大河『豊臣兄弟!』で描かれた足利義昭の兄への嫉妬、松永久秀が“戦国一の悪人”と呼ばれた理由と「本圀寺の変」

松永久秀の居城だった信貴山城跡(奈良県平群町、写真:k-hiro/PIXTA)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第11回「本圀寺(ほんこくじ)の変」では、三好三人衆が、信長が不在のタイミングを狙って、新たに将軍となった足利義昭のいる京の本圀寺を襲撃してきて……。今回放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
「無欲」ではなく「隷属の拒否」、織田信長が副将軍の座を蹴った本当の狙い
永禄11(1568)年9月、織田信長は上洛を開始し、近江で勢力を誇る六角氏との激闘や、京での三好氏を中心とする敵対勢力との戦闘を経ながら、10月には畿内で足場を固めた。そして、室町幕府の15代将軍に足利義昭を擁立することとなった。
前回の放送では、その功績から義昭が信長を副将軍に任じようとするが、信長が固辞する場面が描かれた。『信長公記』の次の記述に基づいたものだ(『現代語訳 信長公記』より)。
〈(義昭の意向は)副将軍または管領職に任じようとのことであった。しかし信長は、「そのことについては御辞退いたします」と言って、受けなかった。珍しいことだと、都の人々も地方の人々もみな感心した〉
これは、信長が無欲で地位にこだわらなかった……わけではなく、ドラマでもあったように、将軍と主従関係となることを避けたかったのだろう。そんな意図を感じ取ってか、義昭は信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」という称号を与えて、少しでも関係性を強化しようとしている。
だが、信長は上洛してしばらくしてから、美濃に戻ってしまう。「自分はやりたいようにやる」、そう言わんばかりの信長のスタンスがよく伝わってくる。義昭からの要職就任の打診を信長が断ったのは「京に縛られずに活動する」という意思の表れでもあった。
「10間ほど歩く間に二度の襲撃」竹中直人が怪演する松永久秀の異様な存在感
今回の放送で異様な存在感を発揮したのが、竹中直人演じる松永久秀である。
久秀は畿内などを支配した三好長慶(みよし ながよし)の重臣で、信貴山城(しぎさんじょう)を居城として大和を支配。長慶の死後は、養子である三好義継(よしつぐ)が14歳の若さで家督を継ぐ中で、久秀が実権を掌握し、京都・奈良・堺という経済都市を手中に収めた。
ドラマの冒頭では、上洛に成功した信長のもとに、挨拶をしに来た松永久秀が登場。いきなり三好の残党に襲われるも、即座に返り討ちにした。そうかと思えば、今度は細川家の家臣から「義輝様の敵! 覚悟!」と斬りつけられそうになり、豊臣秀吉と秀長の兄弟が、久秀を護衛している。
二度も襲撃された久秀を、信長は「たかだか10間ほどを歩く間に、二度も襲われるとは」と愉快そうに笑ってこう言った。
「さすがは、将軍を殺した男よ」
これは、三好長慶の死をきっかけに、弱体化していた室町幕府第13代将軍の足利義輝が権勢を復活させようとすると、義継と久秀の長男・松永久通(まつなが ひさみち)、そして、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らが京に攻め入り、義輝を殺害した事件のことを指している。
久秀はこの将軍殺害の首謀者と噂されており、宣教師のルイス・フロイスも〈若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる公方様の近親者をその地位に就かせた〉と、久秀の関与を著作『日本史』で書いている。
ただし、久秀は「将軍殺し」のときに大和にいたため、襲撃自体には加わっていない。ドラマの久秀が信長に「一向に身に覚えのないこと。濡れ衣でございます」と言い張っているのも、そんなアリバイがあるからにほかならない。
だが、長男の松永久通が関与している以上、「直接的には関わっていない」というだけで、久秀は殺害計画を容認していたと考えるのが自然だろう。
今回の放送では、そんな味方にすると頼もしいが、恐ろしくもある久秀をどう扱うべきかで紛糾する。
足利義輝公の代から将軍に仕えている細川藤孝と和田惟政(わだ これまさ)は大反対。細川は「松永弾正(久秀)はほかならぬ義昭公の兄君、先の公方様の敵なのだぞ!」と言うと、和田が「東大寺の大仏を焼き払い奉ったとも聞く」とあとに続いている。
どういうことかというと、将軍の義輝が暗殺されたのち、久秀と三好三人衆の関係は悪化。一時は劣勢に追い込まれた久秀だったが、永禄10(1567)年に東大寺に集まっていた三人衆を攻め破った。久秀側の戦いの中で大仏殿が炎上し、大仏も焼失したと伝わる。三人衆サイドの失火の可能性もあるが、後世では久秀の仕業として広く伝わり、久秀は“戦国一の悪人”とも称されることになる。
そんなエキセントリックな久秀を味方に引き入れるとなると、リスクも大きいに違いない。周囲が懸念するのも無理はない。
実際、その後の久秀は信長を二度にわたって裏切る。一説には、最期をめぐっては壮絶な“爆死”の逸話でも知られる久秀。その暴れん坊ぶりから目が離せなくなりそうだ。
「思い出などない、あるのは妬みだ」足利義昭が吐露した兄・義輝への複雑な情念
それにしても、個性的な人材を好む信長はともかく、将軍の義昭からすれば、久秀は兄の義輝の仇である。普通に考えれば、とても許すことはできそうにない。
しかし、ドラマでは義昭が「兄を殺したかもしれぬ松永久秀に対しても何も思わぬ」と言ったため、久秀への反発もいったん収まることになった。なぜ義昭は、兄の仇と目される久秀に強い憎悪をあらわにしないのか。その理由は、義昭の次のセリフに凝縮されている。
「わしは3歳で寺に入れられたゆえ、兄・義輝との思い出など全くない。あるのは妬みであった」
足利義輝は天文15(1546)年、わずか11歳で第13代将軍に就任。父の足利義晴から将軍職を世襲で引き継ぐ形となった。
その前日には元服の儀式が行われている。儀式で烏帽子親を務めたのは、近江の有力大名、六角定頼だ。だが、この元服式すらも京都で開くことができなかった。細川家の内乱が起きていたためである。
そんな中、細川晴元を裏切った三好長慶が台頭。天文18(1549)年の「江口の戦い」で晴元が長慶に敗れると、義晴と義輝の親子は近江に逃れることになる。
もはや将軍の権威は地に落ちていたといってもよいだろう。この頃には、将軍家は直轄領も直轄軍も保持していないため、有力大名に頼るほかなかったのである。
義輝はそんな状態で将軍を任されてからというもの、ずっと有力大名に振り回され続け、京に戻ったり近江に逃れたりを繰り返すことになる。
そんな苦難の中でも、義輝は権威を取り戻すため、天文21(1552)年に三好長慶と和睦。諸大名との関係修復や調停に奔走し、将軍家の権威回復に尽力した。
ただの傀儡の将軍では終わらない──。そんな義輝の気迫を見て、三好氏は警戒心を募らせたようだ。永禄7(1564)年、三好長慶が死去して体制が不安定になると、後を継いだ三好義継がその翌年に挙兵。二条御所を急襲する「永禄の変」を起こし、義輝は命を奪われることになる。
このとき義輝は死の間際まで壮絶な奮迅ぶりを見せたとされ、「剣豪将軍」として後世で語り継がれることになる。
一方の弟の義昭は、そんな兄との跡目争いを避けるため、3歳で出家させられている。兄の人生を後に知れば知るほど、自分とはまるで違う人生だと感じたことだろう。ドラマで描かれた義昭の兄への複雑な気持ちには、リアリティーがあるように思った。
明智光秀らが死守した本圀寺、敵兵の前に姿をさらした義昭の「将軍としての自負」
今回の放送では、信長が美濃に帰った隙に、勢力挽回を図るべく三好三人衆が、義昭のいる本圀寺を襲撃。京中に放火しながら本圀寺を包囲している。永禄12(1569)年1月に起きた「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」だ。
ドラマでは、義昭が追い詰められて死をも覚悟すると、秀長が「ぶざまでも生き延びてくだされ!」と説得する場面があった。
実際には、細川藤賢(ほそかわ ふじかた)や明智光秀らが寺内で防戦。なんとか三好の攻撃をしのいでいるうちに、池田勝正や細川藤孝らの援軍が駆けつけた。桂川付近で三好三人衆の軍を撃破することに成功した。
今回の放送では、三好三人衆軍が襲いかかる中で、義昭が危険を顧みずに外に出ていき、奮戦する者たちに「いま少しだけ持ちこたえよ。さすれば必ず味方が駆けつけよう!」と声を上げるシーンがあった。
勇敢にも敵兵の前に姿をさらしたのは、兄の義輝と同じく、義昭もまた「傀儡の将軍では終わらない」という思いがあったからだろう。そんな義昭の「将軍への目覚め」が、信長との関係性を難しいものにしていくのだが、それはまだ少し先の話だ。
この襲撃をきっかけにして、将軍の御所を作り変えようという機運が高まったようだ。信長は永禄12(1569)年に将軍・義昭の御所となる旧二条城を築くことになる。
今井宗久、津田宗及…茶会を通じて天下人をバックアップした「会合衆」の思惑
また、今回の放送では、信長が暴れん坊の松永久秀を迎え入れた理由として、軍師の竹中半兵衛がこう語った。
「信長様は松永殿を足がかりにして、この堺を手に入れるおつもりなのです」
半兵衛の読みは正しかったようだ。信長の命を受けると、豊臣兄弟は矢銭2万貫を納めさせるべく、堺の商人を説得することになる。
実際には信長が堺の豪商たちと交流を重ね、茶会を開催。一筋縄ではいかない堺の豪商たちを懐柔していく。
有力商人の組織である「会合衆(えごうしゅう)」の主要メンバーである津田宗及(つだ そうぎゅう)は、信長によって茶頭の一人として取り立てられる。同じく豪商の今井宗久(いまい そうきゅう)も信長の御用商人となり、天下人への躍進をバックアップすることになる。
この堺の地で、信長は鉄砲の大量調達を実現させる。秀長や秀吉が堺の商人たちと、どう絡んでいくのかも気になるところだ。
次回の第12回「小谷城の再会」では、信長と将軍の足利義昭との間に、隙間風が吹き始める。
【参考文献】
『完訳フロイス日本史』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)
『松永久秀 シリーズ・実像に迫る』(金松誠著、戎光祥出版)
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(竹内理三編、臨川書店)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)
筆者:真山 知幸
