<永遠の向田邦子> 向田和子×伊吹有喜 五十歳のスタートライン
飛行機事故での逝去から今年で40年。今なお向田邦子の作品は愛され続けている。
脚本から小説へと進んだ向田作品の原点は、いったいどこにあったのか――
お礼状でもう一回椿餅が
伊吹 今日はお目にかかることができ、とても光栄です。自宅から向田先生の御本も何冊か持ってきました。
向田 うちの姉は「先生」っていうタイプではないから、「向田」にしてください。きっと居心地悪いって言いますよ(笑)。
伊吹 それじゃあ「邦子さん」ってお呼びしちゃおうか……いや、それも恐れ多いので、「邦子先生」では?
向田 いいんですよ、「邦子さん」でも「お姉さん」でも。
伊吹 かえって緊張するので、せめて「向田さん」にします(笑)。私と向田さんの初めての出会いは、小学生時代にテレビで偶然にみた、『阿修羅のごとく』(一九七九年/NHK)でした。パート1の「虞美人草」の回で、母親が夫の愛人のアパートの前に立っているところを娘に見られ、倒れてしまうという場面だったんですが、その母親の買い物かごに入っていた卵が割れて、黄身がどろっと流れ出すというのが、子供心にもすごく強く残って。あのシーンでは有名なトルコの軍楽曲が鳴っていたイメージをずっと持っていました。
向田 『阿修羅のごとく』というと、皆さんトルコ軍楽曲(ジェッディン・デデン)が頭に鳴っちゃうんですよ。

むこうだかずこ 一九三八年東京生まれ。短大卒業後に会社勤務を経て、小料理屋・ままやを二十年間営む。長姉・邦子の著作権を受け継ぎ自らエッセイも多数。 写真:石川啓次
伊吹 ところが今回、対談にあたってアーカイブで見直してきたら、あそこで音楽は入っていなかったんです(笑)。大人になって改めて見ると、その後で母親が亡くなり、ラストシーンで喪服姿の四姉妹が振り返る場面が印象的で、まさに「女は阿修羅だ」と唸らされました。もちろん子供の頃はそんなことは考えず、ただ、ビックリさせられたことだけはずっと覚えていて。飛行機事故で亡くなられた時の衝撃も大きかったです。活字で初めて向田作品に出逢ったのは、高校時代、友人が誕生日に贈ってくれた『寺内貫太郎一家』(新潮文庫)でした。
向田 『阿修羅』と『寺貫』とは、ずいぶん対照的ですね。
伊吹 その差にとても惹かれまして。さらにもう一回、夢中になって拝読するようになったのが、就職して出版社に勤め出してからです。
向田 姉も若い頃は出版社(雄鶏社)に勤めていました。基本的には編み物の本がメインで、唯一の映画雑誌の編集に携わっていたんですが、作家になるきっかけがそこにあったのかどうか、私にはよく分からないんです。ただ、昔から文章を書くのはうまくて、保険会社に勤めていた父のところへ届く盆暮れの贈り物へのお礼状を、代わりに書いたこともありました。食べ物のことだったから、私はよく覚えているんですけれど、ある時、送られてきたお菓子が椿餅で、届いた時には箱の中で偏って、形がペシャンコになっていたんです。それでも美味しくて、姉がお礼状を返したところ、その内容に感動した送り主が、もう一回、今度は完璧な形の椿餅を送ってきてくれました。その時に「お姉ちゃん、手紙を書くのがうまいんだな」と(笑)。
伊吹 想像するに椿餅のおいしさや、葉のつやつやした感じとお餅の組み合わせの妙をお書きになったうえで、「残念ながら傾いていたのもまた一興」みたいな感じで書かれたのかな。

いぶきゆき 一九六九年三重県生まれ。二〇〇八年「風待ちのひと」でデビュー。二一年『犬がいた季節』が本屋大賞第三位、『雲を紡ぐ』が高校生直木賞受賞。 写真:石川啓次
向田 父は筆まめなほうで手紙を代筆させるようなことはあまりなかったんですが、とにかく姉はそういうところは機転が利くんです。あとは小学校の夏休みの日記なんかも、私が何も書いていないのにへっちゃらでいるのを知ると、嬉々として代わりに書いてくれました。
伊吹 あまりに上手すぎて、逆に困ることはなかったですか。
向田 中学に入ってからも私の作文を代わりに書きたがって、それを提出したところ随分褒められたので、さすがにまずいと思って止めました。だけど、中学三年生の三学期に私が入院し、試験と宿題の作文が重なってしまった時だけは、姉に作文を頼みました。出来上がったものを一読して「私にはこれは書けない」と、はっきり分かりました。特に難しい言葉は何も使われていないのに、そこには色彩があって、本当に胸に詰まる作文でした。それ以来、姉に代わりに書いてもらうのは、一切止めたんですが、懲りもせずに書きたがるんですよ。私の就職試験の時に出された課題にさえ、「私が書いてあげる」と嬉しそうに言うんです。
伊吹 向田さんはそれを楽しんでいらっしゃったんだと思うし、私だったらお願いしてしまいそう(笑)。
向田 そもそも就職試験自体を姉のコネで受けさせてもらっているわけで、さすがにそこまで呑気ではいられません。丁重にお断りしました(笑)。
作家になるまでの修業時代
伊吹 私は文字を書くのが昔から好きで、父の持っていたインク壺につけて書くタイプのペンが、ずっと欲しかったんです。十歳になる頃、それを譲り受けてからは、そのペンで文字を書くことが、とにかく嬉しくて。読書も好きでしたが、ペンをもらってからは、読むだけにとどまらず、音の響きやリズムの好きな文章をまねて、他愛のないことを書くのに熱中しました。ペンで文章を書いていると、大人になれた気がしたんです。
向田 同じ作家でも全然違います。私は家で姉が本を読んでいるところを、一回も見たことがない。
伊吹 こそっと大人の本を、読まれていたのでしょう(笑)。
向田 高校時代、真夜中に起きると、姉の部屋の欄間から光が漏れてきて、「まだ勉強しているんだ」と思ったことはありましたが、本を読んでいる姉の姿は想像できないですね。家に帰ってくるといつも働いていて、そうでなければ父に付き合って、トランプをやったり麻雀をやったり、花札をやったり(笑)。当時を思い起こすと、やはり将来物書きになるというイメージは全くなかった。
伊吹 私は小学校二年生の頃の文章を見ると、「絶対に小説家になります」と書いているんです。作家はものすごく憧れの職業だったんですが、私の周りには、東京や大阪や京都などの大都市と違って、プロの文筆家はいませんでした。それこそ作家になるのは、「ハリウッド女優になる」とか「宇宙飛行士になる」くらい縁遠いことだと思っていまして。そんな雲をつかむようなことを考えていないで、手に職をつけなきゃ、と。弁護士資格を目指すことを決心し、法律の勉強をするために上京したんです。ところが大学に入学して、法律を学び始めたらそれは向いていないことが、すぐに分かりました。
向田 変な言い方ですけれど、「向いていないこと」が分かったのは、伊吹さんにとってラッキーだったかも(笑)。
伊吹 そうなんです。民法の離婚や相続の問題を扱う分野は興味深かったし、刑事ドラマが好きだったので刑事訴訟法や刑法ならしっかり勉強できるかとも思ったんですけど、法律の議論に参加しても、たいした意見も言えず、場の雰囲気を味わっているだけになってしまう(笑)。在学中の司法試験は全然で、名古屋の法律事務所で働きながら司法試験にチャレンジしようと一度は決めました。
でもやっぱり本や雑誌に関わる仕事がしたくて、駄目でもともとで出版社を受けたところ、採用してくれる会社があったんです。そこで、自分は出版の世界に入って編集者になるんだと思っていたら、最初は販売促進関係の部署に配属されまして。現在でも交流が続いているほど人には恵まれたものの、やはり色々と迷うこともあり、脚本の勉強をはじめました。この時期に、向田さんのシナリオと改めて向き合うことになったんです。やはり『阿修羅のごとく』はすべての要素が入った、緊張感のあるもので圧倒されました。
向田 そうですね、はりつめた緊張感。あとは本当に女が怖い(笑)。
伊吹 脚本の世界も怖いと同時に感じました。小説は地の文と会話から成り立っていて、その両方の調和が大事なんですが、脚本では地の文がなくてト書きのみ。最初は軽く考えていて、生き生きとした感じのセリフとト書きだったら、小説よりも脚本の方が早く書けるだろうと思っていました。ところが映像と会話ですべてを表現するというのは、小説とは全然違う表現方法で難しい。そんなに簡単なものではなかったんです。
向田 姉も最初の頃の脚本は、本当に下手くそだったみたいですよ。演出家の久世(光彦)さんから聞いたんですが、一時間物の中で、場面が一つも変わらないで物語が進んでいく。当時すでに役者としてテレビの世界で重鎮だった森繁(久彌)さんが、「変なお姉ちゃんを連れてきちゃったな」と―最初はどうにもならなくて、頭を抱えたそうです。もっとも、妹に悪口ばかりじゃ申し訳ないと思ったのか、「でも一つか二つ、誰にも書けないようなセリフがあって、それを生かそうという気にはなった」という久世さんの言葉が印象に残っています。

向田邦子さん
伊吹 おそらく向田さんは脚本を書いていくうちに、ドラマの限られた時間内で、きっちり盛り上がりを作ってから最後はきれいに着地する。さらには最終回に向けてテーマ性、ストーリーの展開、面白い要素、登場人物の深みなど全ての要素を、決まった枚数の中に毎回、伏線として織り込んでいく技術を会得されたのではないでしょうか。これは小説を書く技術にも共通するものです。
私は若い頃は小説をどうしても最後まで書き終えることができず、未完のままがずっと続いていました。ところが二十代の終わりに脚本の投稿生活をしていて、原稿用紙百枚の規定に対し、四百枚を書いて縮めるのに四苦八苦していた際、それを読んだ夫から「長編小説の内容だから、無理やり縮めることはない。この題材は小説で書くべきだ」と言われ、三十代で再び小説に戻りました。その時、脚本で学んだ、最終回に向けて書いていく技術が小説に生かせたんです。
向田 ああ、なるほどね。
伊吹 ただ脚本から小説に移行するのは大きな問題が一つあって、それは地の文の問題です。小説は何気ない地の文の中に、登場人物の心情を託したり、風景描写に時代の匂いや季節感を入れたり、会話につながる情報を入れなくてはいけない。それを感じさせないようにさりげなく、作品の雰囲気に合った形で。また、脚本であれば誰が喋っているかは、セリフの上に示されていますが、小説は地の文の段階で誰のセリフか分かるように書かなければならないのも難しい。そこは向田さんでも悩まれたのではないかと拝察しますが、今、作品を読むと、地の文もただただ素晴らしいと思うばかりです。
お店の中をウロウロと
向田 脚本から小説へ転向する時、姉がずいぶん悩んだだろうというのはその通りだと思います。最初の短編連作『思い出トランプ』の担当者は、新潮社の横山(正治)さんという方だったんですが、原稿用紙二枚くらいを書いて、それをまずお渡ししていたんです。お店(ままや)の開店前にそこで待ち合わせをして、その場で原稿を読んでチェックしてもらうんだけど、姉はすごくドキドキするらしく、お店の中をウロウロ歩き回っていました。やはり姉は脚本と小説が違う部分で、納得がいっていなかったんですね。
だからOKが出ると、私がこれまで見たことがないような笑みを満面に浮かべていました。二人の会話がよく聞こえたわけではないんですけど、これで続けられる、この調子で続けていいんだ、って。横山さんとは、その後も何度か「ままや」でお会いしましたが、褒め上手の方でしたね。その意味でも、うちの姉は運がよかったんだと思うんですよ。

小料理屋「ままや」で働く和子さん(右)とカウンターの邦子さん
伊吹 出会いって大事ですよね。
向田 当時の「小説新潮」の編集長は、姉と実践女子専門学校で同級生だった、川野(黎子)さんでした。川野さんは姉に対してあれこれ細かく言うことはしなかったけれど、本当のところではズバッと言ってくださる方でした。姉がせっかちなことや、褒めたら木に上るようなタイプだということも見越して、横山さんを担当編集につけてくれた気がします。
伊吹 向田さんの小説を読んでいると、時々、ドキドキするような表現が出てきます。たとえば長編小説『あ・うん』(文春文庫)の中に、新品の靴を「若いけものの匂いがした」と描写する。その一文にすごく情緒があって、その感覚と言葉の選択に独自のものを感じます。おそらく編集の方々は、そうした感性にも魅せられたのだと思います。
向田 本を読むのは好きでたくさん読んでいたかもしれませんが、それまではエッセイと脚本しか書いていなかったわけで、いざ自分が小説を書く時は色々と勝手が違ったはずですよね。編集者の方との出会いで「姉の書くものがこんな風に変わっていくんだ」と、私はその様子を面白く見守っていました。
エッセイも書きたい題材が書きはじめた頃とは違ってきて、突然、質問が飛んできたりしました。「この頃、気になった女優さんはいる?」とか「戦争で一番記憶に残っていることは何?」とか、普通に家で料理を作っているような、何でもない時に聞かれるんです。パッと答えないと機嫌が悪くなるので、「エッ、戦争? おばあさんの背中」と答えたのが、『父の詫び状』(文春文庫)に収録されている「ごはん」に出てくるエピソードで、三月十日夜、東京大空襲での出来事です。
伊吹 東京大空襲のことは、自分が『彼方の友へ』(実業之日本社文庫)を書く時に、生存者の方の記録やアメリカ側の記録も含めて、ずいぶん色んな資料を読みました。昼間のように明るくなっている夜空を、想像もつかない数の飛行機が埋め尽くしたというのは、尋常ではない状況ですよね。
向田 本当に手が届くほどの低空で飛行機が飛んでいるのに、ここでは焼夷弾を落とさないだろうと平気で見ていたり、今考えてみたら、完全に感覚が麻痺していました。異常事態に犬の鳴き声も狼のような獣の声で、赤ん坊の泣き方も生半可ではなかった。そういうまともじゃないことが起きるのが戦争です。
私はあの夜、もしかすると死んでいたんですよ。兄(保雄さん)と一緒に、水に浸した夏掛けの布団を、火除けのため頭に被って逃げたんですが、予め行く場所は油面小学校のプールの方だと決まっていました。ところが途中で反対方向へ逃げて行く人が多いことに兄が気づいて、逆方向を目指したから命拾いしたんです。空襲警報が解除されて帰る時に、ずいぶん遠くの知らない場所まで来てしまって、お腹も空きました。そこで兄が「カンパン食べよう」と言ってくれて、私が「でも食べたら叱られる」と答えたら、「僕が責任持つから」って。長い間、カンパンのことしか覚えてなかったんですが、兄が亡くなってから、あの夜、私は兄に助けられたんだ、と改めて気づきました。
伊吹 でもそうやって思い出されたということは、忘れていたわけではなく、記憶の奥底に大事なこととして、しまわれていたのではないでしょうか。
思いもよらなかった記憶
向田 伊吹さんの書かれた『彼方の友へ』の冒頭に、自分の「ハツ」というカタカナの名前が嫌で、いつもは「波津子」と書いている、大正生まれの女性が登場しますよね。
伊吹 はい。当時は「子」がついているというのが、ハイカラだったんです。
向田 この小説を読むまで思い出すこともなかったんですが、私は昭和十三年生まれで、その年代は「和子」という名前がすごく多いんです。小学校の帰り道で「和子ちゃん」と呼ばれたら、二、三人が振り向くような感じで。
伊吹 私の伯母も和子です。
向田 あまりにもありふれた名前が安易に思えて、母になぜ和子という名前を付けたか聞いたことがあります。そうしたら母はとても嬉しそうに、「和子ちゃんは一番年下だから、大きくなって家族が喧嘩をした時でも、あなたが和ませられるように和子と名づけたのよ」と言ったんです。

向田三姉妹
伊吹 昭和や平和の「和」ではなく、和みの「和」だったんですね。
向田 その時は、自分が誰かを和ませることなんて出来るはずがないと思ったんだけれど、母がスラスラ答えてくれたことが嬉しくて。そしてその後、「わたしは『せい』という名前が嫌なのよ。やっぱり『子』がつくのはいいわよね」と言った母の姿が、『彼方の友へ』を読んだ時に、久しぶりによみがえりました。
普段はそんな風に小説は読まないんだけれど、『犬がいた季節』(双葉社)の神戸の震災の場面では、あの時に神戸の友人に電話をしてもがらなくて心配していたら、二日後に本人が電話をくれたことを思い出しました。私はもうじき八十三歳の遅すぎる終活をしているんですが、伊吹さんの小説が、まったく想像もしないところで、親や友人との思い出を呼び覚ましてくれて、本当にありがとうとお礼を伝えたかったんです。
伊吹 とても嬉しいお言葉です。
向田 『雲を紡ぐ』(文藝春秋)については、私も編み物が大好きで、ホームスパンという手仕事が好きだし、盛岡に住んでみたい、素敵な喫茶店に行ってみたいと、何度も思いました。この程度の感想で何だか申し訳ないんですが、お祖父さんが主人公の美緒に、自分の色を決めるように言いますね。美緒がすごく迷って、最終的に決めていく過程をとても好きになりました。高校生直木賞に選ばれたというのも、よく分かります。
分かりすぎてしまっていた
伊吹 私にとって向田さんの作品は、まず脚本の『阿修羅のごとく』が鮮烈ですが、エッセイからも多くのことを受けとりました。人間というのは清らかな時もあれば、そうでない時もあり、きれいな格好をしている時もあれば、つっかけ履きの時もある。そうした人間の表や裏、人生の哀歓をすべて見通しつつも、「そういうものだよね」という温かいまなざしを感じて、私は脚本を勉強している時はもちろん、作家になってからも励まされてきました。さらにもう一冊を挙げると、実は今日も持ってきたんですが、和子さんの書かれた『向田邦子の手料理』(講談社のお料理BOOK)も、新刊の時に初版で買っています。
向田 本当ですか。
伊吹 二十代の頃から何度か引っ越しをしましたが、この本はずっと持ち歩いてきました。じっくり読んでも、パラパラっとめくっているだけでも楽しいし、お写真も素敵です。
向田 私もきちんとお料理を習ったわけではないし、姉と一緒に作ったといっても大したものを作ったわけじゃないんですけど、何しろお料理を作っていても、お酒を飲んでいても、姉と一緒にいると楽しかったですね。肉じゃがなんかをよく作りましたけど、食べ物にはピンからキリまであることを知っておいた方がいいからと、私や母をよくいいお店に連れていってくれました。私もお店で働いているし、自分で支払いはすると言っても、「この次ね」と、最後まで奢られっぱなしでした。
直木賞のお祝いでは、「吉兆」に連れて行ってもらったんですが、その帰りのタクシーで「私はまだ小説家になって間もないから、スタートラインに立ったばかり。一歩一歩やっていくよ」「私も五十歳になってまさかのスタートラインに立ったから、あなたも幾つになってもスタートラインに立てるよ。最初は五十点かな? 私もまだ八十点だよ」と言っていたのを最近、よく思い出します。
伊吹 確かに向田さんは五十歳で小説に進まれたわけで、本当にその時は覚悟を決めて新しい道に進まれたと思います。その言葉は励ましというか、和子さんの背中を今も押していらっしゃるんですね。
向田 姉はすごく飛んでいるように見えて、昔のものを大切にして捨てられなかったり、人間関係にしても、やはり昭和の人で、昔気質なところがありました。どこかドライに割り切れないところが、優しいという言葉に置き換えられるのかもしれませんが、色んなことが分かりすぎてしまっていたようにも思います。自分が八十歳を過ぎて、昔母が言っていた衰えを実感するようになったんですが、姉は四十代後半で、もうこうした感覚を分かっていたんじゃないかとも。

向田和子さん(右)伊吹有喜さん(左) 写真:石川啓次
伊吹 向田さんはエッセイの中で、ご自身の書くホームドラマというジャンルは、他の分野に比べて軽く見られがちだと嘆いていらっしゃいます。でもホームドラマであるがゆえ、どんな時代にも通じる普遍性をもっていると私は感じます。そこに描かれる肉親の情や業の深さ。ままならない相手を好きになったり、夫婦間に倦怠期がおとずれたりすることで生じる思い。それは令和も昭和も変わらず、おそらく古代も未来も人は同じような思いを味わっているはずです。そこを掬い取って描かれた向田作品は、『あ・うん』にしても『隣りの女』(文春文庫)にしても、随所に心をつかまれるセリフがたくさんある。これからも、若い読者もふくめて、そこにドキドキさせられ続けていくと思います。
向田 姉が亡くなった時、正直、「向田邦子」がここまで続くとは考えてもいませんでした。十五年間くらいは久世さんの力でスペシャルドラマを放送してくださったことがよかったのかもしれませんが、いずれにせよ脚本だけではそんなに続かなかったと思います。そこである時、姉の作品は、マスコミや編集者、読者の方たちに、死んでからも育てられていることに気づいたんです。
こうした皆さまへ私が出来るお礼として、最後の打ち上げ花火として、今年一月に青山SPIRALで没後四十年の特別イベントを開きました。コロナ禍で大変なことも多かったですが、色々と取り上げていただいたおかげで、会期後半は入場待ちをする列ができるほど盛況でした。「いま、風が吹いている」という題のイベントでしたが、姉から「和ちゃん、本当に風は吹いたの?」と聞かれたら、すぐに「吹いたよ」と言えますね。きっと姉も喜んでくれていることでしょう。
「オール讀物」8月号より
