《17歳で出産・18歳で離婚》「逃げグセのある人生を終わらせたかった」児童養護施設で育った女性がプロボクサーになるまで
母が6歳のときにいなくなり、児童擁護施設で育った葉月さなさん。中学卒業と同時に、施設を出て働き始めます。そして17歳で出産、その後結婚、離婚を経験。数奇な運命を辿りながら、行き着いた先はプロボクサーの道でした。
【写真】スポーツ未経験のシンママだったとは思えない、葉月さんの現在(9枚目/全11枚)
母が6歳のときにいなくなり夜の街を探し回った
── 30歳でプロボクサーとしてデビューを果たした葉月さん。幼少期から歩んできた道は波瀾万丈ともいえ、児童養護施設で育ったとうかがいました。
葉月さん:私が6歳のとき、母が家を出て行ったんです。朝起きたら、もう家にいなくて、父が「母が出て行ったから探してくる」と。幼いながらもやはりショックでしたね。父は子どもを育てるため、仕事で早朝から夜遅くまで家にいませんでした。私には2人の弟がいるのですが、姉弟3人だけで家にいるのは危ないということで、近くに住む祖母が毎日夕飯を作りに来てくれている状況でした。
どこかで母を求めて不安を感じて過ごしていた私たちは、ある日、夜遅い時間に真っ暗な中、子ども3人で母を探してまわったことがあって。「お母さん、来ていませんか?」と周囲の家に聞いて回って…。そこで警察に保護されたことがきっかけで、児童養護施設に行くことになりました。
── 真っ暗闇の中、お母さんを探していた幼い子どもの姿…。心が痛みます。施設での生活はどのようなものでしたか。
葉月さん:当時は一刻も早く施設を出たいと思っていました。朝、起きたら「これは夢だった」と安堵している姿を想像したり、明日には家族が迎えに来るという電話が入るんじゃないかとか…。そういう期待というか、妄想ばかりして過ごしていましたね。
というのも、施設内は当時いわゆる「縦社会」のような感じで…。10人くらいの共同部屋で、男性と女性でわかれていました。未就学児から高校生までで、縦割りされているんです。そこでは中高生が絶対的な存在で、当時の私はまだ6~7歳。怖かったですね。10人で布団を並べて寝るのですが、私を含めた小学生は21時には寝ていないといけなくて、本当に眠っているか、お姉さんたちは布団をめくって確認していました。そこで少しでも目が動いたりすると、ものすごく怒られるんです。ビクビクしながら生活していた、というのが小さいときの記憶ですね。
── ゆっくり眠ることができなかった生活だったんですね。
葉月さん:ただ、そういった「縦社会」は時代の変化もあり、私が中学生くらいにはゆるくなってきました。いまは個室という話も聞きますから。いっぽうで、施設での生活はいい面もあって、食事はぜいたくでした。私は「腹18分目」くらいたっぷり食べられたし、毎食、フルーツも出て。学校にもふつうに通えて、施設に帰れば同世代の遊ぶ友だちもいる。そういう意味で、さみしい思いはしなかったですね。
17歳で出産し翌年結婚も3か月で離婚へ
── 施設を出たのは、中学卒業と同時にですか?
葉月さん:はい。父が迎えに来てくれて。その後は大阪に住む父と暮らしたり、母とも16歳のころ、祖母を通して連絡を取ることができて再会し、一緒に暮らしていた時期がありました。母は私の故郷である福岡県で暮らしていたので、私も故郷で暮らしたいという思いがあって。ただ、一緒に生活を始めたものの、気持ちの面では離れていたように感じました。あとは当時の交際相手のところに転がりこんだりしたこともあって、フラフラしていましたね。そして17歳のときに妊娠が発覚。同級生の彼との子どもでした。
── 妊娠がわかって、率直にどう思いましたか。産む決断はすぐにできたのでしょうか。
葉月さん:家族とバラバラで育ったこともあり、自分自身は早く家庭を持ちたかったんです。理想とする温かい家庭をずっと思い描いていたので、中学生のころから子どもがほしいと思っていました。だから、妊娠がわかったときはすごくうれしかったです。
母に「産みたい」と言ったら、「じゃあ、産みなさい」と。いろいろと口出しする母ではなかったですね。子どもの父親となる交際相手も私も17歳だったので、法律上、籍は入れられませんでした。その後、彼とはくっついたり離れたりを繰り返して、18歳のころに籍を入れたのですが、3か月で離婚しました。そこからはずっとシングルマザーです。
プロボクサーになるまでは「逃げる人生」だった
── まだまだ甘えたい幼少期に親と離れて生活したり、10代後半には出産や離婚といった大きなできごとが重なったんですね。シングルマザーとしては仕事もしていかないといけない状況でしたよね。
葉月さん:そうですね。でも、昔の私は「逃げグセ」があって、仕事はもちろん、何をしても長く続かなかったんです。施設にいたときに、有名なスポーツ選手が訪問してくれた機会があったんですけど、「夢は叶うんだよ」と言われても、「いいや、あなたは恵まれた人じゃないですか」みたいなふうに思って、ちょっとひねくれた考え方をしていた自分がいて。
そんななかで、30歳を目前にしたころ、ボクシングを始めるきっかけがありました。当時働いていた職場の社長がボクシング経験者で、サンドバッグが事務所にあったんです。そこで運動がてら、やってみたんですよね。私の弟が自死をした時期でもあり、物にあたることでどこかにつらい思いをぶつける、気持ちをそらすという面もあったと思います。
そこから自分が変わり始めたんです。弟の死で自分の人生を見つめ直した部分がありましたし、息子にも努力している姿を見せたいと思い始めました。ボクシングで世界を目指す自分を想像したら鳥肌が立ったので、職業としてピンとくるものがあったんだと思います。それからですね、「逃げる」ではなく「立ち向かう」というスタンスを取り始めたのは。
そして子どものころ、有名なスポーツ選手に対して「あなたは恵まれた人」とひねくれていた自分を知っているからこそ、いま児童養護施設で過ごしている子どもたちにも、「施設出身のプロボクサーとしてリングに上がっている私」を通して、夢を見せてあげたい、目標になりたいなって思っています。
── 育った児童養護施設にも貢献されていますよね。
葉月さん:直接、子どもたちにお話しさせてもらった機会は一度だけですが、試合ごとにクオカードをつくって、施設に持って行ったりしています。その際、園長先生にも近況報告をして。「同じ教遇で育って、しかもフラフラしていた人間が、自分の気持ちひとつでここまで来られる」っていうのは、不可能はないことの証明になるんじゃないかと思っています。
私が有名になることで世間の方々が児童養護施設を知るきっかけにもなると思いますし、境遇は関係なく、目標に向かってただしっかり進んでいけば、実を結ぶときがやってくる。これはきれいごとではなく実体験です。私という存在を通して、「努力を続ける姿勢」というものを、同じ境遇で過ごす子どもたちにも伝えていきたいです。
…
葉月さんがボクシングを始めた理由のひとつは、息子さんへの負い目があったから。17歳で出産し、その後に結婚や離婚を経験。シングルマザーとして仕事や子育てに励むも、やはり子どもに寂しい思いをさせていたなどの思いも。「嫌なことがあれば逃げてばかりの人生だったけれど、そんな自分ではいざというときに息子を支える存在にはなれない。そのためにはまず、自分が何かに向かって頑張らないといけない」と思ったそう。それまで運動未経験だったにも関わらず、ボクシングにのめり込み、30歳でプロデビュー。令和元年にはOPBF女子東洋太平洋ミニマム級王座に挑戦し初のタイトルを獲得するなど、活躍を続けています。
取材・文/高田愛子 写真提供/葉月さな
