9(1920)年、千葉県生まれ。昭和13(1938)年、第二期甲種予科練習生として海軍に入り、艦上攻撃機偵察員となる。空母加賀雷撃隊の一員として真珠湾攻撃に参加ののち、ミッドウェー、南太平洋海戦、比島沖海戦(小澤艦隊)など各地を転戦、奇跡的に生還した。

「昭和15(1940)年12月、私は九七式艦上攻撃機の偵察員(3人乗りの真ん中の席。偵察、航法を担当)として、空母加賀乗組を命ぜられました。九七艦攻は雷撃(魚雷攻撃)と水平爆撃兼用の飛行機です。艦隊勤務、なかでも航空母艦乗組の搭乗員というのは海軍のなかでも花形ですから、それはもう、肩で風切って歩いていましたよ。

それからは毎日毎日、休みなく猛訓練が続きました。

昼間の雷撃訓練は卒業して、夜間雷撃もかなり高度なところまでいった昭和16年9月、こんどは鹿児島湾で、浅海面での魚雷発射訓練をやることになりました。通常の洋上雷撃では、昼間は高度100メートル、夜間は高度200メートルで魚雷を投下するんですが、このときは高度10メートル、海面スレスレです。この高さでは高度計は使えませんから、勘に頼るしかありません。速度は160ノット(時速約296キロ)、飛行機の通ったあとに、海面にシャーってね、波が立ちましたよ。しかしこれが狭くて水深の浅い真珠湾を攻撃するための訓練だなんて、当時の我々には知る由もありませんでした」

真珠湾作戦に参加

九州の富高基地で訓練をしていた11月のはじめ、海軍工廠の工員が出張してきて、九七艦攻を暗緑色の迷彩塗装にしていった。いままで銀色に輝いていた機体が薄汚い色に塗られてしまい、しかも塗装面がザラザラで、これでは速力が落ちるんじゃないかと心配する声が上がったほどだったという。これも真珠湾作戦の準備の一環だった。

「真珠湾に行くことを知らされたのは、加賀が佐伯湾を出港し、艦が四国沖に差しかかった11月19日のことです。艦はそのまま択捉島の単冠湾に入り、そこで機動部隊が集合して11月26日、ハワイへと出撃しました」

抜錨のとき、加賀は雪に覆われた単冠山に向かって副砲(艦の左右舷側後方に装備された20センチ砲のことを乗組員はそう呼んだ)と高角砲の試射をした。凍てつく空気のなかに砲声が轟いた。

「12月8日、発艦するときにはもう、うっすらと夜が明けていました。私は初陣で、まだ戦争の怖さなんて知らないですから、平常心でした。ただ、飛行甲板の両側で乗組員がみんな帽子を振って見送ってくれて、そのときはやっぱり感激しましたね。勇躍壮途につく、というか、男に生まれてよかった、そういう気分になりましたよ。

たぶん2時間ぐらい飛んだでしょう、しばらくすると雲の合間からオアフ島北端のカフク岬が見えてきました。指揮官機の『トツレ』(突撃準備隊形ツクレ)の命令で、赤城雷撃隊12機に続いて我々加賀雷撃隊12機も、島の西側から南側の海岸線に沿って、高度を下げながら一列になってバーバスポイントを目指しました。ここまで来ると、湾内の戦艦群が望見されます。それまで、訓練のなかで、アメリカの軍艦の形と名前をさんざん覚え込んできましたから、その実物を初めてまのあたりにして、おおっと思わず武者震いするような感じがしましたね。

ちょうどそのとき、赤城雷撃隊の発射した魚雷が敵艦に命中して、ものすごい水柱が上がるのが見えた。魚雷は走るぞ!と思わず伝声管で叫びました。私の飛行機はバーバスポイントをまわってヒッカム飛行場の上を低空で通過し、湾内に突入しました。ヒッカムには四発エンジンの大型機が並んでいて、後席の電信員・川崎光男一飛(一等飛行兵)が、それに向かってさかんに機銃を撃っていました。

突っ込むときの気分は、訓練のときと同じです。敵戦艦に向けてどんどん高度を下げていき、操縦員・中川一二二飛曹の『ヨーイ、テッ』という合図で魚雷を発射するんですが、私の目標にした左端の艦は、もうすでに魚雷を喰らって、いくらか傾いている様子でした。水柱に洗われたのか、甲板がやけに赤っぽく見えましたね。あとで聞いた話では、この戦艦は『オクラホマ』で、13本もの魚雷が命中し、転覆したそうです。

魚雷を落とした瞬間、飛行機はグン、と浮き上がります。雷撃後の避退方向は機長の判断で決めることになっていました。それですかさず、操縦員に右旋回を命じたんですが、これが得策ではなかった。敵戦艦群の真横を飛び抜けるような形になりますから、向きを変えたとたん、横殴りの猛烈な集中射撃を受けました。ピンク色の光の筋が、目の前を左から右へ、束になって行く手を遮りました。まるで花火のように機銃を撃ちまくられて、自分の放った魚雷がどうなったのかも確かめる余裕はありません。

敵弾を避けるため、とっさに上下運動を指示しましたが、操縦員が操縦桿を引いた瞬間、操縦席にガチャンッと敵弾が命中、続いて後席にもバチンと大きな音がして、塵や埃が機内に舞い上がりました。後席に命中した1発は、電信機の太い電纜(でんらん。コードのこと)を切断し、電信員の向う脛をむしっていきました。操縦席の1発は、操縦員が操縦桿を引かなければちょうど手首をもぎ取られていたところで、間一髪でした。

被弾はすべて機体の胴体に計8発、当たりどころが悪ければ終わりです。私は「加賀」雷撃隊の5番めでしたが、後に続く7機のうち5機が撃墜され、1機の電信員は敵弾で鼻を艦隊のもぎ取られました。攻撃が始まって何分もたたないのに、敵の反撃は早かった。これはもう驚異的でしたね……」

本土決戦で死の覚悟

吉野はその後、機動部隊の転戦にともない、ラバウル攻略、豪州のダーウィン空襲、ジャワ島チラチャップ爆撃などに参加し、ミッドウェー海戦(昭和17年6月5日)では、索敵任務から帰艦した直後に加賀が被弾、海を漂流中を駆逐艦に拾われ生還した。それから空母翔鶴で南太平洋海戦(昭和17年10月26日)に、索敵機の偵察員として参加。昭和19)1944)年、戦勢が日本にとって決定的に不利となった比島沖海戦のときは、主力部隊のレイテ湾突入の囮となった「小澤囮艦隊」の空母瑞鶴から敵機動部隊攻撃に発進(10月24日)、瑞鶴が撃沈されたので、以後は陸上基地からレイテ島タクロバンの敵上陸地点への夜間爆撃を繰り返した。

「レイテ戦のときは明らかに負け戦でしたが、私は若いペア(海軍では同じ飛行機に搭乗する者を、人数に関わらず『ペア』と呼んだ)の搭乗員に、『俺は不死身だ。俺と一緒に飛んでいる限り、お前たちも不死身だ』と暗示をかけ、安心感を与えて、いざというときに実力以上の力が発揮できるよう、部下の心を掌握することを心がけていました」

と、吉野は言う。終戦は、偵察機彩雲で索敵任務についていた木更津基地で迎えた。

「それまで本土決戦で死ぬんだろうと思っていましたから、昭和20(1945)年8月15日、玉音放送を聞いたときは、率直に言って『助かった』と。10月30日、日の丸を米軍の星のマークに塗り替えられた彩雲を、引き渡しのため木更津から横須賀に空輸したのが最後の飛行になりました」

後編記事を読む<「15人の仲間がそこで死んでる」…「真珠湾攻撃」の攻撃機搭乗員がハワイで目にした光景と「そこで抱いた感情」>

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